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第3話 レンズ越しの君

 あの日から姫野を避けるように行動したこと、元々教室も遠く学校生活で関わり合いが無かったこともあり、会話すらなく日々は過ぎ、三年の春を迎えた。  進学する生徒は受験勉強に追われ、就職希望者は教師との面接練習や技能検定の取得を急いだ。  そんな忙しない中、三谷は家を継ぐし、俺は親父が働いている運送会社に入れてもらえることになっていたので、相変わらずだらだらした生活をしていた。  しかし、六月にある文化祭に向けて、担任が就活も何もしていない俺達二人をクラスの文化祭委員に勝手に選出してしまった。  どうやら、三谷と行動していれば俺が下手なことをしないということに気付いたようだった。  ただ、文化祭まで一回の放課後巡回――教師の見ていないところで問題行動を起こす生徒が毎年絶えないらしい――と開催当日の写真係という簡単な仕事だったし、イベント好きな三谷は一眼レフを持たされることにはしゃいでいたので、仕方なくやることにした。 「さかちゃん、向こうの棟の戸締りよろしくー」  放課後巡回の日、日が暮れ真っ暗になった学校で最終下校時刻を前に戸締りをして回った。今になって面倒な仕事を押し付けられたと思ったが、これが終われば当日まではだらだらしていられる。  溜息を吐いて、いつもは行かない専門教室の入っている校舎に向かう。  そこで、被服室の電気が点いていることに気付く。生徒らしき人影が見える。教室の戸に手を掛けた瞬間、その人物が誰か後ろ姿だったがすぐに分かった。 「姫野……」  声が、漏れた。途端、振り返った姫野と目が合う。一瞬驚いた顔をして、にっこりといつもの優しい笑みを浮かべた。  俺は一つ深呼吸をすると、覚悟を決めて教室の引き戸を開け放して、ゆっくりと姫野に近付いた。姫野の前には、純白のウエディングドレスを着たマネキンが立っていた。 「榊君、覚えてる? 初めて会った日のこと」  唐突にそんなことを言う姫野に、俺は一拍置いて「ああ」と答える。忘れるわけがない。 「このウエディングドレスは、あの時榊君が守ってくれた布だよ。あれから文化祭に向けてずっと作っていたんだ」  あの白い布がどうやってこうなったのかさっぱり見当がつかない。  作りはシンプルだが、所々にあしらわれているレースや、背中のばっさり空いたところがシースルーになっているところなどが、姫野の創造性を表している。  しかし、あれが純白のウエディングドレスに変わるなど、あの時は想像もできなかった。 「被服科はファッションショーやるんだってな」 「うん。三年生は皆自分の作った服を着て、モデルになってステージを歩くんだよ」  そう言うと、どことなく悲しげにウエディングドレスにそっと触れる。 「僕は男だから、代わりに二年生の女の子に着てもらおうと思ってる」  疑問だった。目の前のマネキンの大きさは明らかに一般的な女性より大きめだし、ウエディングドレスの採寸は見た目でははっきりとは分からないけれど、製作者の背丈に丁度である。  最初からモデルが決まっているなら、その子に合わせればいいと思うのだが。 「……お前なら似合うよ」  その言葉に「え」と声を上げて振り返る。答えは簡単だった。本当は、自分がウエディングドレスを着てランウェイを歩きたいのだと。 「俺は見てみたいよ。姫野が、かっこよくランウェイを歩いてる姿をさ」 「で、でも――」  その後の言葉は分かっていた。だから、俺は言わせないように、泣き出しそうになっている彼の頬を抓った。 「お前はお前らしく、自分のやりたいようにやれ。何があっても、俺はお前の友達でいるからさ」 「……うん。ありがとう」  俺はぽんぽんと姫野の頭を撫でて、教室の外に出た。 「最後の戸締りよろしくな。当日写真係やるから、しっかり姫野の勇姿収めてやるよ」  「じゃあ」と手を挙げると、姫野は笑顔で小さく手を振った。  平静を装えていただろうか、と被服室を出て角を曲がったところで呼吸を整える。  何も無かったように話してくれたが、恐らく今日は二人きりだったからできたことだ。次は、写真を渡す機会があれば、その時が最後な気がする。  自分で相手を突き放したくせに、と三谷なら言うだろうなと思いながら、それでも姫野と俺は違いすぎるし、修学旅行の時のように迷惑を掛けることがあるかもしれない。  それが、あの頃の俺には耐えられなかった。今考えれば、三谷も俺に関わらなければ多くの友人に囲まれた学校生活を送れたはずで、それを深く気に病んでいなかったのは、やはり姫野が特別な人間だったからなのだ。  薄暗い廊下を戸締りの点検をするのも忘れて、何をするでもなく歩いた。三谷が憤慨して俺の前に現れるまで。顔を見た瞬間、何か分かったような風で、何も聞かないでいてくれたけれど。  その夜、親父に一眼レフの扱い方を聞いた。俺が、姫野にしてやれるのは、それくらいしか無かったから。  文化祭当日、朝から準備に追われている騒々しい校内で、学校の備品という旧型の一眼レフを借りた俺達は適当に準備段階の写真を撮った。  開会式でもいつもは生徒の列に居るが、写真係なので外側からうろうろして時々写真を撮るだけでよく楽だった。  思えば、教師は俺が面倒を起こす機会を根こそぎ奪うのが目的だったのだ。そして、教師の思惑とは関係なく、俺はレンズ越しに見る世界に少しずつ楽しみを覚えていた。 「被服科のファッションショー始まるよー」  写真部の展示の様子を撮っているところに三谷が呼びに来た。  姫野が出ることは結局伝えなかったのだが――あの日会って話をしたことを教えられないので――、被服科のファッションショーは県内では新聞に載るほどに有名だし、絶対撮るようにと教師にも念を押されていたため、時間になる前に体育館に向かった。 「さすが学校を上げた催しだけあって派手だねえ」  特別に作られたランウェイはわざわざ業者に頼んで組んでもらったものだし、照明は教師を交えて演劇部総出で設置しリハも時間を取って行われたのだそうだ。 「ひめちゃんも出るのかな? 三年生はモデルやるんだよね」 「……ランウェイの正面行くぞ。写真にしっかり収めないとな」  答えずに関係者以外は入れない特等席に陣取る。しかし、馬鹿なはずの三谷は、こういう時にやたらと察する能力があって、俺の表情や反応から分かったようだった。 「さかちゃんはひめちゃんと上手くいくと思うんだけどな」  照明が落とされスポットライトの点灯したステージを眺めながら、ぼそっと一言。  と、同時にステージに代表の学生服姿の女生徒が歩いてくる。慌ててカメラを構える。搾りとズームで調整して被写体が一番綺麗に映る形を探す。  そうしているうちに、もやもやしていた感情が次第に雲が晴れるように消えていった。 「三年被服科三十五名によるファッションショー、三年間の集大成です。是非一緒に楽しんで下さい」  スポットライトが眩しいのか他の理由か、ズームアップされたカメラ越しの彼女の目には涙が浮かんできらきらと輝いていた。  盛大な拍手と共に軽快な音楽が流れる。ポップな服やロリータファッションなど、一人一人女子生徒がこの日のために制作した自作の服を着て楽しげにランウェイを歩く。  曲がクールなロックテイストに変わると、男装やセクシーな大人の衣装に身を包んだ生徒達が引き締まった表情で登場した。  自信に満ち溢れた彼女達の姿を、表情を、俺は一枚一枚写真に収めていった。どうすれば一番綺麗にこの場面を切り取れるのか、自然とそんなことを考えながら搾りと拡縮を懸命に弄っている俺が居た。  音楽が一瞬止まり、静かになったかと思うと、爽やかなトランペットの音が印象的なジャズ――「Hart and Soul」という曲だった――が流れ始める。  今でもあの瞬間を鮮明に思い出すことができる。ウエディングドレスを着た彼が現れた瞬間、会場にいた全ての人が息を呑み、釘付けにされていた。スポットライトを浴びてベールがきらきらと輝き、純白のドレスは彼の白く細い身体に添うように緩やかな曲線を描く。  人々の視線を一身に受けながら、彼は凛とした表情で真っ直ぐに自分の進むべき道を見据えて歩いた。  思わずシャッターを切っていた。初めて姫野を見た時に感じた強さをしっかりとした足取りでステージを歩く彼の姿から感じ取ったからかもしれない。  ファインダー越しに、一瞬目が合った、と思う。その時に見せた満開の笑顔を心とフィルムに焼き付けた。  ランウェイの先端で立ち止まり、ドレスの裾を軽く持ち上げながらくるりと回転するとシースルーのスカートがふわりと広がった。そしてそのまま後ろを向いてゆっくりと舞台中央に戻っていく。  正面も横も、去っていく後ろ姿も、何枚も撮った。必死だった。扱いなれていないその機械を使って、今俺の撮れる最高の写真を撮ろうとして、必死にレンズ越しの彼を捉えようとした。  ステージ中央で振り返った彼は、微笑を湛えて一礼して舞台袖に消えていった。 「ひめちゃん、綺麗だったねー」  明るい曲に切り替わり、今まで出てきた生徒達がステージ上に並んだ。終わったばかりの姫野も最後に出てきて、全員で「ありがとうございました」とお辞儀をすると、照明が落ちた。  次々と観客が会場を出ていく中、俺はその場からしばらく立ち上がれなかった。 「……俺と姫野は、あまりにも違い過ぎるんだよ」  「上手くいく」と言った三谷に言うようで、自分の気持ちに封をするためにそう呟いた。  ステージ上の彼は遠い。俺の手の届くところにいた姫野は、もう飛び立って行ってしまったのだ。俺が、籠の中から出て行かない彼を導いてしまったから。 「さかちゃんは、ずるい。うそつき」  真っ直ぐに俺を見据える三谷は、少し怖かった。何に怒っているのかもわからずたじろぐ。 「その上優しいんだから、そんなの卑怯だよ」  立ち上がった三谷は座ってカメラを持ったままの俺の両肩を力強くと掴んだ。 「自分の気持ちを、自分をもっと大事にしなきゃだめだよ」  傍らで三年間俺を見てきた彼は、気付いていたのだ。  俺が自分のやりたいことを置いて、他の誰かに譲る癖があることを。そのせいで誰にも期待されず、誰にも求められず、自分も希望しない生き方を選択してしまっていたのを。 「……俺、今やりたいこと見つかったから。頑張るよ」  学校の名前が書かれた一眼レフを見詰めながら、心に浮かんだ希望を抱き締め、ゆっくりと立ち上がった。三谷は顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。  後日、あの日姫野を撮った俺の写真は、学校のパンフレットに使われることになり、期待せずに任せたはずの担任は、すごくいい写真だと褒めた。それだけでなく、美術教師から、「今からでも本気でやってみないか」と写真学科のある大学のパンフレットを渡された。  今まで生きてきて、これほど他人に期待されることと希望することが同じだったことは無かったと思う。俺はパンフレットに載っていた写真学科の卒業生の作品と卒業後の進路を見て、「ああ、これだ」と思った。  教師から文化祭の写真で使用しない数枚を貰って、深夜仕事から帰ってきた親父に見せた。褒めてくれた親父に、俺は人生で初めてかもしれない夢を話した。  ――写真学科に行って、写真家になりたい。  学費について心配した俺に、受かってから言え、と笑いながら、「心配しなくてもちゃんと貯めてある」と俺の頭をぽんぽんと軽く叩いた。こういう時、親っていうのはすごい生き物だと心底思う。  それから、俺は他の生徒より遅く受験勉強に取り組んだ。三谷は俺の変化に大して驚きもせず、深く詮索もせず、今までと変わらず行動を共にした。  学力の方は今まで怠惰に過ごしてきた時間が長過ぎて、他人には追いつけなかったが、実技の受験があることを知って、土日に写真展に行ったり参考書を買ったり、自分でも学校に頼んで借りた一眼レフで写真を撮りまくった。そのおかげで、冬に行われた実技試験で教授の中の一人が気に入ってくれたらしく、どうにか合格することができた。  そうしている間に姫野を学校内で見なくなったこともあり、そのまま進路も何も知らないまま卒業してしまった。

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