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 ボーナスが出たので海老澤さんの家に行った。会社を出てすぐのコンビニでお金を下ろして、封筒に万札を二十枚入れて、自宅の最寄り駅とは逆側の電車に乗って、踏切のすぐ近くにあるぼろアパートの一室のブザーを鳴らした。  間延びした一音を響かせるボタンを押し続けていると、中から紙の束を蹴り飛ばす音と共にぼやき声が聞こえてきた。ああもう、分かった、分かったよ煩いな、いい加減にしろ全く――と寝起きの声がする。  蹴破ったら容易く取れてしまいそうな木製の扉を開いて、肩の下まで伸びたぼさぼさの髪を掻きながら顔を覗かせた海老澤さんは、どこかぼんやりとした目で僕を見た瞬間、耐え難い汚物を見たかのように目を閉じた。 「新聞なら要りません」 「二の腕と脹ら脛が良いです」 「新聞なら要りません」 「ちゃんと珈琲買ってきました」 「新聞なら要りません」 「二十万あります」  閉じようとする扉と壁の間に革靴を挟んだ僕を見上げていた海老澤さんの口が、『新聞なら要りません』以外の言葉を口にしようとして、口にしかけた自分が嫌になったかのようにゆるりと唇から力を抜いた。  僕より五センチ高い筈の海老澤さんは、猫背気味なせいでいつも上目遣いになりがちだ。濃い隈の刻まれた瞳が、喜色満面の笑みを浮かべる僕の顔を見やり、次いで僕の手に握られた封筒へと視線をずらした。  革靴を押し潰さんばかりに閉じられていた扉が、ゆっくりと開いていく。どうやら合格を貰えたらしい。のそのそと部屋の奥へと消えていく海老澤さんの後を追う。剥がれかけで錆び付いた、かかっているのか今ひとつ分からない調子の鍵もきちんとかけておいた。  六畳一間のぼろアパートには、大量の古新聞と、使い古されたビニールシートと、くすんだ色の細長いアタッシュケースが置いてある。布団くらい買いましょうよと何度も言っているのだが、お前に俺の生活に口出しする権利は無い、とばかりに黙殺されてしまうのが常だった。  部屋の角には新聞紙で出来た抜け殻がある。膝を抱えて座り込んでいるのが分かるようなサイズだった。一九〇センチの海老澤さんの抜け殻は、小さく丸まっても部屋の半分を占領する程度に大きい。 「もっと良いもん食えよ、若いんだから」  深い溜息を落とした海老澤さんが、抜け殻をくしゃくしゃと端に寄せる。そうすると、下に敷かれたビニールシートが存在感を増す。窓を開け、壁に掛かった時計を確かめながら、海老澤さんは包丁の仕舞われたアタッシュケースを部屋の真ん中で開いた。  全体的に薄く汚れた印象を受ける部屋の中で、この包丁だけはいつだってきらきらと輝いている。  刃物に疎い僕にはそれの出来が良いのか悪いのかも分からなかったが、海老澤さんが自身を削ぐ為にそれを選んだというだけで、何の変哲も無い二十四センチの牛刀は、どんな宝石よりも美しい物に思えた。  期待と感動から、こくりと喉が鳴る。あと食欲。やっぱり食欲が大半かも知れない。だって、海老澤さんは美味しい。とても美味しいのだ。  アタッシュケースを開いた海老澤さんが、僕の手から珈琲を受け取る。さっきは半纏に隠れてよく見えなかったが、右手の指が治りかけだった。  誰に食べさせたんですか、と聞きそうになって、顧客の話は駄目だと口を噤む。海老澤さんは他の客の話をしたがらない。誰にどのくらい食べさせているのか、僕が何人目の客なのか、いまどれだけの客がいるのかも話してはくれない。僕に出来るのは、治りきっていない傷からどの程度食べられたのかを推察するくらいだ。  缶珈琲のプルタブが開く音がする。このアパートは音がよく響く。海老澤さんは注意深く線路の様子を眺めながら珈琲を口に含み、飲み干してから言った。 「脹ら脛とどこだっけ」 「二の腕です」 「右でいいかい」 「構いません」  溢れる涎を飲み込んで頷いた僕の声を、隣接する線路を走る列車の轟音が掻き消した。風圧に負けた窓がガタガタと震え、ぼろアパートが揺さぶられて床が波打つ。海老澤さんは慣れた調子で肉を削ぐ。一張羅の半纏は傍らに放られていた。  鈍色に光る包丁が皮膚に食い込み、大きく引くようにして斜めに肉を削ぐ。包丁を握っている左の二の腕は既に削られていて、薄紅色の肉が徐々に再生しているところだった。誰が食べたんだろう。僕じゃない。僕だったら良かったのに。  海老澤さんの手つきは何とも鮮やかで、列車の轟音が遠ざかる頃には僕の前には二つの包みが出来ていた。  普通の人間ならこれだけ切れば出血が凄いことになるだろうけれど、ブルーシートには新聞紙でも拭える程度の血しか落ちていなかった。海老澤さんは半纏を羽織り直して、包丁を綺麗に洗って仕舞うと、なんでまだいるんだよ、という目で僕を見下ろした。 「海老澤さん」 「やっぱり部位変えるとか言わんでくれよ」 「気持ちよかったですか?」  素足が僕の顔面を蹴り飛ばした。  肉の包みが放り出されそうになったので慌てて抱えて、鞄にしまい込む。片足を上げた格好で固まっていた海老澤さんは、怒りと、それ以外――彼にとっては認めたくないだろう衝動――で赤く染まった顔で僕を睨み下ろした。  歪んだ唇の奥で苛立たしげにかちかちと鳴る並びの良い歯を見上げながら、蹴られた顔面を摩る。 「だって、珈琲飲んだじゃないですか」 「煩い、さっさと帰れ。すみやかに帰宅しろ、子供は寝る時間だ」 「僕もう二十五ですよ。まあ、海老澤さんは三十五ですけど、ねえ、どうだったんです? 次も持ってきた方が良いですか?」 「二度と来るな、馬鹿!」  海老澤さんの手がシンクの中に突っ込んである工具の一つへと伸びたので、僕はお邪魔しました、と二十万を置いてぼろアパートを逃げ出した。  今日の晩ご飯は海老澤さんのハンバーグである。三個作れたので小分けにして冷凍庫に入れておいた。今月は特にスケジュールが過密でしんどいので、疲れた日に食べようと思う。家でご馳走が待っているという事実はやる気に直結する。  それにしても海老澤さんは本当に美味しい。これが海老澤さんだから美味しいのか、それとも品種改良された人間は皆こうなるのか、僕にはよく分からないが、美味しいことだけは確かだった。  海老澤さんは、人肉加工工場から逃げ出してきた食用人間である。  十年前、関東で一番大きな人肉加工工場のセキュリティに異常が起きて、加工前の食用人間が逃げ出した事故があった。彼らは速やかに『回収』されていったのだが、その際に何故か加工現場の映像が流出し、工場の凄惨な実態に食用人間の権利を主張する団体が現れたり、マスコミが妙な取り上げ方をして騒ぎになったせいで加工工場自体が営業停止になったり、企業間でトラブルが起きたり、訴訟問題がどうだとか、こうだとか、食用の人類の存在がどうだとか、こうだとか、これまで国の偉い人が散々話し合ってやっとこさ成した安寧を今更捏ね回し、まるで二一〇〇年代に戻ったかのような議論がなされて、結局逃げ出した食用人間は全員殺処分になった。結果、庶民の口に入るのは微生物由来の人工肉だけになり、あまりの味気なさに一時期地域業務効率が五十パーセントも落ち込んだりしたのだが、他県の工場から輸送して貰うことによって事なきを得た。まあ、それでも、工場が潰れる前の三倍の価格になってしまったのだが。  海老澤さんはその事件の生き残りだ。『回収』されずに済んだ食用人間は多くはない。十年も生き延びているようなのは海老澤さんだけだろうと思う。  今更例の事件を蒸し返したくないのか、海老澤さんは彼がひっそりと暮らしている場合に限りある程度の自由を許されている。殺処分するのは簡単だが、工場はもうないので誰がそれをやるんだと言う話になるし、あの映像を見てしまった人間にそんなことを言い出す気は起きない。誰だって悪者にはなりたくないし、必要の無い罪悪感は避けて生きたい。  そういう訳で、海老澤さんは現在、自分の意思で自分の肉を切り売りして生活している。家賃は要らないと言われているらしいが、払わないのは居心地が悪いそうだ。  僕と一緒に住めばそんな心配なくなりますよ、と度々言っているのだが、返事はいつも汚物を見るような視線なので、まだまだ先は長そうだった。今日も怒られてしまったし。  海老澤さんは肉を削ぐときの声を聞かれたくないのか、なるたけ轟音に潰されるタイミングを狙う。だからきっと苦痛を伴うんだろうと思って、いくら美味しいとは言えそれは可哀想だと、麻酔薬か何か使えないんですか、と聞いてみたら、珈琲が効く、と返された。品種改良中に変異が起きたのか、食用人間は珈琲を飲むと苦痛と快楽が反転するそうだ。海老澤さんが色々試した結果分かったことらしく、工場では一切使われていなかったらしい。もっと早く分かっていればみんな気持ちよく加工されることが出来たかも知れない。食肉にカフェインを摂らせるのは問題かな。でもこの通りとても美味しいし、経過を見て味に変化が無ければ、他県の加工工場の人に教えてあげるのもいいかもしれない。次はいつ行けるだろう。お金を貯めないとな。  肉を削ぐ時の表情がいつもより大分艶っぽいものだったのを思い出しながら、僕はことさらゆっくりと、大事に海老澤さんのハンバーグを咀嚼した。  はた、と気づいた。  もしかして僕以外にも海老澤さんが珈琲を飲んだときの顔を知っている人がいるんじゃないだろうか。真っ暗な天井を見上げ、しばし呆然としていた僕は、よく考えれば、いや、よく考えずとも当然だろう予測にいてもたっても居られず、三日と開けずに私鉄沿線のぼろアパートを訪ねていた。 「海老澤さん!」  扉のブザーを鳴らしても出てこないので呼びかけると、海老澤さんは立て付けの悪い扉を押し開け、走ったせいで息を荒げる僕の顔を薄暗い瞳で見上げて、呆れの滲む溜息を零した。  ざんばら髪の隙間から覗く瞳が僕の手元を舐めるようになぞり、そこに封筒も財布も無いことを見て取ると扉を閉めた。僕は閉じる直前の扉にスニーカーを挟んで上方を掴むと、引き剥がすようにして扉を開いた。  海老澤さんの腕力は成人男性のそれと何ら変わりない。下手したら平均よりは劣る程度だと言える。対して、僕はこれでも会社帰りにジムに寄ったり何だりで結構鍛えている。扉は驚くほどあっさりと開いた。海老澤さんも驚いたのか、猫背気味の背が仰け反るように伸びていた。  僕より少し上にある顔を見上げながら、逃げようとするかのように足を引く海老澤さんの腕を掴む。ひく、と青白い喉が震えるのが見えた。 「海老澤さん、聞きたいことがあるんですけど」 「……なんだよ、一月経っとらんぞ」  海老澤さんを買えるのは一月に一度だけだ。最初の頃に買いすぎて設けられた期間だった。僕がその頻度を不満に思っているのを知っている海老澤さんは釘を刺すようにそう言ったが、今の僕の関心はそこにはない。 「僕以外に珈琲を飲ませた人はいますか」  我ながら呆れるほど必死な形相で尋ねた僕に、海老澤さんは間の抜けた声で「は?」と返した。きっと予想していなかった質問だったのだろう。  後ろ手で鍵をかける。海老澤さんは逃げるように足を引き、僕の足は追い詰めるように歩を進める。数歩も進まない内に足をもつれさせた海老澤さんが、ビニールシートの真ん中に倒れ込んだ。腕を掴んでいた僕が、覆い被さる。 「僕以外に、貴方に珈琲を飲ませて肉を削がせた人はいますか」 「……居るわけ無いだろ」 「本当ですか、嘘吐いてませんか」 「嘘なんか吐く必要もない」  そっぽを向きながらぶっきら棒に言う海老澤さんを見つめていると、彼は珍しく困ったように眉を下げながら辿々しく零した。 「……大体、切り分けるところを見たがるのなんてお前くらいだ。殆どの奴は、部屋の前で待つんだよ、お前みたいに、そんな、ずかずか上がり込んでこないし、痛いですかとか、そういう、そんなん、聞かない。肉だけ貰って満足するからな、なあ、もう、いいだろ、どけよ」 「もし僕以外に頼んでくるような人がいたら、海老澤さんは同じようにするんですか?」 「……いつにも増してしつこいな、お前」  押し退けようとしてくる海老澤さんの動きを体重をかけて封じる。少し焦ったように目を泳がせつつ、海老澤さんは何とか逃げだそうと藻掻いた。僕らの間にある空気が、いつもと大分異なる色を含んでいると察しているようだった。  なんなんだ、訳が分からん、とうんざりした声で呟かれる。訳が分からないのは僕も同じだったので同意しておくと、海老澤さんは窘めるように僕の身体を叩いた。放せ、と言われるが、放したくないのでそのままで居ると、海老澤さんは観念したように身体から力を抜いた。 「何に拘っとるが知らんが、別にお前に頼まれようともうやらんから安心しろ」 「えっ、もうやらないんですか。どうして?」  僕にだけは見せて欲しかったので尋ねると、海老澤さんは歯切れが悪く呟いた。 「どうしてって……あれは……なんというか、……具合が良くない」 「具合? 体調に問題があったとか? あのあと不調がありましたか? 大丈夫ですか?」  海老澤さんは答えなかった。答えないまま再度僕を押し退けようとするので、強く押さえ込んで目を合わせるように鼻先を寄せる。海老澤さんの身体がびくりと強ばった。震える足の踵が畳を掻く。 「お前が……心配するような、ことは、なんもない。だから、もう、そろそろ放せよ」 「何があったのか教えてくれなきゃ嫌です。僕、海老澤さんにはずっと美味しく居て欲しいので」  吐息が混じり合うような距離で問いかけた僕に、海老澤さんは困り果てたように目を逸らした後、観念したのかぽつりと溶け消えそうな声で言った。 「痛みとか、そういうんが全部マシになるのは知ってたんだが、その、……肉まで削いだことはなかったから、あれは、ありゃあ、駄目だ、よくない」 「何がよくないんですか? 痛みを感じないで済むならそれで良いじゃないですか」 「良くない。あんなん、頭が馬鹿になる」  思わず黙り込んで見つめてしまった僕の前で、目を逸らした海老澤さんの頬にじわじわと熱が上り始める。どうやら失言に気づいたらしく身体が暴れ出した。  海老澤さんは美味しいだけでなく可愛いんだなあと思った。  自分より上背のある男を可愛いと思うのは初めてのことだった。  あの日、海老澤さんは頭が馬鹿になりそうな程の快楽に耐えながら僕の前で肉を削いだ。僕はその肉を貰って、挽いて、美味しく食べた。本当に美味しかったけれど、今の話を聞いてから食べたらもっと美味しいだろうと思った。この予想は、多分間違っていない。  暫くじたばたと暴れ回っていた海老澤さんだったが、不意に僕の股間の熱に気づいて、始めて胡瓜を見た猫みたいな勢いで飛び上がった。まあ、上に僕が乗っていたので軽く跳ねたくらいだったけど。 「は、なんっ、何、お前、おまえっ」  ぐい、と股間を押しつけるように動くと、海老澤さんは情けない声を上げて身体を強ばらせた。初めて彼氏に押し倒された中学生の女の子みたいな反応だ。僕の一人目の彼女がそんな感じだった。でも海老澤さんの方が可愛いな、と思った。  無言で股間を擦り付け始めた僕に、海老澤さんは混乱と恐怖から震えた声を零す。なんだよ、やめろ、おまえ、ふざけるなよ、いい加減にしろ、やだ、やめろ、ほんとにやだ、と徐々に懇願に変わり始める声を聞いている内、押しつける僕の熱の下には僅かな膨らみが出来はじめていた。 「海老澤さんも勃つんですね、そういう機能あるんだなあ」 「っ、うるさいっ、もう、どけっ、どけよ!」 「気持ちいいですか?」  食用人間は培養で増えるから、ついてはいても排泄に使うだけで生殖機能は働かないのかと思っていた。でも、海老澤さんもちゃんと勃起するらしく、摺り合わせた股の間には僕ら二人分の熱が在った。押し潰すようにして動くと、んんっ、と堪えようとしてくぐもった甘い声が響く。 「くそっ、ッ、柿沼っ、いいかげんにしろよ、おまえっ」 「あれ、海老澤さん僕の名前覚えていてくれたんですか。嬉しいなあ」 「ンッ、ひ、やめろ、ほんと、もう、わかった、今日、持っていっていいから、どこでも好きなとこ、んっ、ァ!」  薄らと布地が湿り始めたので、少し離してズボンの前を寛げた。半纏を脱がせて、薄い着物の下に手を這わせる。海老澤さんは下着をつけていなかった。そういう習慣がないのかもしれない。都合が良かったが、流石に今度下着をあげた方がいいだろうな、と思った。いつもこんな格好で客の相手をしてたのか、この人。  緩く立ち上がった海老澤さんのものを擦り上げる。抜いたことが無いのか――そもそも勃起の経験が無いのか、今までに聞いたことが無いほど高い声が上がった。 「あっ、ひ、やめ、やめろっ、嫌だ、なん、なんで、っ、なんでこんな……っ」 「なんで、と聞かれると僕も困っちゃうんですけど」  今まで海老澤さんを性的な目で見たことは無かった。これは本当だ。海老澤さんは僕にとっては『美味しい人』であって、こういうことをしたい相手ではなかった。  僕は女の子が好きだったし、付き合ってきたのも女の子だったし。ただ、僕は海老澤さんの肉の味を知ってからすぐに彼女と別れている。理由はよく分からなかったが、なんだか熱が冷めてしまったのだ。そういえば、食欲というのは性欲に繋がっているんだったっけ? まあ、そういうごちゃごちゃした事情はさておき、とにかく今の僕は海老澤さんを気持ちよくさせたくて仕方が無かった。  肉を削ぐ時の、上気した頬が忘れられない。掻き消しきれない喘ぎ声が耳の奥に残っている。あれをもう一度見たい、聞きたい。あわよくば僕の手でそうなって欲しい。

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