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 海老澤さんの機嫌を損ねてしまってから三ヶ月。切り分けた肉を手渡して貰えるまでには信頼を回復出来た僕だったが、海老澤さんは未だにそれ以上の接触を許してくれることはなかった。  海老澤さんが冷たいのはいつものことなので気にならないが、顔を見れないのは寂しい。  今の僕にとっては海老澤さんはただの『美味しい人』ではなく、『気になる可愛い人』でもあるのだ。端的に言えば好きな人。そう、僕は海老澤さんに恋をしている。  好きな人には毎日会いたい。あわよくば自分のことを好きになってもらいたい。  シンプルな欲求に従って以前より頻繁に会いに行くようになった僕に、海老澤さんは四ヶ月目にしてとうとう折れた。  食わせてやるし、削ぐ所も見してやるから、来るならせめて週一にしろ、と。  肉を求めて訪ねていた訳ではない(無論、貰えればとても嬉しい)のだが、折角週一で食べられるのなら、と僕はその言葉に素直に従った。  好きな人ではあるけれど、やはり食べたい人でもある。  そういう訳で素直に次の週に訪ねた僕は、いつも通りにブザーを鳴らした。だが、数分鳴らし続けても返事が無い。無視されるのはいつものことだが、物音一つしないのは妙だ。これは少し様子が違う気がする。  湯浴みは人気の少ない昼にする、と言っていたし、基本的に客を取るために夜は在室している筈だ。 「……海老澤さん?」  嫌な予感に従いドアノブへ手をかけると、普段は入るのに一苦労する扉は、呆気ないほどすんなりと開いてしまった。相も変わらず明かりはつけない主義のようで、中は暗い。  だが、暗い中でも、シートの真ん中に横たわる海老澤さんの様子ははっきりと分かった。  黒いざんばら髪に、鈍色の半纏、見慣れた長身――と呼べぬ身体に息が詰まる。伏せる彼の身丈は、どう見ても『長身』と呼べる長さを欠いていた。  両足が無いのだ。  ちょうど付け根のあたりから、布地の膨らみが失せた着物が平たくシートに張り付いている。  靴を脱ぎ捨て、慌てて駆け寄った。  海老澤さんは文字通り身を削って生計を立てている。これまでもあらゆる箇所の欠損を見てきたが、流石に両足共失っているのは初めてだった。  再生するとは言え、失ってすぐに元通りとはいかない。これでは生活するのも困難だろう。他の客とは顔を合わせたこともないが、今までこんな無茶をするような輩はいなかった。こんな美味しい人になんてことを。どこの誰かしらないが殴ってやりたい。 「海老澤さん、大丈夫ですか? しっかりしてください」  うつ伏せの海老澤さんを抱き起こし、声をかける。元より血色がいいとは言えない顔は青白く、伏せられた瞼は重い。医療機関に、と考え掛け、食用の人間を見てくれる施設などあるのだろうか、と自問する。出てくる答えはお世辞にも明るいとは言えないものばかりだった。  考え得る限りの手段を思い浮かべるも、行き着く先がどれもこれも碌でもなく、僕は溜息と共に海老澤さんを抱き締めるしかなかった。  もし海老澤さんが死んでしまったら、一片も残さず僕が食べよう。髪の毛の食べ方を調べておかなければ。  他県の工場では既に第五世代まで研究が進んでいるそうだが、彼らには毛髪が無いらしい。専門家が研究しても尚食用の道が見つからずに排除されたのなら、髪の毛の食用方法は無いということだ。僕がその道を見つけなければならない。 「要するに髪の毛を消化する器官が無いんだから、僕の方の問題だよな……」 「…………勝手に食う算段をつけるな」 「いえ、勝手にという訳では。ただ僕は最悪そういった恐れもあると――――海老澤さん? 起きたんですか? 大丈夫ですか?」  混乱のあまり声に出ていたらしい僕の腕の中で、薄らと目を開いた海老澤さんがぼやいた。聞き取った言葉に反応できる程度には意識はしっかりしているらしい。一先ず、ほっと息を吐く。  うんざりしたように目を閉じ直した海老澤さんは、追い払うように僕の肩を手の甲で叩くと、力を緩めた僕の腕からずるずると這い出した。 「……ちょっとばかし面倒な客に当たってな。まあ……新顔で加減も分からんようで、問答無用で持って行かれた」 「一体どこのどいつがそんな真似を?」 「誰かなんぞ知らん。……ああ、でも、偉いさんだとか吹いてたな」  ぼやき声を聞きながら、海老澤さんが他の客の話をするのは初めてだな、と思った。普段は幾ら聞いても教えて貰えない答えを自ら漏らす程度には、精神的な負担のかかる客だったのだろう。  ずる、ずる、と折れた着物が床を擦る音が響く。半開きになっていた窓を閉じた海老澤さんは、その下に寄り掛かるように背を預けると、疲れの滲む声で言った。 「そういう訳だ、来週まで待て。……悪いな」 「いえ、そんな。謝らなくても。残念ですけど、海老澤さんの安全が第一ですから」  残念なのも、彼の身が第一なのも本当なので妙な声音になった僕に、海老澤さんは短く鼻を鳴らした。少し笑みを含んでいたように聞こえたのは僕の気のせいだろうか。  海老澤さんの肉を買い始めてから随分経つが、笑い声を聞いたのは初めてな気がする。少し距離が縮まったような気がして嬉しい。  ついでだし、十分でもいいからこのまま話せないかな、と思いながらその場に留まっていた僕は、ふと此方へ目をやった海老澤さんの眉間に皺が寄るのを見て、首を傾げてしまった。  半纏の前を、着物の合わせのように寄せた海老澤さんが、羽虫でも見るような目を向けてくる。 「……肉もやらんし、この前みたいのもやらんぞ」 「この前? 何かありましたっけ」  羽虫が害虫にランクアップしてしまった。この場合はダウンだろうか。この区域では見かけることが無いからレアな気もする。  中々見れないレベルの嫌悪感を露わにした海老澤さんの前で、首を傾げたまましばらく考える。  本当に思い当たらなかったので丸々五分も考え込んでしまった僕が口を開くより先に、海老澤さんが溜息を吐いた。 「もういい。さっさと帰れ」 「海老澤さんってすぐに僕のこと帰らせようとしますよね」 「そりゃ、帰って欲しいからな。それに、こんなところに居ても楽しくないだろ」 「ええ? そうですか? 楽しいですよ」 「……俺は楽しくない」 「えっ、そうだったんですか。それは失礼しました、えーと、じゃあ何か面白い話でも」 「帰ってくれ、と言ってるのが聞こえんのかお前は」 「聞こえてますけど、居たいので居ます」  きっぱりと宣言した僕に、海老澤さんはとうとう嫌悪が呆れに塗り替えられてしまったらしく、嫌そうな溜息を零しつつも諦めたように身体から力を抜いた。  僕という存在を居ない物として扱うことにしたようで、目を閉じたまま細く息をする海老澤さんは手探りで近くの新聞紙を手繰り寄せると、新たな繭を形成し始めた。ぐるぐると、幾重にも被さっていく新聞紙を眺めながら、一体このご時世にどこからこれだけの新聞紙を集めてきているのだろう、と入手方法について考えてしまう。報酬として新聞紙を得ている、という可能性もあった。 「もし僕が勝手に布団を持ってきたら、使ってくれますか?」 「…………要らん」 「別に何か見返りを求めて、とかじゃないんです。単純に、プレゼントしたら、受け取ってくれますかってことで」 「要らん、寝心地が悪い」 「使ったことあるんですか?」  繭を作り終えた海老澤さんは、いつもなら抱えているだろう膝が無いことに居心地の悪そうな顔をしつつ、ゆっくりと頷いた。  半ば俯くような肯定に、良い物を使えば寝苦しさも無いかな、などと考え始める僕の耳が、聞かせる気もないような声を拾い上げる。 「……横になるのに慣れとらん。あそこじゃ、みんな、用の無い時は丸まって、ケースに収まるからな」 「それで眠れるんですか?」 「ああ。これは、匂いも似てる」  暗闇に溶け消えてしまいそうな声だった。窓の外から差し込む、線路脇に立つ明かりが、かろうじて僕らの輪郭を浮かび上がらせている。  新聞紙の匂い――というと、印刷工場の匂いに似ているのだろうか。一体どういう理由でそんな匂いがするのかは分からないが、海老澤さんにとっては落ち着く匂いであることは確からしい。  やっぱり、この間見学の打診をした工場の所長さんにもっと食い下がればよかった。もしかしたら加工工場はみんなそういう匂いがするのかもしれないし。でも、パック詰めされている肉からはそういう匂いは感じないんだよなあ。  新聞紙の匂いがする布団を作ったら、使ってくれるだろうか。作ることを考えると、尚更貰って欲しくなってしまう。職業病だろうか。まあ、僕の分野は玩具製品なので家具は専門外だが。知り合いに頼んで一緒にデザインを考えるくらいは出来たりしないだろうか。別に布団でなくたって、何か僕の手が加わった物をプレゼントしたい。  僕の作った物を使う海老澤さんのことを考えると、なんだか妙に胸が高鳴った。どうせなら玩具がいい。絶対有り得ないけど。海老澤さんは投影パズルとかはやらないだろう。 「……かきぬま、いるか」  などと、妄想に浸ってああでもないこうでもないと唸っていた僕は、ふとそこで浅く呼吸する海老澤さんが、何度か僕を呼んでいたことに気づいた。 「はい、居ますよ。どうかしましたか?」 「…………なんか、喋ってろ」 「ええと、それは、面白い話をご所望で?」 「なんでもいい。……気を、紛らわせれば」  よくよく見れば、海老澤さんの顔には玉のような汗が滲んでいた。時折、きつく唇を噛んでは、痛みを逃がすかのように細く息を吐く。 「もしかして、傷が痛みますか」 「…………たいしたことじゃない」 「嘘吐かないで下さい。海老澤さんが僕を帰らせようとしないなんて、よっぽどなんでしょう」 「………………まあ……骨まで落とすと、流石にな」  口を開けば『帰れ』としか言わない海老澤さんが、僕に『居てくれ』と同義の言葉を吐く日が来るとは思わなかった。  そこまで辛いのに、一旦は平気そうな顔をしてまで帰らせようとするなんて、全くこの人は。  新聞紙の繭を侵さない程度に近づいた僕に、海老澤さんは呻き声を上げながら緩く首を振った。倒れないように身体の横についた片腕が、きつく握り拳を作っている。  不快だろう、とハンカチで汗を拭うと、びくりと肩が震えた。そんなに怯えなくても。痛みで苦しんでる相手を襲ったりしませんよ。 「海老澤さんって、病院とか利用できるんですか? 必要なら連れて行きますよ」 「……できるように見えるか?」 「見えません。もし、他に対処法があるなら手伝いますけど……」  無さそうだな、というのは薄々察していた。海老澤さんには自己再生能力がある。この痛みが治る上で必要な物だというのなら、治療出来るようなものではない筈だ。市販の痛み止めが役に立つとも思えない。  僕の予想は当たっていたようで、海老澤さんは時折息を詰めながら、「ほっときゃ治まる」と呻いた。  治まるまで気晴らしに何か話せ、ということだ。僕は何か話題を探すべく記憶を辿り、企画書の発案の際にストレスが極まってピンクの小人が見えた話をしようとして、そこでふとポケットに入れっぱなしだった缶飲料に気づいた。 「海老澤さん、良い物があります」 「いらん」 「そんな、まだ何かも聞いてないじゃないですか」 「おまえが、そういうことを、言い出すときは、大抵……ろくでもない」 「そんなことないですよ」  僕が思っているだけで、もしかしたらそうなのかもしれないけれど、今回ばかりは海老澤さんにとっても良い提案だと思う。  痛みとは別の理由で顔をしかめる海老澤さんに笑顔を向けながら、僕はポケットから缶珈琲を取り出した。季節も変わり、気温も下がってきたので温かいものを、と近くの自販機で購入してきた品だ。  海老澤さんは、珈琲を摂取することで痛みと快楽が反転するらしい。今、堪えきれないほどの痛みを感じているというのなら、これを飲むことで少しは軽減できないだろうか。  そう思って、完全な善意でもって取り出したのだが、僕の手に握られた缶珈琲を見た海老澤さんは、まるで未知の化け物でも見るかのような顔をして、不自由な身体でずるりと僕から距離を取った。 「…………柿沼」 「はい」 「もう帰れお前」 「いやです。海老澤さん、辛いんでしょう? これ飲んで元気出して下さい」  プルタブを引き起こし、缶珈琲を開けた僕に、海老澤さんの喉から引きつった声が零れた。  幸いまだ少し温かい。悲しいほどに質素で、暖房器具など置いていない部屋だ。少しでも温まって貰えれば嬉しい。  どうぞ、と差し出した僕に、海老澤さんはやはり悍ましい怪物を見るような目を向けていた。窓の外から差し込む街灯の青白い光が、恐怖に歪んだ海老澤さんの顔に不気味にも思える陰影を作る。  一応、百%善意でもって差し出しているのだが、どうやら海老澤さんから見るとそうは見えないらしい。何故だろう。 「全部飲むんじゃなくて、一口だけとかにしてみたらどうですか」 「……要らん。お前が飲め」 「海老澤さんのために買ってきたんです、飲んで下さい」  海老澤さんは美味しいし、可愛いから、出来ることなら辛い思いはしてほしくないのだ。僕に頼らなければ紛らわせないほどの苦痛なら、いっそ珈琲を飲んで快楽に逃げてしまった方が幾分楽ではないだろうか。  そう思って差し出した缶珈琲を、海老澤さんは、今度は恐怖でも、痛みでもない、何と判断をつけたらいいか分からない顔をしてじっと見つめた。  光源が線路脇の街灯しかないので明暗が曖昧だが、眉が下がっているように思える。両拳をぎゅっと握りしめた海老澤さんは、どこか逃げ場を探すように視線を泳がせてから、沈黙の合間に、痛みに呻いた。 「…………そういうの、やめろ」 「はい?」  僕が缶珈琲が零れないように両手で支え始めた頃。ぎりぎりと歯を削るような歯軋りの音を響かせて、海老澤さんはひどく苦しげに呟いた。  そういうの、とは。一体どういうのを指しているのだろう。  少し考えてみたものの上手く推察出来なかったので首を傾げた僕に、海老澤さんは眉根を寄せて続けた。 「…………俺の為に、とか、言うな」 「本当のことですから」 「…………本当だからだよ」  本当だから、言うな。  呟いた海老澤さんは両腕で支えた身体を引きずるようにして部屋の角へと逃げ込み、窓の外を、いや、もっと遠くを見つめて微かに唇を開いた。 「……飲みたくねえのに、飲む気になっちまうだろ。俺みたいなのに……贈り物、するのなんて、お前しかいないんだから」  それだけ呟くと、海老澤さんは着物を手繰り寄せ、痛みを堪えるように足の付け根を押さえた。  俯いた顔に、髪が掛かる。長い髪に覆われた顔から表情を読み取ることは出来なかったが、時折零れ聞こえてくる辛そうな呻き声から、限界を超えた痛みを覚えていることは感じ取れた。  限界を超えた痛みと、限界を超えた快楽なら、一体どちらがマシなのだろう。僕には想像がつかないが、少なくとも海老澤さんにとっては前者の方がまだ耐えられるようだった。  手の中の缶珈琲を見つめる。  もし、もう一度真摯にお願いして差し出せば、海老澤さんはこれを飲んでくれる気がする。それが彼の本意でなかったとしても。  僕にとってはその方が都合が良かったのだけれど、気づいた時には缶珈琲は空になっていて、僕の舌にはあまり好ましくない苦みが残っていた。  珈琲は嫌いだ。苦いし、美味しくない。でも、開けてしまったから置いていく訳にもいかない。  空っぽの缶を窓辺に置いて、身体を支えきれなくなったのか横たわった海老澤さんの隣に膝を寄せる。苦しげに唸る海老澤さんが震えていたので、僕は更に新聞紙を広げて彼の上に重ねた。  いたい、いたい、と呻く海老澤さんの身体を新聞紙の上から摩り、あやすように背を優しく撫でる。時折、とんとんと軽く手を置くと、転がっていた身体が少しだけ僕の方に近づいた。  決して苦しみが和らいでいる訳ではないようだけれど、濁った呻き声は僅かに落ち着いていた。気が紛れているのかもしれない。こんなことでよければ、いくらでもやりますよ。  そうして僕は、海老澤さんが意識を失うまで彼の身体を優しく撫で続けた。海老澤さんが寝入ったら出よう、と思っていたのだが、気づいたら膝の上に彼の頭が乗っていたので、結局僕もそこで眠ってしまった。  起きた時には崩れていたので蹴り飛ばしたりしていないか本気で心配だったのだが、海老澤さんは慌てる僕に「いいから、仕事行けよ」と言うだけで何も言わなかった。  いつもよりも棘が少なかったような気もする。なんだか不思議な気持ちになりつつ、僕は膝の辺りまで再生した海老澤さんに「行ってきます」と告げて、仕事に向かった。  好きな人に見送られて仕事に行く、というのは素晴らしい経験だ。何の変哲も無い朝の空が、まるで宝石のように見える。  思い立ち、一旦戻って「今日も来て良いですか」と聞いた僕に、海老澤さんはやっぱり棘の少ない声で、呆れたように「さっさと行け」とだけ口にした。

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