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第37話
それにしても赤ん坊というのは未知すぎる生き物で、そして誰よりも一番素直だ。
泣きたい時に泣き、眠りたい時に眠る。
母親は一人だと楽にこなせることでも、この子と一緒だと何倍もの労力が必要になる。
芽衣さんはきっと、真面目で努力家なんだろう。
部屋を綺麗に保つ。料理をきちんと作る。するのは当たり前だと言われた事は、手を抜かずに当たり前にやる。
それが念頭にあるから、毎日頑張りすぎているのかもしれない。
「花、綺麗ですね」
芽衣さんの背後にある花瓶の花を指差すと、芽衣さんも首を捻った。
花瓶には赤とオレンジ色のガーベラと白いかすみ草、隣にはカトレアの鉢が置いてある。
「あぁ、殺風景な部屋なので、少しでも色をと思って」
「そうでしたか。僕は一人暮らしですが、一度も花を飾ったことが無いんです。けれどあるのとないのでは随分と空間が違って見えますね。癒し効果というか」
「そうですね。家にあの子と二人きりだと、息が詰まることが多いですから。花や植物を見て癒されることもあります」
「うちの店でも、観葉植物を扱っているのですが」
「あぁはい、知ってます」
「毎週水曜日が一番入荷が多いんです。その為スタッフも多く出勤していて。良かったら見に来てください。それで、話だけでもしに来てもらえたら嬉しいです。もちろん購入して頂いてもいいですが」
芽衣さんは目を丸くさせてから、少しだけ笑ってくれた。
僕なりのジョークのつもりだったのだが伝わったようだ。
「そんなにハッキリ言われるとは思いませんでした」
「そんな気持ちも実は多少はありますけど。けれど僕は、ただお店を覗いてもらえるだけでもいいっていうのも本音です。息が詰まった時とか、散歩のついでに寄って見てもらえると本当に嬉しいです」
僕の気持ちが届いたかは分からないが、芽衣さんは嬉しそうに笑って、はい、と頷いてくれた。
その時、廊下をバタバタと歩く足音が聞こえてきた。何事かと顔を上げれば、赤ん坊を抱いた森下くんが慌てた様子で中に入ってきた。
「すみませんっ、笑いすぎて、白いのが少し出ちゃって」
赤ん坊を見ると、口元が確かに汚れているが本人はけろっとしている。
オロオロとしながら芽衣さんに赤ん坊を渡しているのを見ると、なんだか可笑しくなってしまった。
「あぁ、これくらい大丈夫です。さっき飲んだミルクが出ちゃったみたい。良かったねー、たくさん笑わせてもらって」
芽衣さんは前半は森下くんに、後半は赤ん坊に向かって言いながらキッチンに入って、湿らせたガーゼでその汚れた口元を拭いていた。
あー、とかうー、とか唸りながら、赤ん坊は嬉しそうに芽衣さんを見ている。
「あぁ良かった。急にゲホッって出しちゃったから、焦っちゃいました」
森下くんは心底ホッとした様子で一息吐く。
芽衣さんは赤ん坊の背中をトントンとしながら礼を言った。
「今日は本当にありがとうございます。わざわざ来て頂けるなんて思いませんでした。また、サテーンカーリにも行きますし、ランチも食べに行きます」
僕と森下くんは一緒のタイミングで頭を下げた。
帰る前にお願いをして、赤ん坊の頬にそっと触れさせてもらった。弾力があってモチモチしていて、つきたてのお餅のような感触だった。
店に戻る道中、こちらが礼を言う前に森下くんから言われてしまった。
「俺がついてきて、良かったでしょ?」
「……えぇ、本当に」
あまりにも誇らし気に言う森下くんに、なかなか素直になれない。
もし自分ひとりで行っていたら、どうなっていたのか。
森下くんがいたから芽衣さんも許してくれたのではないか。
いろんな憶測をしてしまって、なんとも複雑な気分になった。
しかし助かったことには変わりはないので、ここはちゃんと礼を言おう。
「ありがとうございました。森下くんがいなかったら、どうなっていたことか」
「惚れた?」
「は……はい?」
一瞬自然な流れで頷こうとしてしまって焦った。
惚れたって、僕が森下くんに?
やっぱりどこか自信満々な森下くんに、僕は目をぱちくりとさせる他なかった。
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