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君の元へ
「ルノワール先生、母国に残してきた恋人の元に戻ったらしいよ。何でも、先生のお父さんが危篤っていうのはルノワール先生を連れ戻すための嘘らしくて」
「ええっ、マジか。それにしてもそれが本当だったら、先生は向こうでその人と結婚してもう帰ってこないんじゃ……」
アダムが急遽帰国してしまって、やがて一週間が経とうとしている。その間、どこから広まったのか、そんな噂が学生たちの間に流れ始めて収集がつかなくなった。
しかし、鈴もまたそれがあながち間違いではないような気がしてならなかった。もし噂が本当ならば、少なくともアダムの父親は無事ということになるのだから、それだけでも良かったと思うべきなのだ。
せめてそれだけでも知りたいと思うのだが、教頭に尋ねても、アダムが帰国してから音沙汰がないという。
思えば、アダムが新任教師としてやって来た期間の方がまるで夢の中の出来事だったように思えてならない。
実際にアダムという教師がいたのは事実なのだろうが、彼に求愛されていたのは全て自分の願望が見せた幻だったのではないだろうか。
そう、離れてみて分かったのだが、鈴もまたアダムを一目見て気に入っていたことに気が付いてしまった。
それから、屋上でアダムのさりげない優しさに触れてしまった時には、既に好きになってしまっていたのかもしれないことにも。その証拠に、たった一週間離れているだけでこんなにも寂しく、こんなにも不安になっている。
素直になれなかったのは、最初からぐいぐい来られて戸惑ったのもあるが、ただ自分が傷付きたくなくて臆病になっていただけだ。
こんなことに気付いたところで、もう遅いというのに。
知らず知らずのうちに携帯を取り出して眺めるが、連絡先を交換していなかったことに思い当たると、苦笑いが漏れた。
その時、一本の電話が職員室にかかってきた。保護者からのクレームか何かだろうかと思いつつ、受話器を取ると、電話越しに何やら大勢の人間がいるようなざわめきがした。
「もしもし、アダム・ルノワールですけど。すみません、ずっと連絡できなくて。ちょっと特殊な状況だったものでして」
「アダム……?」
呆然と呟くように名前を呼ぶと、電話の向こうで息を呑む気配がした。
「レイ。君なんだね?ああ、声だけで感じてしまいそうだ」
「ばっ、何言ってるんだ」
鈴が赤くなって慌てると、アダムが笑う気配がした。
「今空港なんだ。やっと携帯を返してもらえて連絡できるようになった。全部アリシアの企みだったから、僕の父さんも無事だ。僕が日本に行くと決めた時点で自分から婚約破棄したくせに、やっぱり忘れられないと言って無理やり結婚させられるところだったけど、説得して来たよ。僕にはレイっていう最愛の人がいるってね」
「アダム、本当に良かったのか?」
「いいに決まってるよ。君に出会ってしまったからには、他なんてもう目に入らないからね。それに、僕なら君がどこか遠くに行ってしまうことになっても、どこまでも追いかけるよ。たとえ君が望まなかったとしてもね」
「……っ」
やっぱり噂は本当だったんだ、とか、いろいろ聞きたいことはあったが、何よりもアダムから囁かれる愛の言葉が懐かしくて、嬉しくてじんときてしまった。自分の気持ちに素直になると、こんなに聞こえ方が違うのか。
強引すぎる、押し付けがましいと思うべきところなのかもしれないが、ちっともそう思わないどころか、そこまで一心に愛されていると思えば感動もひとしおだった。
「続きは帰ってから話そう。本当は直接言うべきだけど、時間がないから事情は教頭たちに説明しておいて。君に会うために急いで向かうから。じゃあ、また後で」
「ああ、また」
よっぽど自分もアダムに会いたい、好きだと伝えたくて喉まで出かかったが、急いでいるようだったのでそれだけ言うと。電話が着れる寸前、受話器越しにリップ音がして、一気に顔に血が登った。
「あれ、佐上先生。顔が赤いですよ。今の誰だったんですか?」
「あ、アダム先生、です……」
近くの席にいた同僚に聞かれながら、鈴は顔の熱を冷ますのに苦労した。
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