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第4話
メイフェアホテル、いつもの部屋、いつものベッド、いつもの逢瀬。
彼がベルリンから戻ってきて、一体何度目になるんだろう。一体いつまでこうやって会えるんだろう。
ルシアンは天井を見つめながら、同じ質問を繰り返し考え続けていた。
隣にはジュリアンが眠っている。整っているがどこか冷たい顔立ち。
ルシアンには分かっていた。彼は甘い言葉を常に自分にかけてくれるけれど、本当はとても冷たい人間だと。自分が常に一番で、自分のことにしか興味がないのだ。だからベルリンに行った時にも、何の連絡も寄越さず突然いなくなって、四年もの長い間メール一つ送る事もしなかったのだ。
それでもルシアンはジュリアンを簡単に諦めきれなかった。四年のブランクなんて、彼とベッドを一度共にしただけで、あっという間になくなった。
彼に愛されるのなら、例え自分が彼の一番じゃなくても、それだけで充分なんだ……
そう思って辛い心を慰めた。
「ルウ、眠れないの?」
気付くとジュリアンがじっとルシアンを見つめていた。
「……ジュリアンが好きな子、僕に似てる、っていつも言ってる子……彼とは付き合わないんですか?」
どうしてそんな質問をしたのか、ルシアン自身にも良く分かっていなかった。ただ、何となく思った事を口にしただけだった。
ジュリアンは少し驚いたようで、数秒間無言でルシアンの顔を見つめていたが、ふっと微かに微笑むと静かな口調で、質問に答えた。
「彼には恋人がいるんだよ。嫌味なぐらいハンサムで頭脳明晰な奴なんだ。僕じゃ歯が立たなくてね。ただ黙って指をくわえて見てるしかないんだ」
ジュリアンの口調はどこか皮肉めいていて、ルシアンはどこまでが本当のことなのか、今一つ分からなかった。
「驚いたよ。あの子がそんな男性と付き合ってるなんて知らなかったからね。この間、彼に会いに行った話したよね? すごく綺麗になっててびっくりしたって。綺麗になったのはあの恋人の影響だったんだろうな」
――僕は……あなたに会って綺麗になりましたか?
ルシアンは胸の内でそうジュリアンに尋ねる。
こうやって口に出来ない質問や思いが一つ、一つ増えていく。いつかそんな言葉の海に溺れて死んでしまうんじゃないか、と彼は思っていた。
「あの子と付き合いたいのは山々だけど、そんな怖い恋人が側に付き添ってるからね。僕は手が出せないんだよ」
ジュリアンはそう言って笑った。自分ではジョークのつもりだったようだが、ルシアンにはそれが本気にしか聞こえなかった。
――だから、僕に会ってくれてるんですか? あなたの想い人はもう他人のものだから? じゃあ僕は一体誰のものなんですか? あなたのものじゃないんですか?
こうやってまた言えない言葉が一つ、胸の底に澱のように沈んでいく。
ルシアンは自分の手の届く距離にいる筈のジュリアンが、世界で一番遠い人間に感じていた。
「え? ……またベルリンに戻るんですか? しばらくロンドンにいるって……」
それから数日後、仕事中のルシアンの携帯に、ジュリアンから電話がかかってきた。いつもであれば、彼の勤務中は流石にジュリアンも遠慮して、通話よりもメッセージを送ってくることが多いのに、この日は直接電話がかかってきた。きっと何か緊急の要件に違いない、とルシアンが応答すると、ジュリアンは早口で突然ロンドンを離れないといけなくなった、と告げた。
「ごめんね、ルウ。直接店に挨拶に行きたかったんだけど、本当に突然決まっちゃって、すぐにベルリンに戻らないといけないんだ。少ししたらまたロンドンには来るつもりでいるから、その時は必ず会おう。また連絡するから」
ルシアンは彼の通話のバックグラウンドに流れているのが、空港のアナウンスだと気付いた。ジュリアンはすでにロンドン市内を離れて、ヒースロー空港にいるのだ。
ジュリアンは自分の要件だけを告げると、ルシアンの返事も待たずに携帯を切った。
――あの人、本当に自分勝手だよ。
すでに切れてしまった携帯電話の画面を、ルシアンはぼんやりと眺める。
――なんで……こんなに突然。……無理だって、分かってはいるけど……でも、どうして僕を一緒に連れて行ってくれないの? 一緒に行こう、って言ってくれたら、僕は迷わずあなたについて行くのに。
ルシアンは目の前が真っ暗になったような感覚に陥っていた。
「ごめん、ちょっと休憩行かせて」
売り場に立っていたリアムにそう告げると、ルシアンは持ち場を離れた。その姿をリアムは心配そうに眺める。
――フレミングさん……どうしたんだろう。携帯で話していたと思ったら、なんだかすごく悲しそうな顔して……
だがリアムにはどうすることも出来ない。一度ルシアンに拒絶された後、再トライする勇気がなかった。リアムは、ルシアンの小柄な後ろ姿が、壁の向こうに消えるのを黙って見つめるしかなかった。
ルシアンは店の配送搬入口から外に出た。営業時間中はシャッターが開いたままなので、従業員なら誰でも自由に出入り可能なのだ。
ルシアンが行くと、そこには先客が一人いた。
インテリア売り場の若い男性スタッフだ。ルシアンは名前は知らなかったが、顔は見知っていた。彼は一人で煙草を燻らせている。店内は禁煙のため、煙草を吸う従業員は休憩時間にここへ来るのだ。
「悪い、一本くれる?」
ルシアンが尋ねると、彼は黙って箱から一本出して差し出す。ルシアンがその煙草を口にくわえると、手で風を避けてライターで火を点けてくれた。
「ありがと」
礼を言うと、彼は「Fine」とだけ言って、店内に戻っていった。
ルシアンは壁により掛かり、ふうっと、煙草を吸い込んだ。口の中に苦い味が広がる。
――四年前に戻っただけだろ……また元の一人に戻っただけだ……
煙草の煙が目に沁みる。眦から涙が流れ出ているのに気付いていたが、そのまま瞼を閉じて空を仰ぐ。
はあ、と大きく溜息を一つつく。
四年前よりはまだましだ、とルシアンは思っていた。あの時は連絡の一つもなく、突然ジュリアンはいなくなってしまったのだ。それに比べたら、電話の一本でも寄越してきただけ、ずっとましなのだ。
それでも、ルシアンの心の中には大きな穴がぽっかりと開いてしまった。
もう二度と塞がることはないかもしれない、とふと思う。
「フレミングさん」
ふいに名前を呼ばれて振り返る。そこにはリアムが立っていた。
「売り場を離れたら駄目じゃないか。従業員が二人も一度に離れたら、誰が接客するんだよ」
ルシアンは慌てて目をこすりながら、そう言う。
リアムに自分が泣いているところを見られただろうか……? と心配になる。情けないところを彼には見られたくなかった。
「あの、隣の売り場のジャックさんにちょこっとだけ頼んできました。何かあったらフレミングさんの携帯に電話するって」
「……あ、そう」
ルシアンは短く返答すると、リアムから顔を背けてまた壁に寄りかかる。
「……フレミングさん、煙草吸われるんですね」
「吸わないよ」
「あの……今吸ってますよね?」
「初めて吸ったんだよ。そういう気分だったから」
「……何か……あったんですか?」
リアムがおずおずと尋ねる。また手ひどく拒絶されるかもしれない、と頭のどこかで思っていたが、訊かずにはいられなかった。
「どうしてきみに話さないといけないの?」
「……」
リアムは黙り込んでしまった。やはり自分では駄目なのだ。
「……あの人、ベルリンに行っちゃったんだ」
リアムがそれ以上尋ねるのを諦めたのと同時に、ルシアンは誰にともなく、そう言った。そして煙草を口にして吸い込むと、こほっ、と軽くむせる。
「僕も連れて行って貰えるかな、って思ってたんだけど。やっぱり駄目だった。僕じゃ駄目なんだ。あの人の一番には、どうしたってなれないんだよ……一番になりたかったのに」
ルシアンのアイスブルーの瞳から涙が零れ落ちる。
「四年前、あの人がいなくなってから……僕がこの店で一番になれたら……あの人が戻ってきて、彼の一番になれるかもしれない、って思って願掛けしたんだ。すごく頑張って、三年間ずっと店の売り上げトップになることが出来て、そうしたらあの人が帰ってきたから……だから今度こそ彼の一番になれる、って信じてた。それなのにさ……」
ルシアンの手から煙草が落ち、そのまま彼は両手で顔を覆った。
「あの人、また一人で行っちゃって……僕はどうしたって彼の一番にはなれないんだ」
リアムは無言のまま、ルシアンを後ろから抱き締めた。
「……お願いです。もう泣かないで下さい」
「ご、ごめん」
「謝らないでください。あなたは何も悪くないじゃないですか」
リアムはぎゅっとルシアンを抱き締めたまま、彼の髪にキスをする。
「……俺じゃ駄目ですか? あの人の代わり、出来ませんか?」
ルシアンの体がびくん、と震えた。リアムの心臓は今にも破裂しそうな程、激しく動悸を打っている。
「……どうして? 何で?」
震える声でルシアンが尋ねる。
「あなたが好きなんです」
「……」
ルシアンは黙ったまま、彼の表情を確かめようと体の向きを変える。リアムは至極真面目な顔でルシアンを見つめている。からかって言っているのか、と思ったルシアンは戸惑ってしまう。
「俺じゃ、あなたの一番にはなれませんか?」
リアムは真剣にそう言った。
「だって……僕はあの人が好きで……そんな急に言われても」
その時、ルシアンの携帯の呼び出し音が鳴った。慌ててポケットから携帯を取りだして応答する。電話を掛けてきたのは隣の売り場のジャックだった。
「ルシアン、お前のところの顧客がすごい勢いで来て文句言ってるんだけど。ちょっと早く戻ってきてくれない? 俺じゃ何が何だか全然分からなくってさ」
「ごめん、今すぐ戻るから」
ルシアンは通話を切ると、急いで自分の持ち場へ走って戻る。リアムもその後を追った。
二人が紳士靴売り場に戻ると、顧客の中年男性がジャック相手に大声で文句を言っているところだった。ジャックは二人を見ると、ホッとした顔をして、客に「担当者が戻りましたので、すみませんがもう一度説明して貰えますか?」と言って、その場を離れた。
「ジャック、ごめん。悪いことしたね」
ルシアンが詫びを口にすると「いいって。お互い様だろ」と言って自分の売り場に戻って行った。
「ウィリアムソンさん、すみませんでした。何か不都合なことがありましたか?」
「ルシアン、困るよ。この間の靴、サイズ違いの物が箱に一足ずつ入ってたんだ」
ウィリアムソン、と呼ばれた顧客の男性は顔馴染みのルシアンを見ると、先ほどまでの厳しい態度を少し和らげた。
「え? 本当ですか。それはすみませんでした」
ルシアンは急いでカウンターの上に載せられた靴箱を開け、中身を確認する。それは先日、あと10分で顧客が引き取りに来るから、と慌ててリアムと二人がかりでストックルームから探し出したあの靴だった。
ルシアンが靴を出して見ると、一足はサイズ9、もう一足は9.5が入っていた。
――あの時に入れ違ったんだ……
ルシアンは、ストックルームで靴箱の山を崩してしまった時のことを思いだしていた。箱から出た靴が散乱した床。自分が落とした靴箱から転がり出た靴が、あの中に紛れていた。てっきり同じペアだと思って拾い上げたが、間違えて一足ずつ違う物を取り上げていたのだ。
「申し訳ありませんでした。これは僕のミスです」
ルシアンは言い訳をせずにすぐに謝る。ウィリアムソンはその様子を見て、逆に慌てた。
「ルシアン、きみを責めてる訳じゃないから、もうそんな顔しないでくれよ。サイズが合った靴と交換して貰えればそれで充分だから」
「あ、はい。すぐ探してきますから」
ルシアンはストックルームへ向かい、同じ靴を探す。自分があの時探し出したのは、サイズ9の靴箱だった。と言う事はサイズ9.5の箱に9のペアの片割れが入っているのに違いない。もしも違っていたら……その時は、ここにある全部の靴箱を片っ端から開けて探し出すしかない。そう覚悟を決めて箱を探す。
床の上に積んであった靴箱の山の中にはなかった。
――棚の方か。
靴箱が積まれた棚を端から見ていく。三列目の棚の真ん中に探している箱があった。取りだして箱の蓋を開ける。
――頼む、この箱で合っててくれ。
靴を一足取りだして見る。
サイズ9.5、違う。
ペアの片割れを取りだした。
「あった……」
全身の力が抜けた。そこに入っていたのはサイズ9。探していた靴の片割れだった。
ルシアンがストックルームから出ると、リアムがウィリアムソン相手に何やら熱心に話していた。
「ウィリアムソンさん、お待たせしてすみませんでした。正しいサイズ、見つけました」
ルシアンが靴を片手にそう言うと、ウィリアムソンが笑いながら彼を見て言った。
「やあ、ありがとう。助かったよ。ところで、ルシアンのところの新しい子、面白いね。文句を言いに来たのに、また靴買わされちゃったよ」
「ウィリアムソンさんの今日のお召し物に似合うと思って、お勧めしただけですよ」
リアムが笑顔でそう付け加える。彼の腕には新作の黒い紳士靴二足が抱えられていた。
「本当にきみ、勧め上手だね。じゃあ、その間違えてた靴と、この二足全部貰っていくから」
「ありがとうございます」
ルシアンは狐につままれたような気分で会計を済ませると、靴箱を入れた紙袋をウィリアムソンに渡す。
「また来るよ。やっぱり靴を買うならきみのところが一番信頼がおけるから」
文句を言いに来たはずのウィリアムソンは、にこにこと上機嫌で店を後にした。
「良かったですね、フレミングさん」
「……いや、きみのお陰だよ。ありがとう」
ルシアンはいつの間にか、リアムが頼り甲斐のあるスタッフになっていたことに驚くと同時に、そんな彼をどこか好ましく思うようになっていた。
「あの、もう俺ここで働いて二ヶ月になるんですけど」
「え? 何?」
「そろそろ名前で呼んで貰えませんか? いつも’きみ’としか言ってくれませんよね?」
「……そう、だっけ?」
「そうですよ。俺の名前はリアムですから」
「分かったよ……じゃ、リアムありがとう」
「いえ。元はと言えば俺がストックルームで、あなたにキスしたのがいけないんです。あの時、箱の山が崩れちゃって……それが靴が片方ずつ入れ違った原因ですよね? すみませんでした」
リアムはルシアンに謝る。
「いや、僕がお客さんに渡す時に、きちんとサイズを確認しなかったのがいけないんだ。本当なら引き渡す場で、ペアが正しいかどうか見てから売らないといけなかったのに、動揺してたから……つい忘れて」
ルシアンは突然あの時のことを思いだしたようで、頬を真っ赤に染めると俯いた。
――うっ、フレミングさん……可愛いんだけど……
リアムは今この場で彼を抱き締めたい欲求にかられたが、まさか売り場でそんな事は出来ない。もしも誰かに見られようものなら、今度こそ間違いなくクビだ。
「……あのっ、今日仕事終わったら、一緒にパブ行きませんか?」
リアムはがちがちに緊張しながら、何とか誘いの言葉を口にする。
「……いいよ」
「ほっ、本当ですか?!」
「……それから、僕のことは皆と同じようにルシアンって呼んでくれて構わないから……」
ルシアンは恥ずかしそうにそう言った。
「ルッ、ルシアン……」
リアムはそっとルシアンの手を握った。カウンターの内側にいる自分たちの様子は、外の人間には見えないから大丈夫な筈、と彼は少し大胆になっていた。
「……好きです」
リアムが小さな声でそう告げると、ルシアンは顔を上げて彼の顔を見つめると、泣き笑いのような表情で「ありがとう」と言った。
――生きてて良かったーーー!
リアムは大声で叫び出したくなる衝動を何とか我慢すると、一人で感激に浸った。
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