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第1話
居酒屋のガラス戸に仕切られた小さな個室へ、近付いてくる姿を見かけて菅野が比良木に顎で示した。
「ほら、比良木さんの愛しい方がお見えですよ」
「その言い方やめろよ」
比良木が顔を赤くする。
「事実でしょ」
「………」
ガラス戸を開けて中を覗き込んだ大杉が比良木を見つけて微笑む。それから菅野ににっこりと笑いかけた。
「お疲れ様です」
そして靴を脱いで上がってくると、まっすぐ比良木の隣に座った。
「遅くなった?」
比良木に問いかけると、比良木はふにゃと笑って首を振った。
そんな二人を菅野は微笑んで眺めている。
「葉山さんは?」
いるはずのもう一人の存在に気付いて、大杉は菅野に問いかけた。
「ああ、実は今取り組んでるプロジェクトが佳境らしいんだけど、部下が失敗したらしくて、その後片付けで遅くなるらしいです」
「へえ、部下とかいんの」
「一応ね、プロジェクトリーダーやってますよ。全力で終わらせて駆けつけるからって言ってました。すいませんね、言い出しっぺが遅刻で」
菅野が軽く頭を下げた。
「あ、いえいえ」
「ひらちゃんの彼氏が見たい!」
葉山の一言からこの食事会というか飲み会が計画された。といっても、大杉の都合を聞いて、三人でよく行く居酒屋に個室を取った。
「ということで、ちゃっちゃと始めましょう」
菅野がさっさとメニューを広げた。
「待たなくていいの?」
大杉の言葉に菅野は大げさに手を振って見せた。
「いいのいいの!もうね、待つだけ無駄。失敗した当事者にある程度けじめつけさせたら、きっと早々に返しちゃって、多分一人でやってますから。絶対、早くはきませんよ」
「え、一人で?」
「そういうやつなんで。俺、ビール!」
苦笑いしてパタンとメニューを閉じた。
「あ、俺も」
「俺も」
現れた店員にビールや他の料理などを注文した。
「葉山さんとは長いの?」
大杉が菅野に尋ねた。
「長いよ」
「いや、あなたが答えないでくださいよ。まあ、長いけども」
菅野が言うと、比良木が笑った。
「へえ、どれくらい」
「もう、かれこれ15年…ぐらいじゃないですかね」
「え?」
驚いた大杉が比良木を一度振り向いた。
比良木はうんうん頷いて「長いよね」と呟いた。
「で、でも俺と同い年でしょ」
「うん。15の時からの付き合い。知り合ったのはその2・3年前かな」
「へ、え、そう」
大杉の驚きぶりに、菅野は苦笑した。
無理もない。
自分たちは少々特殊だから。
菅野浩人が葉山将樹と初めて会ったのは中学の頃。
まだ背も菅野と変わらなかった。
一つ上のはずなのに、気さくで、懐っこく誰とでも親しげに話していた。
すぐにわかった。
初めて見るα。
何もかもが菅野とは正反対。
慎重に考えるタイプの菅野と、楽天的で天然な葉山。
最初は気に入らなかった。
αに対する偏見もあったかもしれない。
けれど葉山は、菅野のイメージするαにはまったく当てはまらなかった。
社会的地位を獲得し、人の上に立つべき支配者。
葉山は支配者とは似ても似つかない。
最初はなぜこんな奴がαなんだとさえ思った。
だが、同じ野球チームで活動するうち、人の上に立つのは支配するだけではないと知った。
同等の立場で周りを支えて、中心にいることでも人の上に担ぎ上げられる。
それを葉山に教えられた。
正直αの見方が変わったというより、葉山の見方が変わった。
どんなに苦しくても、人の中心で笑ってる。
自分が笑っていることで、周りが笑ってくれることを知っている。
さすがに怪我を隠して、笑っている姿を見たときには胸が痛んだ。
堪らず誰も居なくなった更衣室で、皆と出て行こうとした葉山を呼び止めた。
「葉山さん」
「ん、なに?菅野」
それまでろくに話したこともないのに、平等に扱う。
「ちょっと座ってください」
不思議がる葉山を半ば無理やり座らせて、ズボンの裾を捲れば、真っ赤に腫れた足首。
「やっぱり」
これで試合に出ようと言うのだから呆れる。
準備していた冷却スプレーや湿布、包帯を見せ、葉山に尋ねた。
「どれがいいですか」
葉山に選ばせたのは、せっかく皆に隠して頑張ろうとしている葉山の気持ちに打たれたから。
包帯は手当としては効果が持てるが、確実に動きが制限される。
驚いたように菅野を見下ろしていた葉山が、やがてくしゃっと破顔した。
「包帯、したほうがいいと思う?」
「相当腫れてますからね。でも、動きが悪くなって、皆に気付かれますよ」
気付かれたくないんでしょ?そう見上げると、ひどく嬉しそうに笑う葉山と目があった。
不覚にもどきりとしてしまい、慌てて視線を逸らした。
「ん、でも菅野がしたほうがいいって言うならするよ。大丈夫、ばれないようにやるから。いざという時痛んで動けない方が、みんなに迷惑かけちゃうからね」
そう屈託無く笑う。
完全にその時、菅野は葉山に惹かれ始めた。
そもそもが葉山を見ていたから、怪我にも気づいた。
知らず知らずαの魅力に惹かれたのかもしれない。
湿布をして包帯をし、庇うため痛みがあるという脹脛の筋肉にスプレー式の湿布を振りかけてやる。
「あー、楽になった」
にこにこと笑い、ありがとう、と何度も言われる。
「どういたしまして。じゃ、行きましょうか」
そう言って歩き出した菅野の肩に、葉山が手を掛けた。
「ちょっと、肩貸してね」
菅野の肩につかまりながら歩き出した姿は痛々しかった。
そんなになってまで、草野球ごときに真剣にならなくてもいいのに。
葉山が引きずる足を見下ろしながら思った。
ひゃひゃひゃ、と独特の笑い声がして、肩に置かれた手が菅野の頭をくしゃっと撫でた。
「なんて顔してんの。痛いのは俺なのに。菅野は優しいね」
初めて言われた言葉だった。
冷たいとか、何考えてるかわからないとか言われたことはあったけれど。
驚いて葉山を見ると、にこにこと惜しみなく笑顔が振る舞われた。
それからだ。
菅野がいち早く気付くからなのか、葉山は体調の悪いことや怪我などはもちろん、落ち込むようなことがあった時など菅野に打ち明けてくれるようになった。
急激に二人の距離は縮まり、あっという間にヒロ、将樹と呼び合うようになった。
休みの日はどちらかの家に集まって、ゲームをしたり、外に遊びに出かけたりした。
必死に押し殺してはいたけれど、菅野は葉山に恋をしていた。
αでもなくΩでもない関係が出来るだけ長く続くこと祈って。
そしていつかは訪れると覚悟していた日がやってきた。
前触れもなく、突然に。
しかも葉山と一緒の時に。
菅野の受験も終わって見事志望校に合格し、久しぶりに会って遊びに出掛けた。
葉山はすでに同じ高校に通っていた。
久しぶりだったため、ついつい盛り上がって、ゲームセンターで時間をかけすぎた。
帰り始めた時にはうっすらと夕闇が近付いていた。
公園から神社の境内を抜けるいつもの帰り道。
公園に差し掛かったあたりで、菅野は体に違和感を感じた。
急に体が重くなった気がした。
思わず遅くなった歩みに葉山が声をかけてくる。
「どうしたの」
「や、なんか遊び疲れたっぽい」
本気でそう思っていた。
前を歩く葉山が今日一緒にやったゲームで何が面白かったとか、悔しかったとか話しているのが、だんだんと遠くに聞こえてきた。
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