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第8話

「ああ…もうすぐ、日が落ちるな。なぁ、今日は変わった食料を貰ったんだ。チーズというらしい」 「ナァウ………」 ――あんたよく貰い物をするな。 「どうやって食べるか知っているか?」 「ニャ……」 ――おれがそんな事知る筈がない。 「ほら、すごい臭いだろう?」 「ゴロロロロ……」 ――そうか?おれは案外いい匂いだと思うがね。 「おや、オマエはこれが好きなのか。まあ、漬物のような臭いと思えなくもないな。野菜に乗せて焼いて食べてもいいらしい。オマエは大根と、ゴボウと、白菜、どれと一緒に焼くのがいいと思う?」 「ナァ………」 「ああ、たしかに煮て食べる野菜ばりだ。ならば、そうだ、先日作り方を教えてもらった肉じゃがというのに入れてみようか」 「ニャァゴ……無理に今日食べる必要はない。明日にでもそれをくれた人の襖へ行って、もう一度きちんと食べ方を聞いてくればいい」 「しかし、チーズには媚薬の効果があるらしいんだ」 「……なぜ媚薬などがいる?」 この男は飽きもせず毎日おれを求めて、おれも昼夜どちらが獣なのかわからなくなりそうなほどこの男をむさぼっているというのに。 「それは…オマエがあれから全く俺へ『好きだ』と言ってくれないから……」 「はっ。そんなこと…。ならばいいかげん、あんたもおれを『文治』と呼べよ」 「はぁ…またそれだ。呼べば機嫌が悪くなるくせに」 「ブチじゃない。文治と呼べ」 「どう呼べば満足するんだ、ブチ、ブチー、ブーチ、ブッチー」 「文治だ」 膝の上で猫から人の姿に戻ったおれの頭を松燕がそっと抱きしめる。 「どう呼んだって同じだろう?俺がオマエを愛しく思っている事に変わりない」 「ちがうさ。おれはブチじゃない…。おれは猫のブチじゃない。おれは文…。ブン…?」 「そう、そうオマエはただのブチじゃない。俺の愛しい『猫神のブチ』だ」 おれの頭にピンと立つ獣の耳をそっと口にふくんだ。 「……ちがう」 「どう違う?どう呼ぼうが俺がオマエを大切に思っていることに変わりないのに」 「…おれだって、あんたを想っている。だから…消さねばならない生の記憶など捨て、ここであんたと睦み合うおれに気持ちを向けて欲しいんだ」 「俺はオマエが好きで好きでたまらないと毎日伝えているのに、まだ足りないのか?」 先程までとは違う、艶かしい手つきで松燕がおれの着物の合わせ目に手を差し込む。 「夕食(ゆうげ)はもういい。なぁ、オマエが欲しいよ。日は落ちた。膝からおりて、オマエが俺を愛でる番だろう?」 「……そうだ。夜のおれは猫じゃない。…おれだってオマエが欲しい。だから、なぁ…ちゃんとおれの名前を呼んでくれよ」 「いやだ。呼べば機嫌が悪くなり、俺を好きだと言ってくれなくなる」 「おれは猫じゃないんだ」 襟を掴んで、すこし強引に畳に押し倒す。 そんなおれを松燕が艶めく笑顔で嬉しそうに見上げる。 「ああ、知っているよ。夜は人の姿だ」 「当たり前だ。おれは人だ。おれの名前は…文…ブン。……おれは…だれだ……」 「オマエは俺の愛しい男だ」 「あんたの好きなおれは……誰だ」 「オマエは…オマエだ。もう名前など要らないだろう?なぁ、今日こそオマエを満足させてみせるから…。我を忘れ、俺に狂ってくれ」 松燕はくるりと身体を入れ替え、おれにまたがると帯を解いていく。 おれは畳に寝たまま、その腰をつかみ乱暴に松燕の下履きを乱した。 おれの性急な様子に松燕は満足げにほほを緩める。 そして松燕の尻に指を差込みながら胸に口づけるおれの頭を抱き、頭上にピンと立つ獣の耳をまた口に含んだ。 「ずっと一緒だ。オマエと、ここで……前世が薄れて互いが愛しいという気持ちだけが残って、それさえも消えてまっさらになるまで」 「そうだ。あんたと共に消えるのは…猫じゃない。おれだ……」 「………ずっとオマエと一緒だ………」 「ああ、一緒に。消えるまでおれを想ってくれ」 「もちろんだ。……俺が想っているのは、そして俺を狂わせるのは、オマエだけだよ、ブチ」 涙が流れる理由もわからずに、おれは愛しい男の胸に尖った獣の牙をめり込ませた。 《終》

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