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 夏も終わりに近づき、まだ残る強い日差しはビルの窓に反射している。  毎年恒例だという納涼会のセッティングを頼まれた俺は案の定、部署違いの中崎を誘うようにと指示を受けた。  嫌な顔ひとつせずに、女性社員からの誘いを受ける中崎はいつものことだ。  けれど以前と違うことが、ひとつだけある。  それは誘いを受けたとき必ず、「お前がいいなら」と付け加えるようになったことだ。  つまり俺の了承が得られなければ、飲み会には参加しないということなのだろう。  そんなもの、彼を信用している俺にとって、まったく必要ないことだというのに。  数週間前から予約したダイニングバーは、人事部の課長である東堂おすすめの店だ。  苦手だった課長二人の前で泣いて以来、なぜかよく絡まれるようになる。  直属の上司である馬嶋なんかは、俺を以前よりさらに増して、食事へ誘ってくるようになった。  あれ以来、俺は周囲に対する見方ががらりと変わる。  一人きりだとは思わなくなったし、何しろ孤独を感じない。  寂しいと思うことはあったが、そんなときはすぐにメッセージを送った。  “会いたい”  そんな女々しい言葉ひとつ送れば、相手はすぐに飛んでくる。  薄暗い店内には丸テーブルがいくつも置かれて、数人が座れるように椅子が囲っている。  各テーブルでは仲のいいグループがすでに出来上がっていて、全体としての飲み会はすでに成立していない。  会も中盤に差し掛かると、上司の馬嶋や主任へのお酌まわりは一旦休憩することにする。  俺は幹事用に用意された個室へ戻って、ソフトドリンクを煽った。  三人掛けのソファ席が向かい合わせに並んだ場所で、テーブルの上には飲み物と軽食が用意されている。  ソファの上には他の幹事が置いていった荷物が山になって重なり、戻ってくる気配がないことは聞こえる賑やかさでわかった。  お酌ばかりして、一口も食事に手をつけていなかったせいか腹の虫が鳴り出す。  テーブルへ並べられた軽食を適当につまんてんいると、メッセージを見た中崎がノックもせずに個室へと現れた。 「何が“会いたい”だよ。おれを無視して、上司にばかり愛想を振り撒いてるくせに」  少しばかり拗ねた様子の中崎は、俺の隣に座るなり目を合わせようとしない。 「悪かったって。でも中崎だって、芳沢さんと二人だけで話をしていたみたいだけど」  特別上司へごまをすっているつもりはなかった。  隣に座ったこの膨れ顔に、まったく相手をしてやらなかったことも確かだ。  けれど社内で人気を誇る男女二人が密かに話をしているなんてものは、気遣わしいことこの上ない。 「ああ、あれね。何を話してたか聞きたいか?」  俺の嫉妬心は相手に丸見えで、それに気をよくしたのか、中崎はようやくこちらに顔を向けた。 「なんだよ。隠すこともないだろ」 「まぁ、そうだけど……」  機嫌をなおした中崎のことだから、すぐに余計なことまで話し出すのかと思いきやそうでもない。  何かためらっているようにも見えて、落ち着きのない相手を訝しく思った。 「モテる男は辛いね」 「違うって。前も話したけど、芳沢さんは由貴に気があるんだよ。さっき彼女がいるか探りをいれてきた」  中崎は盛られた軽食をバランスよく小皿にとって、俺の前に出した。  ついでに空になったグラスの変わりに、部屋に用意されていたミネラルウォーターのボトルを手渡してくる。 「まじかよ」 「まじだよ」  気の利いたところは感心するが、今はそれどころではいと驚きながらボトルを握る。  ふいと視線をそらした中崎は、やはりどこか拗ねているようで、見た目に反して可愛げがあった。 「なんて答えたんだ?」  芳沢さんへ多少の興味も沸いたが、俺の救いである中崎がどう対処したのか、気になってしかたがなかった。  詰め寄って覗き込みながら、躊躇う相手の答えを待つ。 「付き合ってるやつがいるって、いってやった」  どきりと心臓が大きく鳴って、予想外の言葉に息を止めた。  少しばかり相手をからかってやろうという思いは消えて、なぜか照れている自分がいる。  熱くなった顔を隠すのも忘れて、詰め寄ったまま俺は固まってしまった。 「やめろよ、その顔。こっちが恥ずかしくなるだろ」  中崎の耳は酔っているのかそうでないのか赤くなって、ちらりとこちらを横目に見て慌てている。 「どんな顔だよ!」  穴があったら入りたいとはこのことなのか、互いに色を変えた相手から距離を取った。 「……でも、事実だし。由貴も今度迫られたらそう言えばいいよ」  気を紛らわすために、ボトルの水を一気に半分まで飲みほす。  そうすれば少しだけだが、高揚した気分が覚めたようにも感じた。 「中崎と付き合ってるって?」 「名前はふせていいから。てか、ふたりきりのときは名前で呼ぶって約束」 「あ、うん、そうだったな……」  中崎の要望で始めたルールは、ふたりきりのときだけに発動する。  自分の嫌いだった女のような名前も、中崎相手なら呼ばれてもいいと思った。  けれど呼び慣れた名前以外を口にするのは、俺にはなかなか難しい。  相手の要望に答えるには、まだ時間が必要だった。 「ほら、呼んでみて」 「とう、………いや、近いだろ」  今度は中崎が俺に詰め寄ってくる。  狭いソファの隅まで追いやられて、ついには逃げ道がなくなってしまう。 「大丈夫。鍵閉めたから」  こそこそと、やけに声を潜めて言う。  中崎の“鍵”の一言で、東堂がこの店を紹介したときの言葉を思い出して、はっとなる。 「中から鍵をかけられる部屋があるから、安心だよ」  その時は荷物置きのことしか考えていなかったものだから、本当の意味での安心を知る。 「え、まじで、………す、するの?」  すでに許した相手なのに、いざというときまだ素直になれない自分は臆病だ。 「少しだけ」  無理やり顎を取られて、そらしていた視線が合う。  黒い瞳はすぐそばで、相手の吐息がかかるほど迫っていた。 「少しじゃすまないだろ」  軽く睨み付けてやるが、それが逆効果なのはわかりきっている。 「だって由貴が好きだから」  俺の好きな笑顔を向けて、俺の求める言葉をあっさりといい放つ。  触れるだけのキスのあと、苦いアルコールの味を確かめる。  いつかの夜に一人で飲んだ缶ビールを思い出して、俺の中から孤独がすっかり消え去っているのがわかった。 END

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