3 / 3

第3話 side 景

 一人で家にいて、すこし広すぎたかと考えた。  律はここが賃貸だと思っているようだが実は親が買った。買ったほうが安いという理屈もわからなくはないが、さすがにやりすぎだろうと我が親ながら思う。  律は我が家の恩人だ、俺の恩人であり、母の恩人であり、父の恩人でもある。あの当時閉塞していた家の空気を一人ですべて入れ替えた。だから律と一緒にいたいと言った俺の願いを両親は深く聞かず簡単に叶えた。  でもそこに律の意思はない。  俺の好きだという告白に律は「そうか」と言った。一緒に住もうという誘いには「そのうち」とこたえた。拒絶はしない、それをできないようにしたのは俺だ。そして受け入れない、結局受け入れることしかできないことを知っているからだ。  ずっと、片思いをしている。  それがいつからなのかはもうよくわからない、律が初めて家に来たときからかもしれない。美味しそうにケーキを食べて幸せそうな顔をした律を見たときから、きっと好きだった。  だから一緒におやつを食べ始めて楽しくて、なんでこいつと一緒に学校に行っていないのかと疑問にすら思った。学校に行こうと思うと律に言ったとき、律が嬉しそうな顔をしたので俺は少し浮かれていた。  学校で一緒に行動するようになって律は何度か自分と一緒にいていいのかのと聞いてきた。俺はそれも遠慮しているのかと思っていた。律は俺と一緒にいることを拒まなかったし、家にだって何度も来ていた。俺を見て穏やかに微笑んだ。もしかして律も俺を好きなのではないか──そんなことを思ったりもしていた。  全部、全部俺の勘違いだった。  律にはほかに好きな人がいた。  その人からもらったチョコを見て、律は嬉しそうな顔をする。それは律の片思いで、でも律はそれでいいと思っているようだった。立場が違うといえばそうなんだろう、男同士だからというのもきっとある。最初から手に入れることは諦めて、それでも健気に律はその人のことを想っていた。  そして、律が好きな人もまた律のことを見ていた。  あのチョコは律のために用意されたものだ。ほかのやつにはアメを渡していて俺がその場面を見たら一瞬バツの悪そうな顔をしていた。そしてその人もきっと律とどうにかなろうなんてことは思っていなかった。  ただ優しい顔で律を見て、たまにチョコを渡して律の嬉しそうな顔に満足しているように見えた。  そんな二人を、俺は邪魔した。  律が頼まれごとをされるときは必ずついていった。律に付きまとっていたと言ってもいいかもしれない。実際、ずっと律と一緒にいたかった。  律が理系に行こうとしていると知ったときは嬉しかった。少しでも好きな人と一緒にいられるようにという気持ちからだったとしても、俺が律と一緒にいられる可能性が高くなる。そのためになんとか律を言いくるめて律の勉強もみた。律の苦手そうなところを予測してあらかじめ対策を立てたりもした。律の成績は上がり、律は先生に何かを聞きに行こうとすることもなくなった。  昔からの知り合いにも律のおかげで学校に来れたのだと言うと、律に感謝こそすれほかに何かを言うようなことはなかった。親はもちろん、律に多大な感謝を寄せいている。  断ることが苦手な律は、そんな空気の中で俺を遠ざけることが出来なかった。俺と一緒にいてたまに困ったように笑う。そんなとき、律はこっそりとチョコをひとつ口に入れていた。  それは非常食と律が言っていたあのチョコで、実際律にとっては足りない何かを満たすための大切なものだった。  それは律のためのものだから、俺の分も律に渡した。  卒業式の日に、最後にひとつチョコが渡される場面を近くで見ていた。  いつもと同じようにそれは手渡され、律が受け取る。俺の分はなく「最後のひとつなんだ」と申し訳なさそうに言っていた。  それだけだった。  あの人は俺が律と一緒にいることに嫌な顔をしたことはない。律だってそうだ、たまに困った顔をしていたけどそれだけで嫌だなんてことは一度も言った事がない。  俺は自分が二人の邪魔をしていることを自覚していて、それでも律から離れたくなかった。でも二人はそんな俺を遠ざけることはしなかった。  今も、こんな部屋を用意していつか律が来るのを待っている。きっと律は断れない、だからそのうちと言って困ったように笑う。  もし俺がいなければ、あの二人は今頃どうしているのだろう。教師と生徒という立場がなくなればその想いを伝えあっているのだろうか。  そして、優しく笑い合っているのだろうか──その空気は、きっとあの二人にとてもよく似合う。  ずっと、片思いをしている。  それは律も一緒で、俺がいなければおそらくする必要のなかった片思いを今でもしている。最後にもらったチョコを今でも食べず大切に持っている。  律の片思いがきっと届いていたことを律は知らない。  あのチョコを俺の分も律に渡す、ありがとうと言って律が受け取るのが苦しかった。嬉しそうに笑うのが辛かった。それでも一緒にいたかった、ずっと一緒にいたい。  今でも母親が作った菓子を食べにやってきて、それを食べると自分の家に帰っていく。繋ぎ止めておけるようなものは何もなく、ただ見送ることしかできない。  律が言うそのうちを待つことしかできない。  インターホンが鳴った。  こんな時間に誰かと見てみると律だった。 「忘れ物でもしたの」 「うーん、まあそうかな。上がっていい?」  律には合鍵を渡してあるのにいつもインターホンを押す。ここは自分の居場所ではないと線引きしているようだ。部屋に入ると改めるように部屋の中を見渡した。 「なに忘れたの、俺も探そうか?」  聞くと律は困ったように笑った。思わず律の手を掴む。  その顔は嫌だ、いつも俺が律を困らせる。 「景、どうしたの」 「……何でもない」  手を離すと律は不思議そうな顔をした。そしてやはり困ったような顔をして「……ナオには勢いで言ったけどいざとなると難しいな」と呟いた。 「ナオくん? ナオくんがどうしたの」 「うん、ちょっとね…………あ、ナオ彼女できたって」 「……彼女」 「まあそれでってわけじゃないんだけど──景、来週引っ越そうと思う。手伝ってくれる?」 「……どこに」 「どこって、ここにだけど……」 「……いいの?」 「いいも何も……もう俺の部屋だって言って借りてるんだろ。俺になんの相談もなしに、本当に困るなぁ」  律は困ったような、でも少し楽しそうな顔をした。何かが吹っ切れたような雰囲気で、きっともう諦めたのだと知る。  それはずっと俺の望んでいたことで、とても嬉しいことのはずなのに、なぜかひどく胸が締め付けられた。喜んで、嬉しそうな顔をするべきなのに──ただ、顔が引きつるだけで俺はそれを諦めた。  おそらく俺の反応が予想外だったのだろう。やはり律は困惑して「景?」と俺の様子を伺うように囁いた。   「……ごめん」 「ごめんって何?」 「チョコは?」 「……なんだ、やっぱり知ってたのか」 「何度か間違えたって言って勝手に捨てようかと思った」 「ひどいな…………もう食べたよ。なんか分離しててまずかった」 「…………そう」 「景?」 「……先生…………律のためにあのチョコを用意してた」 「…………え」 「他のやつにはチョコなんて渡してなかった。あれは律のものだよ、律のためのものだ」 「……俺が甘いもの好きだからかな」 「違う、きっと違う……俺は…………邪魔だっただろ。わざと邪魔してたんだ。ずっと一緒にいたくて、取られたくなかった……先生はきっと律が…………でも律と一緒でいつも笑っていて……」  律の顔が見れない。うつむき話すと「それは景の気のせいだよ。ヤキモチでも焼いてたんじゃないの?」ときっと空気を変えようとしている律の明るい声が聞こえる。  また、胸が痛い。 「……気のせいじゃない。卒業式の日に律にだけチョコを渡して俺にごめんって言った。ずっとあの人には律だけが特別だった。だから……律に告白してここも勝手に用意したんだ。律が優しくて、きっと断れない事を知っていて俺はこんな場所を用意した。律……ここが賃貸だと思ってるだろ、本当は親が買ったんだ。俺が律と一緒にいたいって言ったから、だから母親もいまだにわざわざお菓子を作って運んでくる。両親とも俺に甘いんだ。それなのに肝心の俺には律をつなぎとめていられるものが何もない。律の優しさを利用するしか俺は律と一緒にいられる方法がない。それでもいいって思ってたんだ…………それなのに……」 「景…………なんで泣くの……」 「ごめん…………こんなのずるいってわかってる。こんなこと言うべきじゃない、本当は言わないつもりだったんだ。言わずに律が俺のところに来たら喜べると思ってた…………ずっと隠しておこうって…………先生と律はよく似ている、優しくて、二人共片思いで、でもそれでいいって思ってて、ただ二人の時間を大切にしていた。お似合いだと思ったんだ、今でも思ってる。でも俺が邪魔したんだ、だから俺はそれを黙ってなくちゃ、俺が苦しいのなんて当たり前で……それでいいって思ったんだ。笑えるって思ってたのに…………本当は嬉しい顔をしないと、喜んで引っ越しの日取り決めて……親に言ったらきっと手伝いに来るからそれは黙っておこうかとかそんなこと話して──」 「ナオは手伝わせようか、後で焼き肉食べ放題って言えば絶対喜んで手伝うから。でも爽子さんに内緒にすると絶対いじけるから何か特別にやらないとだめかな。いつも作ってもらってばっかりだから今度は二人で何かご馳走作って招待しようか」 「……律」 「ナオにまだ付き合ってなかったのかって驚かれた。俺たち見てずっと付き合ってると思ってたんだって……そんな風に見えてたのかな」 「……そうなの」 「そうみたい。俺、景と一緒に暮らすことは普通に想像できるんだ。一緒に料理して、家事とかして…………まぁ俺はまだ全然できないから教えてもらわないといけないけど……たまに爽子さんが来てとか普通に想像できる。でもきっと当分のあいだは爽子さんが興奮して毎日のように突撃してくるんじゃないかとか、そのうちご飯まで作り出すんじゃないかとか、玄関あけたら普通にお帰りって言われそうとか…………」 「……否定できないけど……母さんのことばっかり……」 「そう。で、それくらいになってやっと景は爽子さんにちょっと控えてとか言うんだ。しかもやめてじゃなくてもう少し控えてぐらいしか言えない、マザコンだから」 「…………マザコン。いや、もっと早い段階でちゃんと止めるよ」 「どこで?」 「……洗濯とかしだしたら……止めるかな」 「それは早くないよ。でもそんなことが簡単に想像できる。先生とは無理だよ付き合うことすら想像できない、片思いだから。先生だってきっともうなんとも思ってないよ。よく懐いてたなぁくらいじゃないかな」 「でも…………」 「引きずってたのは確かだけど、後生大事にチョコ持ってて……だけど吹っ切れたから」 「なんで」 「景は俺のこと優しいって言うけど俺はそんなつもり無いんだ。むしろ景のほうが優しいと思う」 「俺は……」 「ずっと……俺にチョコをくれていた。景だっていつも笑っていたよ。笑って本当に好きだなって俺にチョコをくれた」 「あれは律のだから」 「……そうかもしれない。それでも俺は嬉しかった」 「……それは先生からもらったからで……」 「それだけじゃないよ。俺は景がくれるのも嬉しかったんだ」  律は本当に嬉しそうな顔をしてそう言うと一度大きく息を吐いた。そしてもう一度、今度は穏やかな顔で俺を見た。   「好きだよ。遅くなってごめん」  それは、俺がずっと聞きたかった言葉で  きっと嬉しい顔をしなくてはいけないのに──── 「泣かないでよ」と律はまた困った顔をしたあと笑った。

ともだちにシェアしよう!