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気付かないフリって意外と難しい
生徒のいない校舎はなんとも静かである。
保健室で事務作業をしている瞬間は、ふとあの喧騒が恋しくなってしまう。と言っても俺があの喧騒に入っていくことはないだろうし、俺はいつまで経っても傍観者だ。
――そろそろアイツがくる頃かな…
いや、別に来なくてもいいんだけれど、弁当をこのクソ暑い中買いに行くのも面倒臭いしな、是非とも食料を俺のところに運んでくるがいい。仕事が手につかなくなってしまい、コーヒーを淹れようと立ち上がる。二つ並ぶマグカップを、一つ手に取り落としたコーヒーを入れる。
やっぱり、夏だからアイスコーヒーが飲みたい気もするが、水出しなんて難しそうだしクーラーで冷えた身体を温めてくれる熱々のコーヒーを口にする。
椅子に腰を落とし背凭れに思い切り体重をかける。天井を見上げて椅子ごとくるくると回れば少し目が回ってしまった。丁度目に入った時計は12:35を指している。
「ぐうぅぅぅぅう」と、お腹が音を立てて存在感を示した。自覚すると、空腹感が増してきた。どうするか、いつもはもう飯を食い終わっているころだ。…もうちょっとだけ待つか、まだ我慢できるしな…今日は特に午後から会議があるわけでもない。ちょっとくらい遅い昼飯にしたっていいだろう。
「…アイツの連絡先、知らねえんだった」
これでは、今日の俺の飯があるかどうかすら確認することもできないじゃないか。この暑い中わざわざコンビニに買いに行くのも面倒臭いというのに。
俺は、がしがしと頭をかいて膝に力を入れた。しょうがない、立ち上がって保健室の鍵を閉めて廊下に足を踏み入れた。
国語科準備室は、確か西棟の三階だったはず。渡り廊下を歩き、階段をのぼる。
「…三階って結構きっついな…」
普段、会議室だって同じ棟にこそないものの、同じ階にあるし俺が保健室からでることも多い訳じゃない。
アイツは、こんなに遠いところまで毎回来ていたのか。…俺がたまに、食べに行ってやってもいいかもしれない。いや、俺が出向けば二人じゃ食べられないのか。
少しばかり背中に汗をかきながら、三階に到達する。
さらに廊下の奥にある国語科準備室を目指す。部屋の前まで来て少しばかりの緊張とともに「しつれいしまーす」と扉を開ける。
俺の目に飛び込んできたのは、やたらに距離感の近い春井と若い女。女の方は確か新任の教師だった気がする。その目は、春井への好意を隠すことなく浮かべていて数メートル離れた俺からもはっきりわかるほどである。その時俺の頭に浮かんだのは、嫌悪感だった。
どうにも、仕事を教える教えてもらう体制には見えず、女の方が春井に迫っている風に俺には映った。どうして、春井はその女を払いのけないのか。満更でもないんだろう。この男は。こんな鍵も閉めないで、誰が来るかもわからないのに。そもそも、迫っている女教師はここがどこだかわかっているのだろうか、新任だからわからないのか?いや、馬鹿だろう。
別に、春井が誰とくっつこうと、どうだっていいはずなのに。昼間から、教師という立場の人間どもが男女の関係を築こうとしていることに嫌悪したのかもしれない。自分にそういった真っ当な教師としての考え方ができるとは思わずしっくりこない理由ではあるが、きっとそうなのだ。そうに違いない。
「失礼しました」ぴしゃり、と部屋の扉を閉めた俺は足早にそこから離れた。
閉める瞬間に見えた春井の表情は、少し焦ったような顔をしていた。なんだ、その顔。俺に何を言い訳しようとするんだ。別になにもないだろう。
俺は、なんだか泣きそうになって一刻も早く自分の城に帰るために汗が額を伝うのも気にせず階段を駆け下りた。保健室へと飛び込んで鍵を閉める。その場にずるずると座り込んで、心臓が動くたびに俺の身体が跳ねそうになるくらい、大きな音を立てて脈が動く。
なんだ、なんだこれ。
顔が熱い、それは、このクソ暑い中走ったから。決して、違う。違うんだ。
――アイツのことが好き、とかそんなんじゃないんだ、
***
どれくらいそうしていただろう、扉越しの気配にはずっと前から気付いていた。
廊下は、クーラーもないから暑いというのに、それはずっとあった。
鍵を開ける。
「…入っても、いいんですか」
控えめで、いつもより低く潜った声が、そう落とした台詞は、明らかにこちらにお伺いを立てている。
「…あの女誰」
本当は、暑いだろうから「早く入れよ」なんて言ってやるつもりだったのに。俺の口から出てきた言葉は、女々しくて図々しいものだった。
その質問に、扉越しの存在は怯むことなく綴る。「彼女は、そんなんじゃないんです。俺は興味一つ抱いてない。」まるで懺悔だ。俺はそれを聞き入れる資格なんてない。
「入れよ」
静かに扉が開いたことで、俺と声の主を隔てるものが無くなる。
「ハハ、情けない顔してんなよ」
部屋へと招き入れると、春井は、右手にいつもより少し大きめの弁当箱を持って部屋に入ってきた。
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