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第1話 越してきました
それは新しい元号になって初めての冬を迎える頃の事。
都会とも田舎とも言い切れない、言うなれば小田舎の市街地。
最寄りの駅からは徒歩20分くらい。最寄りのバス停からは徒歩5分くらい。大通りから一本だけ奥に入った場所にある間取り1K、家賃4万円の賃貸マンション【 HeimWald 】にひとりの青年が越してきた。
青年の黒髪は男にしては少し長く顔周りや頸を隠している。サイドはわざと他より伸ばしてオレンジ色に染めているのが印象的。明るい金茶の瞳は大きめで成人している彼を実年齢より幼く見せた。
ダボっとした暖色チェックのパーカーに動きやすさ重視の黒いストレッチパンツがよく似合う。引越し作業の為に付けていた軍手を外して人受けの良い笑顔で引越し業者に腰を折って礼をすると、青年は新居であるマンションを振り返る。
お洒落なレンガ調の外観にはシルバーの文字でHeimWaldと書かれ、その文字は穏やかな日差しを反射して輝いていた。
「ついに、ひとり暮らしだ!」
高校の時からコツコツと貯蓄した資金を元手に実家から車で1時間ほど離れたこの土地で部屋を決めた。
独立の理由は兄との仲違いが大きいけれど、単純にひとり暮らしに憧れていたのもある。
引越しを機会にコンビニのアルバイトも辞めて、収入の多い棚卸し業者に契約社員として就職した。
準備は万端。あとは生活に早く慣れれば安定した暮らしができるはず。
早速、青年は自身の部屋になる1-B号室の表札に手書きの名札を差し込んだ。
「なんて読むんですか?」
「うぇ?!…あ、はじめまして!俺、栄生 です!栄生 笑武 」
(お、女の人?!管理人さんから入居者はみんな男の人だって聞いたけど…あれ?でも…声が)
突然、後ろから声を掛けられて驚きながらも自己紹介をする笑武。声を掛けてきた相手は一見すると女性のように見えたが、骨格や声がそれを否定した。明るい茶髪はストレートで癖がなく艶めいている。前髪を横に流して黒いフルフレームの眼鏡を掛けている為か理知的な印象を受けるが、それよりも長い睫毛や二重のぱっちりとした目元、濃茶色の瞳。右目尻にあるホクロと女性的な顔立ちの方が印象深く残る。笑武はシャツの上から緩めのカーディガンを羽織っている相手の胸元に目をやりそうになって慌てて逸らした。その下は裾の広い薄いグレーのゆったりしたパンツで性別の判断が難しい。
「今日からお隣さんですね…ふふ、俺は穂高 朔未 っていいます、よろしくね…笑武くん」
(男の人だったー!)
「あの、はい!よろしくお願いします!えっと、朔未さん…で、良いですか?」
「うんうん、好きに呼んでください…ひょっとして俺のこと、女性だと思いました?」
ギクッと固まってしまった事で誤魔化せなくなる。
「最初だけ、ちょっと…」
素直に認めると、朔未は可笑しそうに笑う。
「こんな顔だからよく間違われるんですよ、気にしないでください」
「すみません!…あの、隣って1-Aですか」
「そう1-A号室、ヴァルトは3階まであって部屋はAからD号室まで…3-Dは空室だから住人は笑武くんを含めて11人になりました、もれなくひとり暮らしなんです…まぁ1Kですからね」
「そうなんですか…あ!そうだ!ちょうど良かった!挨拶回りに行こうと思ってたんですよ…ちょっと?と待っててください!」
笑武は急いで部屋のドアを開けると玄関先の紙袋からタオルセットのギフトを取り出すと朔未に差し出した。
「改めまして、1-Bに越してきました栄生笑武です!今日からよろしくお願いします!」
「ご丁寧にありがとうございます、1-Aの穂高朔未です、今後ともよろしくね」
ふふ、と微笑む朔未の愛らしさに照れる笑武。
「とりあえず1階から挨拶行ってきます」
ギフトが詰まった紙袋を手に出かけようとした笑武に朔未は何故か心配そうに眉を下げた。
「あ、1-Dさんは留守が多いから会えた時で良いと思います…それから、2階には気をつけて」
「え?!な、なんでですか!」
「別に悪い人が住んでいる訳じゃないんですが…行けばわかると思います」
行ってらっしゃい、と手を振って自分の部屋に入って行く朔未。2階に行くのが少し不安になった笑武はとりあえずもう片側の隣人となる1-C号室のチャイムを鳴らした。
「はーい」
(えーー!!)
ドアを開けたのは、今度こそ間違いなく女性だった。胸元に谷間が見えるように穴の開いたデザインのタイトな赤いワンピースを着ているから間違いない。ピンクブラウンのゆるふわパーマが似合う美人だ。
「なに?だれ?」
「あ…ぁ、あの、俺…隣に越してきた者です」
「あぁ、新入りさんね?私は住人じゃないの、ここは彼の部屋」
「な、なるほど!彼氏さんの方が住人!」
内心ホッとしてギフトを取り出す笑武。
「ねぇー、お客さん」
部屋の奥に向かって呼びかける女性。その声に応えるように奥から男性が現れた。女性と場所を入れ替わるように出てきたその人物に笑武は目を見開く。
元々少し癖のある髪質の短い茶髪はワックスで軽くセットされているだけで様になっている。怪訝そうな表情は急な来客のせいだろう。
切れ長の少しだけ垂れ目な目元は今は睨みを利かしている。吸い込まれそうな濃灰の瞳。身長も高く白いインナーに丈長の柄シャツを重ねたラフな格好にジーンズを着ていても程良く身体を鍛えているのが分かる。気怠げに立っているだけでもかっこいいと思わせる外見だ。
「ッッあ…亜南 玲司 さん!?」
「そうだな…で?テメェは誰だ?…まさかストーカーじゃねぇだろうな」
「ちちちち違います!っていうかあの!すみません!挨拶が遅れて!俺、栄生笑武です!隣に越してきました!今、挨拶回りを…つっ」
あまりに動揺して早口で喋ったせいで舌を噛んでしまった。亜南玲司、隣人は笑武が最近読んだローカル版の雑誌に特集され、フューチャーされたばかりの人物だったのだ。イケメントリマーという見出しのついた特集で、記事によると客の犬を優しげに見つめてトリミングする姿に飼い主のマダム達は夢中になっているのだという。SNSでも拡散され、ペット業界では少し名の知られた存在という所だ。しかし雑誌に載っていた写真のイメージと目の前にいる本物のイメージは差異が大きい。
「ああ、そういや1-Bが埋まったって朔が言ってたな…わざわざご苦労さん」
「朔未さんにはさっき挨拶しました…でもまさか1-Cが玲司さんだったなんて」
「ガッカリしたか?雑誌のイメージと違いすぎて…残念だったな、コッチが現実だ、ったく勝手に美化しやがって…愛想は営業に決まってるだろ」
「そんなガッカリなんてしてないです!ていうか、すみません…初対面で隣に越して来た奴が自分のこと知ってたら嫌な気分になりますよね…ホントに俺が越して来たのは偶然で、ここに玲司さんが住んでるのも今日初めて知ったんです、信じてください」
「あ?はは、別に本気で疑ってねぇよ…数回ローカル雑誌に出たくらいで芸能人でもねぇし…ヴァルトはなんつーか合宿みたいな感じだな、今は隣人の顔も知らないって事が多いらしいが此処は全員知った顔だ、部屋の行き来もするし、近所のカフェで集まって交流したりもするぜ、困った時はお互い様でやってる、お前もどうせ付き合う事になるだろうから覚悟しとけよ」
「そうなんですか!楽しそうです!」
「変わり者ばっかだけどな、俺も含めて」
その時、17:00を知らせる時報が鳴った。懐かしい童話のメロディだ。秋も後半、もう外は暗くなって来ている。
「ねぇー、店の予約19時でしょ?そろそろ出かける支度しよーよ」
玲司の車の鍵を持って来て訴える女性。
「もうそんな時間か、悪いな笑武」
「外食ですか、楽しんで来てください…あ、これお近付きの印に」
「おお、ありがとな…まぁ、騒がしい所だけど慣れれば楽しいと思うぜ、よろしくな」
ギフトを手渡してペコリと礼をする笑武。すると玲司の後ろから女性がひょこっと顔を覗かせた。
「私は明梨 、よろしくねー」
「あ、はい!よろしくお願いします…」
明梨にも礼をして部屋を後にすると閉じた1-C号室のドアを見て一気に脱力する笑武。
「はぁ、緊張した…いきなり女の人が出てくるし、いきなり玲司さんが出てくるし」
自分を落ち着かせるように胸に手を当てて1-D号室のドアを見る。朔未が留守が多いと言っていた部屋だ。一応、訪ねてみたが聞いた通り今も留守のようで応答は無かった。
「今日、土曜日だけど…忙しい人なのかな」
うーん、と唸って朔未の「気をつけて」の助言で行くのが不安になっている2階への階段を上がる。
各階、同じ造りのため迷うことはない。2-A号室。こちらも呼び出しに応答は無かった。
仕方がなく隣の2-B号室に移る。
2-Bの住人は在宅していたようで、ドアが開く。瞬間、白檀の香りが漂う。
(なんかすごく…いい香りがする)
色白で高身長の住人はギリギリ結べる長さの金髪を後ろで束ねていた。クセなのか巻いているのか、ゆるふわパーマ風だ。細い銀フレームの眼鏡の奥でオリーブ色の瞳が身長差の加減で見下ろしてくる。どこか余裕のある大人っぽい雰囲気。鼻が高く彫りが深いため西洋の雰囲気もある顔立ちだが、玄関には日本刀のレプリカが飾ってある。服装はアラビア系の民族衣装をモチーフにした緩い上着と緑系色のグラデーションサルエルを合わせて、また別の国を感じさせる。魔法の絨毯にでも乗っていそうだ。ミサンガに似たブレスレットを着けていたり、ツタみたいなアンクレットをしていたり。装飾品も多く身につけている。そのワールドワイドな人物と独特な空間に思わず見入ってしまった。
「どちらさん?」
「こんにちは…あ、いや、こんばんは、かな…はじめまして!」
「はは、いっぱい挨拶してくるねぇ」
「俺、下の階に越してきました!栄生笑武です!よろしくお願いします!」
「あー…はいはい、新しい入居者君ね、了解…俺は東 透流 …ZUMAってブランド名で色々創っては売ってる物作り屋さん」
「物作り…もしかして身につけてるアクセサリーとか自分で作ったんですか!」
「そ、アクセサリーも服の染色も…ここは主に生活用に借りてるけど、工房が近くに在るから仕事中はそっちに行ってる事が多いかな…親の店を間借りして直売もしてるけどメインはオンライン販売、たまにフリマやワゴンも出してるよ」
「すごい…若いのに職人で自営してるなんて!」
「趣味が昂じてね…君は?何か屋さん?」
「…う、すみません…ただの棚卸し屋さんです」
「いやいや、ご立派よ?…ここはトリマーとかシェフとか職人も多いけどね」
「シェフも居るんですか!」
「近所に住人がよく利用するカフェレストランがあるんだけど、そこのシェフも住人なのよ、これが」
そう言って透流は上を指した。3階に住んでいる、という意味だろう。
「玲司さんが言ってました、カフェで集まって交流するって」
「そうそう、ヴァルトの前の道を東に真っ直ぐ行くと徒歩1分で着くから今度行ってみな?libertà(リベルタ)って名前のカフェ…特にサクミンはよく居るよ、カフェ似合うんだよなぁ、あの子」
「さくみん…朔未さんですか」
「そう、幼なじみ、あっちの方が一個上だけど…昔からあの見た目だし、まあまあドジっ子だから年上に思えなくてね」
「じゃあ一緒に入居を?」
「いんや、偶然…腐れ縁ってやつ?おかげで色々と世話が…」
「透流くん、よかった、今日はこっちに居たんですね」
聞いていたかのように朔未が私物らしきグレーのコートを抱えて近寄ってきた。ドアを開けたまま話していた為、引っ込むことも出来ない。透流は頭痛でも起こしたように額を片手で覆った。
「……やぁ、サクミン…ちょうど噂してたとこ」
「朔未さん、どうも」
「さっきぶりですね、挨拶回りは順調ですか?」
「あはは…なんとか」
「無事に透流くんの所まで辿り着けていて安心しました、2-Aと2-Cが心配だったんです、大丈夫でしたか?何もされてませんか?」
「えぇ?!に、2-Aは留守でしたよ?」
「留守じゃなくてまだ寝てるんですよ、きっと」
「隣、夜勤だから」
「しまった、夜勤の人も居るんだ…さっきチャイム鳴らしちゃったから起こしてないと良いけど」
「そろそろ起きて来る頃だから大丈夫ですよ」
「で?サクミンは何の用?」
「あ!透流くん、衣替えをしていたらコートの袖ボタンが取れそうになっていて…ここ」
持ってきたコートの袖ボタンを見せる朔未。確かにボタンが解けて今にも取れかけている。
「あーあー、今年何着目よ…サクミンはもうボタン付いた服、選ばない方が良いんでない?」
「そんな意地悪言わないで直してください…もうすぐ寒くなるし」
「いいけど、俺はキミの仕立て屋さんじゃ無いからね、分かってる?」
「はい、いつもありがとうございます」
「はい、分かってない」
「あはは、二人は仲良いんですね」
朔未からコートを受け取った透流に、笑武もギフトを手渡した。
「律儀にどうも」
「それじゃ、俺はこれで…」
立ち去ろうとした時、笑武の視界の端で2-A号室のドアが開くのが見えた。そして出てきた住人の出立に驚く。モデルのようにセットされた黒髪、鋭いのに優しそうな目元に青い瞳。同性から見てもすれ違えば振り返りそうな整った顔。カッコイイ、それが第一印象になる確率は相当高いだろう。それも彼の服装を見れば納得だった。ボタニカル総柄の黒いセットアップスーツ。定番のホストスーツだ。
透流の部屋の前で騒いでいるのを流し目で確認されて、目が合うと微笑まれる。無意識に口が半開きになって見惚れてしまっていた。
「どうしたんですか?笑武くん、ぽかーんとして」
透流と話していて気づいていない朔未は固まった笑武を見て不思議そうに目を丸くする。
「あ、あの…後ろ」
「え?」
朔未には背後になる2-A号室。ホストは振り向かれる前に颯爽と歩いて来て朔未を後ろから抱きしめた。
「今日も可愛いね、朔ちゃん」
「んわッ!!び、っくりした!コラ!善 くん!」
「そっちの子は?見かけない顔だけど」
朔未をホールドしたまま見つめられて、笑武は慌ててギフトを取り出す。
「し、下の階に越して来ました…栄生笑武って言います…よ、よろしくお願いします」
「これだから心配だったんですよ、隙を見せるとすぐセクハラして来るんです」
「セクハラは酷いな、朔ちゃんが可愛いから抱きしめたくなっただけなのに」
「そういうのはお客さんにだけ言っててください」
「あわわ…タ、タオルと朔未さん交換しませんか」
何とか助けようと頑張る笑武に透流は笑いを堪えるのに必死だ。
「透流くん!笑ってないで助けてください」
「善、今日は少し早いのな」
「ああ、透流…居たんだ、そうだね、土曜だから早く出ようかなって」
「ホストなんですか」
「逆にこの格好でホストじゃなかったら何よ」
透流に指差されて善は朔未を捕まえたまま器用に名刺を取り出して笑武に渡した。
そこには「rosier(ロジエ)」という店の名前と、その下に「夕 」と源氏名が書かれていた。
「同伴がある時は店で着替えるけど、この方が勧誘やキャッチが寄ってこないから」
「もうやってますって分かるもんな」
「出勤前にゲストを釣れたりするしね、君も良かったら遊びにおいで…笑武ちゃん」
「え、笑武ちゃ…あ、その…俺、お酒飲めないんで!」
「ウーロンとかノンアルコールがあるから大丈夫」
「は、はぁ…でも俺、男だし」
「俺は誰でも楽しませるよ、ご指名よろしく…出勤情報はサイトで確認して」
「善くん!笑武くんを困らせないで下さい」
「朔ちゃんは怒った顔も可愛いね」
「お仕事はヴァルトを出てからでお願いします」
「この場合、どっちの名前で呼べば…」
「店の外ならどっちでもイイよ…俺の名前、夕岳 善 だから」
「じゃあ、善さんにします」
「いいよそれで…さて、そろそろ行こうかな…朔ちゃん、お見送りしてくれる?」
「お見送り?別にそのくらいはしますけど」
「良かった、行こ」
「じゃあ、善くんのお見送りして来ます…二人とも、また明日」
エスコートするように朔未の腰を抱いて立ち去ろうとする善に笑武は急いでギフトを差し出した。
「あー!あの、これ!」
「ああ、プレゼントは間に合ってるから俺の分は沙希 ちゃんにでもあげて」
「プレゼントとはちょっと違う気も…あぁ、行っちゃった」
階段を下りて姿の見えなくなってしまった二人。取り残されて笑武は助けを求めるように透流を見た。
すると無言で2-C号室を指差される。
「ヤバそうだったら逃げておいで」
「えぇ?!」
そう言えば朔未も2-C号室には気をつけるよう言っていた。悪い人は居ないと聞いたが恐い人は居るのかもしれない。眉毛のない頰に傷のあるパンチパーマの恐い人を想像してゴクリと息を飲み込む。
「はは、いってらっしゃい」
透流も部屋へと戻ってしまった。既に陽の落ちかけた空に暗雲が広がり、カラスの鳴き声が聴こえる。急に車の往来が無くなり無音の時間が流れる。
これ以上、臆さない内にと震える指先でチャイムを鳴らすと中から「は?!誰だよ、うるさいなぁ!」と既に半ギレの声が聞こえた。いっそ引き返したいがチャイムを鳴らしてしまったのに帰る事は出来ない。冷や汗をかきながらドアが開くのを待つしかなかった。
「「うわ!」」
勢いよく開いたドア。驚いた声をあげたのは双方だった。
「誰おまえ!驚くじゃんね!」
先程、中から聞こえたのと同じ声でどやされる。しかし恐くはない。予想を見事に裏切って、出て来たのは驚くほどの美人だったからだ。白い肌に透流よりはトーンの暗い金髪。外側だけ細かく跳ねているセットがやんちゃな印象を作り出す。大きいのに幼くは感じさせない二重の目元。そして深緑の瞳。この人物も左目尻にホクロがあるが2つ縦に並んでいて珍しい。傷どころかくすみひとつない肌に端麗な顔。美容家も裸足で逃げ出すレベルだ。そしてやたら胸元がVの字に広く開いて肩まで見えそうな裾ダメージの白シャツが色っぽい。細身の黒いパンツは脚の長い彼のスタイルの良さも浮き出している。
「急に来てすみません!」
「マジそれな!」
一言二言の会話で分かった。この住人はとても美人だが、とても口が悪いと。
「今日、1階のほうに越して来た栄生って言います、栄生笑武です」
「ふーん、年いくつ?」
「22‥です」
「あは、タメじゃん!まぁ、俺はもうすぐ23になるけど」
「じゃあ一個上ですね、俺はもう誕生日過ぎてるんで」
「そんな事より、ソレくれるの?」
自分から話を振っておいて「そんな事」扱いだ。紙袋を指差され、ギフトを取り出した所で善に言われた言葉を思い出す。
「沙希ちゃん…ていうのは…」
「はぁ?!なに気安く呼んでんの!てか何で名前知ってんの!気持ちわる!」
「わわわ、すみませんすみません!さっき善さんに言われたんです…これ、俺の分も沙希ちゃんにあげてって」
「あいつかよ!俺のことちゃん付けで呼ぶのマジやめろって言ってんのに!」
「は、はぁ…俺も笑武ちゃんになっちゃったみたいです」
「会う度に今日も綺麗だね、とか言ってベタベタしてくんのもヤダし」
(善さん、色んな人にやってるんだな…)
「なんか子供扱いされてる気になるじゃんね」
「仕事の癖で言っちゃうのかもしれないですね」
その時、マンションから一台の車が出ていく音がした。通路の手すりから、離れていくその車が確認できた。8人は乗れそうな白いミニバンだ。
「なに?」
「あ、いや…ひとり暮らしにしては大きい車だなって思って」
「あー…白のミニバン?じゃあ玲司」
「そっか、彼女さんと食事に行くって言ってたし…将来的な事を考えてミニバンなのかな」
「違うし!玲司の実家、大家族なんだよ…確か兄弟6人と親居るし、爺さん婆さんも居るし」
「ろ…6人?!」
「家族旅行とか送迎とか…あいつも車出すから大きめ乗ってんの」
「いいなぁ、俺は自転車が愛車なんで」
「車ならそれこそ善がヤバいの乗ってんじゃんね?なんとかサスっていう高級車、客からのプレゼントらしいけど」
「ええ!!こ、高級車をプレゼント?!」
「あは、いくら高級車でもあいつの車には乗り無くない…誘拐されそ」
「車かぁ…プレゼントは間に合ってるって言ってたもんなぁ善さん…きっとタオルも高いの使ってるんだろうな」
「もっと高級なマンションにでも住めば良いのにさ、何かヴァルトに居たい理由でもあるんじゃね?」
クックと揶揄するように笑って笑武からギフトを2つ受け取る沙希。「ラッキー♪」と喜んでいる。
「それじゃ、俺はこの辺で…」
そそくさと帰ろうとした所、パーカーのフードをむんずと掴まれた。
「引越しそば!」
「はいー?!」
「引っ越して来たら引越しそばじゃんね!食べたい!作って!」
「え…」
思わぬことになった。引越しそばの代わりにタオルセットを配っていたのだが。結局、沙希の突発的な申し出により初日の挨拶回りは半強制的に終わり、気付けばまだ荷解きもしていない笑武の部屋で沙希と引越しそばを食べる事になっていた。
そもそもそばの用意などしていなかったため、近所のスーパーに走り材料を買う所から始め、急いで設置したIHに鍋を乗せる。
「カップ麺で良かったじゃん」
客人の方は手伝いもせず仮置きのソファに座ってテレビを観始めていた。
「それも考えたけど、せっかくだからと思って」
「笑武ってさ、お人好しってやつ?」
「かもしれない…でも、ヴァルトは合宿みたいだって玲司さん言ってたし…沙希さんと少しでも交流できるのは素直に嬉しいと思うよ」
「あは…敬語やめてるじゃん、別にいいけど」
「あ!すみません…沙希さん年上なのに」
「別にいいって…俺なんか全員にタメ口だし」
(そうだろうなぁ)
「俺さ、ちょっと前まで親の仕送りだけで生活してたんだよね…今も税金は親払い」
「何か勉強中とか?」
「逆!ってゆーか…夢とか無いし、働くのも嫌で不良仲間と連んで遊びまわってた…俺は好きでひとり暮らし始めた訳じゃないし、生活費もらって当たり前みたいに思ってたからさ…今は服屋でバイト始めて、とりあえず1円でも繰り越せるように色々やってみてるとこ…でも俺ガマンとかすげー苦手だし、自炊なんかしたこと無いし、当面は親の仕送り無いと赤字っぽい」
「あはは、俺も節約中に限って欲しいもの見つけちゃったりする事あるよ…今月も引越し代かかってるから、悪いけど蕎麦の具は鶏肉とネギだけでお許しを」
鶏肉のアクを取りながら笑う笑武。
「十分じゃんね…っていうか食器棚、空じゃね?器は?」
「え?あ!しまった…まだ片付けて無かった、ごめん沙希さん!そこの梱包解いて!麺鉢出して!」
「はぁ?!そこってどこだよ、もー!」
沙希は文句を言いながらもガサガサと食器の梱包をあさり、目的の麺鉢を見つけ出すと「あった!」と嬉しそうに取り出して緩衝材を外す。
茹でた蕎麦をザルから鉢に移し、鶏肉入りのつゆを注ぐ。最後に刻みネギを盛り付けて、なんとか完成したかけ蕎麦をテーブルに運ぶ。
「はい、引越しそば…これから宜しく、沙希さん」
「まさか本当に作るとは思わなかったんだけど、サンキュー」
綺麗な人は笑うと、もっと綺麗になる。笑武は沙希を見てそう思った。
「「いただきます」」
と、言いながらも食べる前にスマホで写真を撮っている沙希。SNSに載せるには地味な出来映えなのだが。
「写真撮るような出来じゃないのに」
「別にネット用じゃないし」
「じゃあ、なんで…」
「なんでって…何となく、記念」
「そ、そうなんだ…伸びる前に食べようか」
手軽に作った蕎麦の割には、上手く出来ていた。沙希も美味しいと言ってくれた事に安堵して引越しして来て初めての夕食を味わう。当然、これから食事はひとりで食べる事になるだろうと思っていたので初日から他の住人と引越しそばを食べる事になるのは想定外だった。
「なに笑ってんの?気色わる」
「いや、確かに合宿みたいだなと思って」
「俺も前よりは楽しくなったかな…話せるヤツ増えたし」
「沙希さん、玲司さんと仲良い?」
「…何で?」
「ほら、家族のこととか詳しかったから」
「ああ、うん…金欠になった時に玲司の部屋行って飯作ってもらったり風呂借りたりして食費や光熱費を節約すんの…最近は彼女がよく部屋に来るようになったから遠慮してるけどさ」
「もしかして引越しそばも食費節約?!」
「あは、なに?今気づいた?」
「やられた…」
「あはは、笑武って面白いのな」
「沙希さんも、会う前はどんな人かなって思ってたけど…普通に良い人で良かった」
「なにそれ、良くない人だと思ってたわけ?…ま、不良のイメージ定着してて今も俺の事は苦手な住人も居るからさ…前評判悪いのは知ってるし、気にしてないけど」
「ごめん、そんなつもりじゃ…俺が勝手にパンチパーマの恐い人を想像しただけだから!」
「は?!なんでそんな想像になる訳?!」
それからテレビを観たり、雑談をしたりして食後の時間を過ごす。笑武が洗い物をしている間、暇を持て余した沙希は食器の梱包を解くのを手伝ってくれていたのだが、途中から緩衝材をプチプチ潰して遊んでいただけだった。
「すぐ上だけど、気をつけて…おやすみなさい」
「おやすみぃ、今度は泊めて」
「えぇー…?!うーん、本当に困った時なら」
「あは、ほんとお人好しな」
テレビ番組が終わり、玄関まで沙希を見送っているとちょうど玲司が彼女との外食から帰ってきた所だった。一瞬、沙希が表情を雲らせる。
「沙希…!何でお前がその部屋から出てくるんだよ…まさかお前っ」
「うわ…サイアク」
「玲司さん、明梨さん、おかえりなさい!」
「ただいまー、先に部屋行ってるね」
明梨は挨拶だけ置いて玲司の部屋へと入って行った。合鍵を持っているようだ。
「新生活初日から気疲れさせて悪かったな、大丈夫か」
「え?あ、いや…大丈夫です!一緒に引越しそばを食べただけで、俺も楽しかったし」
「引越しそば?」
「別にいいじゃん、新入りと仲良くして何が悪いんだよ!」
「コイツはタオル配って回ってたんだ、どうせお前が食いたいって言い出したんだろうが」
「それは…」
「俺も今日は簡単にそばでも食べようかなーって思ってたんで!グッドタイミング!」
喧嘩になりそうな空気に慌てて間に入る笑武。
「…笑武」
「はぁ…転がり込むのは俺の所だけにしとけって言っただろ」
「ばーか、彼女いる時に行ける訳ないじゃんね!お邪魔虫なんかゴメンだし!」
「いない時に来れば良いだろ」
「今日は居たじゃん、笑武ってお人好しっぽいからさ…玲司が使えない時はお世話になろうかなー」
(それはちょっと困る)
「どアホな事言ってんじゃねぇ」
「あは、冗談だって!そんな怒らなくても良いじゃんね、あ!やきもち?」
「やいて欲しかったらもっと可愛げ身につけろ」
「ムカつくー、お腹いっぱいで眠くなって来たし、もう帰る…笑武、またな」
「おい!お前ちゃんと笑武に挨拶したんだろうな」
「したしたー」
「あはは…苗字は聞いてないかな」
「そうだっけ?どうせ呼ばないからイイじゃん…苗字は伊吹 、これでイイ?」
「う、うん…ありがとう」
「じゃーな」
玲司のお説教から逃げるように部屋へと戻って行く沙希。少し気まずい空気になってしまった。
「沙希に何か頼まれて困ったら言えよ…あれでもマシになった方だけど、まだ噛みつきグセが残ってるからな」
「はは、でも本当に楽しかったです…最初はちょっと驚いたけど、意外と話しやすい感じで」
「まぁ気が合いそうなら無理のない程度に付き合ってやってくれ」
「はい、それはもちろん」
ぽんぽんと子供を褒めるように頭を撫でられて笑武の頰が赤くなる。
「じゃあ、また明日な…ひとり寝が寂しくてホームシックになるなよ」
「ならないですよ!俺22です!」
「はは、おやすみ」
「おやすみなさい」
ひとり部屋に戻ると、消し忘れていたテレビの音だけが残っていた。隣や上階の音は聞こえない。大きな音を立てれば聞こえるかもしれないが、日常的な生活音は厚い壁で防音されているようだ。
沙希と過ごしていた為、気付かなかったが急に1人になると寂しさが込み上げてくる。
「ホームシックになるなよ」という玲司の言葉が頭に浮かんで否定するように首を横に振った。
「お風呂入れよう!」
誰もいないのに声を口に出してしまう。
入浴や寝支度を済ませてベッドに入ると、まだ見慣れない白い天井を眺めた。
(挨拶回り、まだ半分だけど皆んな良い人そうで良かったな…ちょっと個性が強めな気はするけど、それも含めて合宿みたいで楽しそうだし…明日は残りの挨拶回りをしよう)
そう考えながら、目を閉じる。
こうして新生活1日目が終了したのだった。
Wald 、意味は森。迷い込めば甘い愛欲の香りに誘われ、求めたが最後、陶酔の磔に囚われ抗えない。
其々の思惑と駆け引きは絡み縺れて唯一を探す。
誰を選んで、誰を愛して、誰を傷つける。
彼らの物語はまだ始まったばかりであるー。
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