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「兄さんの口から雛未の話を聞いてみたい」 この人は雛未と付き合っているのに知らないのだろうか。 あの家にいるのが億劫で、自分を追って、寮のある高校を選んだことを。 そんな妹に対し敢えて距離をおいていると教えたら、この人は、もう俺に会いに来なくなるだろうか。 一瞬、式は出会って間もない男相手に懺悔の衝動に駆られた。 そして理性に平伏して差し障りのない言葉を吐き出した。 「妹のことを特別に思ってくれてありがとうございます」 「漢字、間違えてるぞ」 「え?」 「ここ」 見るなと言ったレポートの誤字を指摘されて式は反射的にため息をついた。 「帰るのか?」 トートバッグに参考書や筆記用具を片付け始めれば隹に尋ねられる。 式は浅く頷くだけの返事をし、図書館を後にした。 秋晴れの空は薄いブルーに浸されて膜のような白い雲を侍らせていた。 「そんな露骨に不審者扱いして逃げなくてもいいだろ、兄さん」 長い足で隣を悠然とついてきた隹を式は一瞥した。 「何も知らない貴方から兄さんなんて、それこそ気持ちが悪い」 他者と深く関わろうとせず、最近では家族をも避けていた式は、はっとする。 れっきとした中傷を吐き捨てた自分自身に嫌気が差した。 周囲に過剰な関心や期待を抱かないようにしていた、普段から感情のコントロールに努めていた、それだけに湧き上がってくる苛立ちに焦燥した。 「……会ったこともない家族の写真を撮ってきてほしい、そんなこと、恋人に頼みますか。普通はしませんよね」 「振り回されるのは嫌いじゃない」 大学生らが行き来する舗道の脇で式は足を止めた。 隣で同じく立ち止まった長身の隹をためらいがちに見上げた。 「そういうところが俺は好きだ」 猛禽類じみた鋭い眼にサングラス越しに笑いかけられる。 茶色を帯びた髪は自然なダークブラウンで、どちらかと言えば色白の肌によく馴染んでいた。 「人と違う。それってよく言えば美点じゃないか?」 「それ、は……死んだ母も貴方と同じことを言っていました」 特に表情を変えなかった隹に式はぎこちなく続けた。 「土曜の午後には、その……バイトのシフトが入ってるんです」 「ふぅん。何のバイトしてるんだ」 「アンティークも販売しているカフェのホールを。夏休み限定ですけど。だから……あまり時間がないんです」 「なるほど。昼飯がてら、ついていこうか」 「……」 「その顔、おもしろい。撮影して雛未に見せたら喜びそうだ」 「写真は一枚だけって言いましたよね、俺」 「明日は? 明日もバイト入ってるのか」 「明日は休みです」 「じゃあ明日。今と同じ時間帯に、ここで」 「雛未のことは雛未に直接聞いたらいいじゃないですか」 「つれないこと言わないでくれ、式」 隹は初めて名前で式を呼んだ。 呼ばれた式は、そういえば家族以外に下の名前で呼ばれるのは久し振りだと思った。 二年前に「ある一つの過ち」に至った、そのときの相手からも呼ばれたことがなかったと、敬遠していた思い出がざわりと蠢くのを感じた。 「バイト先までエスコートしてやろうか」 不本意な回想は断ち切られた。 今、目の前で悠然と構えている隹に式の全神経はもっていかれた。 「明日は自宅から出ません」 「おかしいな、台風が来る予報なんか出てなかったはずだが」 「失礼します」 「台風が来ても待ってるからな」 白昼において暗闇が一点に寄り集まったかのような黒ずくめの隹の元から式はやっと離れた。 あの人、悪魔みたいだ。 そんな馬鹿げたことを思いながら。

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