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隹の前髪から滴る雨滴が式の頬に落ちた。 それくらい二人の距離は、今、近かった。 棒立ち状態の式に小さく笑って、隹は、さらに近づいた。 無に帰した隔たり。 触れ合った唇。 微かな温もりが直に伝わってきて、我に返った式は、思い切り顔を逸らした。 「やめてください」 「嫌なのか」 何を言ってるんだろう、この人。 最低だ。 最悪だ。 「貴方は妹の恋人で、雛未のものなのに」 「あんたのものになってやろうか?」 大きな両手が頬に添えられて式の心臓はブルリと震え上がった。 「すまないな、式」 「早く離れてください、こんなの嫌だ」 「俺は雛未の恋人じゃない」 式は耳を疑う。 聞き間違いかとさえ思った。 「俺は雛未の教師だ」 「こんなときに冗談やめてください」 「冗談なんかじゃない。雛未が通う学校の理科教員をやってる」 この人も先生だっていうのか。 「ッ……意味が分からない、学校の先生なのに、なんでこんなこと、もう、いい加減にしてください……!」 上背ある自分の体を押し返してこようとした式を隹は抱きしめた。 突然告げられた真実に混乱していた式は、濡れているのに熱く感じられる両腕に捕らわれて、ほんの一瞬、呼吸を忘れた。 「生徒の雛未が悩んで苦しんでいたから話を聞いた。何とかしてやりたかったんだ」 「何とかしてあげたくて……恋人だって(かた)って俺に会いに……? 理解できない」 「教師だって言ったら身構えられると思ったんだよ」 「そもそも本当に先生なんですか? ちっとも見えない」 「悪かったな」 「雛未は貴方に何て言ったんですか? 何を願ったんですか? 妹は……そんなに追い込まれていたんですか?」 自殺を未遂に終わらせたことは言わずに、隹は、妹の望みを兄に打ち明けた。 「俺とあんたが一緒になってくれたら嬉しいそうだ」 隹の両腕に身を任せることも、振り解くこともできずにいた式は、漆黒の懐で密かに青ざめた。 「何ですか、それ。自分の感情を周りに押しつけて、思い通りに動かそうとして、そんな、オママゴトや人形遊びじゃあるまいし。なんでいつまで経っても、そんな幼稚なことばっかり、ヒナは、昔と全然変わらない……」 妹に重ねた自分自身への弱音が溢れてきて式は苦しげに嘆息した。 「あんたの幸せを願ってた。何よりも兄さんのことが大切なんだろ」 痛いくらい妹の思いを知っている兄は隹の肩に顔を埋めたまま呟く。 「雛未に言われたから、こんなこと、するんですか」 「まさか」 隹は問いかけた式が怯むくらいに即答した。 「雛未にも言ったけどな。お願いされなくたって俺はあんたに惹かれた。会う度にまた会いたいと強く思うようになった。そっちはどうなんだ、式。こんな雨の中突っ返して部屋に入れるのを意地になって拒んで、よっぽど俺のことが嫌いみたいだな?」 堂々と告白されても尚、自分の想いを認めたくない式は抱擁から逃れようとする。 そうはさせまいと隹は腕の力を強めた。 その懐に閉じ込めるように強く。 「俺は一人でいたいんです」 「どうして」 「俺みたいな駄目な人間が誰かに必要とされる権利なんてない」 「随分と言い切るんだな」 「傷つけたり、傷ついたり、そういうの、もう嫌なんです」 「人一人生きていくのに犠牲は付き物だろ。誰も彼も無傷でいられるわけがない」 「離してください」 「嫌だ」 両腕の輪に拘束されて身動きを封じられた式は隹を睨んだ。 容赦なく軋む胸に息苦しそうに眉根を寄せ、切れ長な目をじわりと潤ませて、最初に出会ったときと同じ、えもいわれぬ戦慄に身も心も鷲掴みにされた。 「貴方なんか嫌いだ……好きじゃない……」 空しく足掻いていた唇が再び隹に捕らわれた。 弱々しい拒絶は中断されて僅かに湿った微熱の共有を強いられた。

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