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第3話
オレンジ色の温かな色合いの間接照明が灯された薄暗い部屋。家具はどれも高級な設えで、さすが五つ星のホテルだけあった。部屋の真ん中に置かれたクイーンサイズのベッドの上で、シーツにくるまって横になりながら、ルシアンは溜息をつく。無意識のうちについた溜息だったが、隣にいたジュリアンがそれを聞いて半身を起こした。
「どうした? 何か……気になることでもあるのか?」
「あ……ごめんなさい。何でもないんです」
ジュリアンはルシアンの頬に手を当てる。
「きみは全然変わらないな。四年前のままの美しいルシアンだ」
「……そんなことありません」
「そういう素っ気ないところ、あの子に本当にそっくりだな」
「……テイラーさんの想い人……ですか?」
「ああ。生意気で口も態度も悪くてね。だけど顔はすごく可愛いんだよ。顔だけ見てたら、天使みたいな子なんだけどね」
ふふ、とジュリアンは思い出し笑いをする。
「ルシアンは変わってないけど、あの子は変わってしまった。四年前はまだ子供だったのに。……この間ね、彼に会いに行ったんだ。どうしても会いたくてね。四年前のあの子はもうどこにもいなかったよ。もう可愛い、なんて言ったらいけないぐらい、とても綺麗になってた……」
どこか遠い目をしてジュリアンはそう言った。
「ごめんね。ルウと一緒に居るのに、違う子の話なんかしたりして」
「いいんです。……僕は、あなたの一番にはなれない、って知ってますから」
「……ルウは本当に物分かりが良いね。きみのそういうところ好きだよ」
「そう言って貰えて嬉しいです……」
悲しい目をしてルシアンはそう答える。部屋の中が暗くて良かった、と密かに彼は思っていた。そうでなければ、今にも泣き出しそうなこの顔をジュリアンに見られてしまう。
――物分かりがいいんじゃない。……もう、諦めただけだ。
切なくて辛い片思い。
出会ってからずっと彼だけを好きでいたのに。
彼らが出会ったのは五年前のことだった。ジュリアンがランズデールへ靴を買いに、ルシアンが勤務を始めたばかりの紳士靴売り場へやって来たのがきっかけだったのだ。
ルシアンがジュリアンと知り合ってから、ベッドを共にするまで、そう大した時間は必要なかった。ジュリアンはルシアンの美しさに惚れ込んで、毎日のように店に通ってきた。ルシアンは最初こそ戸惑っていたものの、熱心に口説く彼にすぐに心も体も許してしまった。初めての恋だった。
それなのに、一年ほど経ったある日、突然ジュリアンは言ったのだ。
「ごめんね、ルウ。僕、好きな子が出来たんだ」
ルシアンはショックだった。自分一人だけが彼の心を独占している、とそう思っていた。自分だけが彼の特別なのだ、と。それなのに、そんな自分の存在価値を打ち砕くような一言を、なんという事も無くジュリアンは簡単に言ってのけたのだ。
ルシアンはどうしたらいいのか分からなかった。
ジュリアンは好きな子が出来た、とは言ったが、ルシアンとは別れる気はまったくないようで、そう言った後も変わらずに付き合いを続けていた。
ルシアンの心は複雑だった。以前のように自分一人だけをジュリアンが好きでいてくれる訳ではない。彼の心の中には違う人間が今やいるのだ。
けれど、ルシアンは何も言わなかった。
言えなかったのだ。
彼にとっては初めての恋だった。それを自分の手で失う事は出来なかった。
辛い逢瀬が続いた。
それでもジュリアンと会って、話をして、彼に抱かれることが、唯一自分が幸せを感じられる瞬間でもあった。
そんな時間が永遠に続くのか……と思っていた矢先、突然ジュリアンの消息が途絶えてしまった。店に来なくなり、携帯も通じない、メールをしても返信もなく、やがてルシアンは諦めて彼の事を忘れ去った……筈、だった。
それが四年ぶりに、突然彼が目の前に現れたのだ。
四年もほったらかしにされて、怒るべきだったのかもしれない。だが、ルシアンにとっては、怒りよりも再会出来た喜びの方が大きかった。
「……どうして、ロンドンを離れたんですか?」
ルシアンはジュリアンの方を向くと尋ねる。
「突然ベルリンで仕事しなくちゃいけなくなってね。あまりにも急だったから、きみに挨拶も出来なくて……本当にごめん」
ジュリアンはそう言うと、ルシアンの額に軽く唇をあててキスをする。
「いえ……いいんです。あの、またベルリンに戻るんですか?」
「いいや、しばらくはロンドンにいるよ。こっちにギャラリーをオープンすることになってね。フラットも借りる予定で今場所を探してるところなんだ。ここのホテルの部屋はそれまでの仮住まいってところ」
五つ星ホテルの部屋を仮住まいに出来るなんて、アートディラーの仕事って儲かるんだな、とルシアンはぼんやり考える。
いつもジュリアンはルシアンから値段も見ずに靴を何足も買ってくれるし、外で会う時は一流レストランで食事をしたり、今までに足を踏み入れたこともない高級ホテルのバーで高いお酒を飲ませてくれる。彼が身につけているスーツも見るからに高価なもので、ルシアンは彼の仕事内容を聞くまで、一体何をしている人なのだろう、とずっと疑問に思っていたくらいだ。
「そうだ、ギャラリーのオープニングパーティにルシアンも来てよ。招待状が刷り上がったら店に持って行くから」
「僕なんかが行ってもいいんですか? 何だか場違いな気がしますけど」
「そんなことないよ。ルウが来てくれたら嬉しいな」
ジュリアンはそう言ってルシアンの隣に潜り込むと、彼の華奢な腰に手を回して抱き寄せ、首筋にキスをする。
――どうして……僕じゃ駄目なんですか……
何度も口先まで出かかって飲み込んだ言葉を、ルシアンは思い出す。
毎回彼に抱かれる度に、キスされる度に、甘い言葉を耳元に囁かれる度に、何度も何度も繰り返しその言葉が脳裏に浮かんでは消えた。
多分、その言葉をジュリアンに向かって言った途端に、簡単に魔法は解けてしまう。ジュリアンはまるで煙のように消え去っていなくなるだろう。ルシアンにはその事が分かっていた。だから、その言葉を絶対に口にすることは出来なかった。
ルシアンはジュリアンの背中に両腕を回す。
――今だけは、彼は僕のもの。
ルシアンは会ったことも見たこともないジュリアンの想い人の事を考えながら、やり場のない嫉妬心に苛まれていた。
朝10時にランズデールが開店すると、真っ先に客達が向かうのは大抵フードホールだった。ここにはカフェやコーヒーバーなどがあるので、買い物がてら朝食を食べに来る客達が大勢いるのだ。
リアムはそんな活気のある売り場にいたので、紳士靴売り場の朝の静けさにはどうしても慣れなかった。
慣れないと言えば、ルシアンの素っ気ない冷たい態度にも、未だ気を遣ってしまう。これが普通なのだ、と頭では理解出来るようになったものの、今まで周りにいなかったタイプの人間なので、どうしても気になってしまうのだ。
ルシアンが素っ気ない態度なのは、何もリアムに対してだけではなく、誰にでも……それこそ客に対してもそんなところがあるので、気にしすぎる必要はなかったのだが、それでも自分の勤務態度が悪かったせいで、ここのスタッフが自分と交代させられた、ということがどこか負い目になっていた。
ルシアンは相変わらず普段と変わらなかったが、この日の彼は少しだけいつもよりも浮かれているように見えた。そんな様子を見て、リアムは、前日のルシアンとジュリアンの様子を思い出し、一体彼らの関係は何なんだろう……と気になって仕方なかった。
そんなリアムの思いを知るよしもなく、ルシアンは彼に声をかける。
「悪いけど、ストックルームで探して欲しいものがあるから一緒に来て。ジャック、しばらくここの売り場離れるから、見ててくれる?」
ルシアンは隣の皮革売り場の店員に声をかけると、リアムを伴ってストックルームへ入る。
「このブランドのこのナンバーの茶色、サイズ9を至急探して欲しいんだ。あと10分でお客さんがピックアップに来るから」
ルシアンはそう言ってメモをリアムに見せる。そこにはブランド名とロットナンバーが書かれていた。
ストックルームは狭いが、靴箱がずらりと棚に並んでおり、床にも棚に入りきれない箱が積み上げられていた。その中から同じ番号の物を手分けして探す。
たまに顧客から突然電話が入り、無理な注文をしてくることがあるのだが、これもそんな顧客の要望だった。
同じブランドの靴は大体同じような棚の場所に並べられているのだが、細かく整理されている訳ではない。こんな急な場合は、とにかく手当たり次第に箱の番号を調べるしかなかった。
「見つかった?」
ルシアンが尋ねてくる。リアムは「いえ、こっちにはありません」と答えた。
ルシアンが床に積まれた箱を、膝をついて下から順番に見ていたが、やがて目的の番号があったらしく「ここにあったから、もういいよ」と言った。
しかし箱が一番下だったので、それを取り出すのに苦労している。リアムは上に積み上げられた箱を持ち上げた。
「……ありがとう」
ルシアンは箱を取り出すと、リアムを見上げてそう言った。
リアムはその時、ルシアンのシャツの襟元から覗く白い首筋に、薄紅色のマークを見つけて、どきりとする。
――キス、マーク?
「……あの、フレミングさん」
「……何?」
「昨日の夜は……テイラーさんと食事に行ったんですか?」
ルシアンは驚いた顔をして立ち上がる。
「何? どうしてそんな事訊くの? きみには何の関係もないだろ?!」
ルシアンは怒りに震えて言い返す。
リアムはそんな様子を見て一瞬怯んだが、もう自分の気持ちを抑えておくことが出来なかった。
「関係なくなんてないんですよ!」
そう言ってリアムは、ルシアンを勢いよく壁に押しつける。ルシアンの手から靴箱が落ちて靴が転がり出た。そして彼がよろけた拍子に、足が側に積んであった靴箱の山に当たって崩れると、中から靴が出て床に散乱する。
「きみには関係ないだろ? 一体、何なんだよ……?」
ルシアンが目を見開いてリアムを見つめる。その瞳には冷たい色はもうなかった。そこにあったのは戸惑いと困惑。ルシアンにはリアムが何を言っているのか、まったく理解出来なかった。
リアムはルシアンの問いには答えず、黙って抱き締めると彼の唇を塞ぐ。ルシアンは突然のことに呆然として、リアムのキスを受け入れていたが、自分が置かれている状況に気付くと、ハッとなって彼を両手で押し返した。
「な、何するんだよ……」
ルシアンは手の甲で口を押さえると、リアムを睨み付ける。
「す、すいません」
ルシアンの剣幕に押されて、リアムは思わず謝ってしまう。それを見たルシアンは一瞬泣きそうな表情になったが、すぐに屈み込んで、探し出した靴箱から転がり出た靴を拾い上げて、箱と共に抱えるとストックルームを出て行った。
――何やってるんだよ、俺は。何でフレミングさんにあんなこと……
ルシアンが出て行った後のドアを呆然と見つめる。
メアリーが「手近に済ませようとか止めなさいよ」と言った言葉が脳裏に浮かぶ。
――あんなこと言うから、余計に意識しちゃったんだろ……
ルシアンのいつも憂鬱そうにどこか遠くを見ている美しいアイスブルーの瞳、華奢な肩、まるで少年のような体つきを思い返すと、彼の心臓はぎゅっと掴まれたような気分になる。
彼の首筋に残っていた薄紅色のマーク。あれを見た瞬間に、リアムは自分の気持ちがコントロール出来なくなって、思わずキスしてしまったのだ。
――俺……フレミングさんのこと、好きになっちゃったのかな。
リアムはしゃがみ込むと、床に散らばった靴を拾い上げて、一足ずつ靴箱にしまっていった。
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