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続・陽炎―KAGEROU―
全てを忘れることにした。
許しを受けているような優しさも、あの焦れるような熱も、狂わされる程の快楽も、全て。
女の子の柔らかい肌よりも、同じ性を持つ硬い躰に反応する自分に疲弊し、暗闇を歩いていた亮平をいとも容易く光あふれる世界へと引き上げた人。
だけどそんな亮平を、亮平とは真逆で見栄えの良い兄の身代わりにその身を抱き、暗闇よりも深い闇に突き落とした人。
気が狂うほどの快楽を与えられたそのあとで、あの人はいつも兄の名前を呼んだ。
『秀一』
初めて心を寄せた相手のその一言が、単なる音が、どれだけ深く亮平の心を傷つけたか知れない。
一度傷ついたそこはジクジクと痛み続け、開いた傷口からは常に血が流れ落ちている。
「もう…嫌だ…」
何度目か分からない兄の帰郷についてきた庚に、朝方まで抱かれ潰された躰。その間に数知れず聞かされた兄の名前に、ついに何かが切れた亮平は庚を突き放した。自分が手を離せば、そこで終わる関係だと思っていた。だって庚は、兄の秀一を愛している。
それなのに、亮平の思惑とは全く違う展開を庚は見せつけ、亮平の躰に叩きつける。
どれだけ嫌だと泣き叫んでも止まらない蹂躙。
『自分が何を言ったか分かってるの、亮平』
どうして…。だって、アンタが好きなのは…愛しているのは…。そう紡ごうとする唇は、何も音を出せぬまま何度も塞がれた。そしていつしか口の中には布が詰め込まれ、手足は自由にならぬよう拘束されていた。
ただひたすらに庚の欲望を突き入れられる躰は、面白いほどに揺れていた。まるで、そんな玩具のようにただただ、揺れていた。
耳に届く粘着質な音と、自分の咽喉からもれるくぐもった音。その合間に響く破裂音にも似たそれは、同時に頭の中に火花を散らす。
何が起きているのか分からないまま意識は堕ちて、気付けば兄も、庚も…この広い家の中から姿を消していた。
それから三ヶ月が過ぎる間に、秀一は一度も家に戻らず、庚も姿を見せなかった。
『もうアンタには抱かれない! 二度と顔見せんなッ!!』
自分を抱いて兄の名を呼び続けた庚に投げたその言葉を、撤回する気は全くない。それでも…本当に来なくなったあの人の存在に、安堵しながらもどこかガッカリしている自分を悔しく思う。
どこまで行っても、きっと亮平はこの先死ぬまで…庚を忘れることは出来ないのだ。
◇
「亮平、帰り何か食ってかね?」
数は少ないながらもできた友人に、放課後声をかけられた。亮平は一瞬迷うが、「なぁ、いいだろ? 今日帰っても暇なんだよぉ」と人懐っこい顔で懇願されれば断りきれなかった。
「じゃあ…少しだけな」
「やった! 亮平大好き!!」
無防備に抱きついてくる友人に、少しだけ心を擽られる。ダメだと思って心にブレーキをかけても、どうしたって亮平の心は同性に向いてしまう。
あの酷く苦い初恋を、全く別の色で塗りつぶしてしまいたい気持ちもあった。
上手くいくとは思っていない。だけど新しい恋をすれば、そうすればきっと、今も血を流し続けるこの傷も。綺麗に消えずとも、いつか傷口は塞がるだろうと…そう思っていた。
「ちょっと食いすぎた…」
普段は滅多と行くことのないファストフード店を出て、腹をさすった亮平をみた友人が笑った。
「亮平は躰デカイのに少食だよな」
「お前は躰ちっさいのに大食いだよな」
「ちっさいって言うな!」
ふたりで笑いながら歩いて、分かれ道で立ち止まる。
「じゃあ、また明日な」
「おう! また付き合って!」
笑顔で手を振る友人を、眩しそうに見つめた。
あの屈託のない笑みに何度、救われたか分からない。今日だって本当は、少し落ち込んでいた。友人がこうして放課後誘うのは、決まって亮平が落ち込んでいる時だった。
秀一が家に戻らず、半年が過ぎた。
汗の滲む暑さは、いつしか凍える寒さに変わっていた。秀一がこれ程長く帰郷しないのは珍しく、祖母は日に日に心労で元気を失くしていく。
は…、と亮平は小さく溜め息を吐いた。
結局祖母も、亮平だけでは満たされないのだと…秀一がいなければいけないのだと、そう思うと自宅に向かう足取りは鉛のように重くなった。
「婆ちゃん…?」
いつもは閉まっているはずの、玄関の鍵が開いていた。そしてあるはずの靴が、無い。
祖母はいつも、亮平が帰ってきて『おかえり』を言った後に買い物に出る。家にいても用心にと、鍵はかけている。
家の様子のおかしさに、亮平は慌てて靴を脱ぎ捨て居間に飛び込んだ。…そこには、
「お帰り、亮平」
「ッ、」
息を呑んだ。
真夏の太陽の下でも暑さを感じさせない、清涼感を具現化させたような…あの人が、どうして、ここに。
「庚…さん…」
「少し日焼けが落ちたかな? 白くなったね」
「何で…」
一人掛けのソファからゆったりと立ち上がったその人は、半年前のあの日と何も…変わらない。
「ミツさんなら、さっき買い物に出かけたよ。今日の夜はご馳走だって」
「そんなことは聞いてないっ!!」
「亮平」
「どうしてっ! 俺はっ…」
そこまで言って、亮平はハッとした。いつだってこの人は、兄と一緒にやって来る。
「あっ、兄貴…」
「秀一はここにいないよ」
周りを見回していた隙に間合いを詰めた庚が、亮平の腕を掴んだ。
「今ここには、俺と亮平しか、いない」
「なんで…」
「本当はもっと早く来たかったんだけど、転校の手続きに以外と時間がかかってさ」
「転校!?」
「そう。もうずっと、一緒にいられるよ」
「いっ、嫌だ!」
振りほどこうとしても離れない腕を軸に強く引き寄せられ、亮平の首筋に庚の顔が埋まる。
「あっ!」
「他の男の匂いがするね」
「嫌だっ、庚さっ、ああっ!」
投げるように庚は、亮平の躰を畳の上へと突き飛ばした。嘗て亮平が、幾度となく庚に抱かれた場所だ。
「嫌だっ、嫌だっ! 俺はもうアンタとはっ、」
「おかしいなぁ…。あの日、あれ程躰に言い聞かせたはずなのに」
―――もう忘れちゃったの?
自分の頬に手を寄せた男に、亮平は抵抗を忘れた。
「ま…待って…、だって…アンタは秀一が…、俺は…身代わりで…」
「あと何をすれば、秀一を嫌いになってくれる?」
「え…?」
「本当に秀一を抱けば、亮平は秀一を嫌いになってくれる? 憎んでくれる? 俺だけを…見てくれる?」
庚の親指が、頬を伝って唇に落ちる。
「でもね、ダメなんだ。俺のここ、亮平にしか反応しないから」
にっこりと笑った庚を、亮平は初めて怖いと思った。
「キスはしてあげたよ。散々利用させてもらったから、お礼にね」
「キス…?」
「亮平にしてあげるように、たっぷり舌を絡ませて」
自身の唇をぺろりと舐めた庚。亮平の瞳から、涙が零れ落ちた。
「なんで…? どうして俺を傷つけんの…? 俺…もう嫌だって言ってんのに!」
「亮平、妬いてくれてるの?」
「は…?」
「大丈夫だよ。キスをしたって、反応するのは亮平だけ。亮平以外となんて〝おはよう〟って言うのと同じ」
「なに言ってんの…?」
「だけど亮平は違うでしょ? 俺以外とキスしたって、感じちゃうでしょ? いやらしい躰してるからね」
「なっ」
「少し会わなかっただけで、もう俺以外の男の匂い付けてるんだから…放っておけないでしょう?」
遊びはもう終わり。そう言って庚は亮平を畳に押さえつけた。
「みんなに見せつけてあげようか。〝亮平は俺のだよ〟って」
「あぁあ"ぁ"ああ"っ!!」
思い切り、首に噛みつかれた。
「ひっ、う"…」
「亮平、痛かった? 泣かないで」
「うっ、うぅ…」
あんな酷い方法で自分を傷つけておいて、一体この人は何を言っているんだろう。亮平には庚の発する言葉の意味がさっぱり分からなかったけど、それ以上に分からないのは自分の気持ちだった。
あれだけ心も躰も傷つけられて、もう二度とこの人には関わらないと、この人への恋心なんて消してしまおうと、そう思っていたのに。
庚の指が肌に触れるだけで、全身が熱を持った。肌は歓喜に震え、散々庚を受け入れてきた場所は、まだ触れられてもいないのにヒクヒクと動く。
躰が心を裏切った…一瞬そう思ったけど、そうじゃない。心だって本当は喜んでいた。
庚は亮平に、亮平だけに、会いに来てくれた。
あの〝超〟が付くエリート校を捨てて、綺麗な容姿を持つ兄の秀一を捨てて、庚は亮平を選び、会いに来てくれたのだ。そう知った時、必死に捨てようともがいていたモノに…今度は死に物狂いで縋り付く自分がいた。
嫌いになりたかった。
躰を重ねる度に、悪戯に兄の名前を呼ぶこの人を。
憎みたかった。心の底から、憎みたかったのに…。
「ズルいよ…」
ボロボロと流れ落ちる涙を、庚の舌がすくい上げる。そのまま重ねられたキスは、痛む心の味がした。
拒絶しようとした手はついに下ろされて、固く閉ざしていた躰は待てぬとばかりに早急に開かれた。
発火しそうなほどの熱を少し強引に入れられ、容赦のない激しさで揺すられ、それでも溢れるのは艶めいた声ばかり。
畳にシミがつくのを気にもしないで、爪で引っ掻いて。祖母の戻る時間などお構いなしに激しく重なりあう。
「いっ、あっ! あぅっ! あっ、ぁあぁ"あ"っ!!」
そうしていつもと同じように、絶頂に意識を持っていかれる瞬間亮平の耳に届いたのは…。
―――亮平
甘い吐息に混ぜて呼ばれる…自分の名前。
END
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