2 / 25

第2話 ご案内します

『ひとり暮らし…へぇ、俺から逃げるんだ』 気怠げに兄が言った。兄と言っても両親が再婚したから、戸籍上は兄になっただけの他人。 お互い連れ子の居る男女の再婚は家族の編成まで変える。今までひとりっ子だったのに急に兄が出来てしまうのだから。それも高校生で突然だ。今日から兄弟とすんなり受け入れる方が難しい。 年も1つ違い。頑張っても友達くらいの感覚だ。 父の連れ子である、その兄は表の顔は優等生だが裏では違っていた。 ワイルドツーブロックのグレーアッシュ。吊り眉の下で人を見下す細く切れ長の双眼。その黒に近い紫色の瞳は闇夜に似ていた。男らしい骨張った骨格。大きな口は笑うと犬歯が覗いて、まるで牙に見えた。 「!!」 目が醒めると白い天井。ひとり暮らしを始めたのだと現実を確認する様にまだ段ボールが積まれている部屋を見回した。もちろん兄の姿はない。ホッと息を吐いてベッドから出る。 (夢…というか、記憶だな) 顔を洗うと、現実が夢を追い払ってくれた。自らの頰をパンと叩いて気合を入れると1日を始める。 まだ部屋には電化製品以外ラグとテーブル、ソファ、ベッド、テレビ、衣装タンスくらいしか設置していない。今日は荷物をある程度まで片付けて、昼過ぎから挨拶回りの残り半分に行こう。そう思って朝食を食べ終わった後はひたすら段ボールの開封式を行う。 衣類はこれから着る秋冬物をタンスに詰めて、春夏物は衣装ケースに片付ける。コートや礼服はカバーのまま元々部屋にある収納クローゼットにハンガーで掛けておく。 DVDやBlu-rayの再生も兼ねるゲーム機をテレビ台に設置して、いくつかのお気に入りタイトルも並べた。 ひとりの引越しはもっと気楽なものだと思っていたが、必要最低限のつもりで持ってきたものだけでも生活用品一式となればそれなりの量になり。小一時間作業した所で休憩を挟む。 「はぁ…荷解きって大変だな」 暖色を好む笑武。部屋もオレンジのカーテンを中心にナチュラルブラウンのタンスや白と黄色の混合色のラグと明るい色の物が多い。ベッドカバーは密かに好きな黄色いクマのキャラクターだ。 アイボリーのソファに黄色いクマの形のクッションを置いて腰を下ろす。 ピンポン 突然のチャイムに驚く。越してきて2日目での来客。夢に出てきた兄の顔が浮かんで、顔が強張る。 恐る恐る、玄関のドアを開けた。 「おはようございます」 「おはよう…ございます」 そこには初めて見る人物が立っていた。背丈は男性の平均身長より10cmほど低く一瞬、少年かと見間違える幼さの残る顔立ちは朔未とは違う意味で可愛らしい。丸顔に大きな黒い瞳。そして天然の癖毛でくるっと外側に毛先がうねった黒髪。イエローグリーンの水玉柄が可愛いカジュアルシャツに葉の形をしたボタンが可愛い白ベスト。紐のネックレスには緑の蝶タイが付いている。裾を折り返したデザインのデニム。蜂の巣模様の黄色いスニーカー。服装も彼を幼く見せる要因かも知れない。 「不覚にも昨日、ご挨拶できなかったもので伺いました…2-D号室の千代田(ちよだ)アストです、以後お見知り置きを」 「2-Dさん!すみません…後で挨拶に行こうと思ってたんです!栄生笑武です!宜しくお願いします」 「宜しくお願いします…まだ荷解きも終わってない頃でしょう?本来なら引越し作業が落ち着いた頃の方が良いと思うのですが、同じ階の者から昨日、顔を合わせたと聞いたので取り急ぎ挨拶だけでもと思い来ました」 「昨日は時間的に2-Cまでしか回れなくて」 「成る程、そうでしたか…僕が月に一度の土曜出勤で不在にしていたせいで会えなかったのかと」 「すみません、まだ3階の方にも行ってないんです」 「いえ、急がなくて良いと思います…これ、引越し祝いです…プリザーブドグリーンのトピアリー、部屋に緑があるのは癒しになると思って選びました」 「うわー!良いんですか!花屋さんで観た事はあったけど自分じゃ買わないし、でも良いなって思ってたんです、ありがとうございます!」 「それは良かった、僕は花屋なんです、正確には花農家ですね、販売ではなく栽培と出荷の方なので基本的にはビニールハウスで作業してますが…言われればアレンジメントも作れますよ」 「何か、そうかなって思いました…服の色合いとかボタンが葉っぱの形してたりとか」 「ええ、普段から植物に囲まれている事に幸せを感じます」 それまであまり表情が崩れなかったアストが僅かに微笑む。感情が顔に出にくいようだ。 「お返しになっちゃうけど…これ、良かったら使ってください、タオルセットです」 トピアリーを下駄箱の上に置いて用意してあった紙袋からギフトを取り出す。 「タオルは何枚あっても助かります、ありがとうございます」 「農家って聞くと野菜や果物の方が先に思い浮かぶけど、花も大変そうですね」 「そうですね、季節によって種類も管理も変わりますし…ビニールハウスの張り替えなんて大変な作業ですよ、でも僕の三倍は年長のパートさん達も頑張っているんです…最年少の僕が弱音を吐く訳にはいきません」 「すごい…俺も見習わないと」 「ところで、昨日は誰かにヴァルトの案内は受けましたか」 「え…あ、案内?管理人さんからゴミ出しのルールとか書いた冊子はもらってますけど」 ぴく、とアストの眉間が動いた。そして呆れたような溜め息。 「まったく、嘆かわしい…これから宜しくと言うのなら同じ屋根下の事くらい案内してあげれば良いものを…分かりました、僕が引き受けましょう」 胸に片手を当てて真顔で申し出るアスト。漫画ならドン!という効果音と効果線が付いていただろう。 「…え?」 こうして、突然のHeimWaldツアーが始まったのだった。 「管理人さんや入居者から聞いている部分との重複もあるかも知れませんが、まずHeimWaldの基本情報はこうです…方位南側の12戸、三階建て、3-D号室が空き部屋のため現在入居者は11名で全員単身の男性ひとり暮らし…マンションの正面にはゴミステーションと駐輪場があります、ゴミ出しは可燃ゴミが週二回、月曜と木曜、ビンカンペットボトルは週一回、水曜日に回収があるので午前8時半までにはゴミステーションに出してください、粗大ゴミは専用の袋や回収費シールが必要なので、詳しいことは管理人さんから貰った冊子で確認をお願いします…もし可燃ゴミに金物などの不燃ゴミや回収出来ないものを入れて出すと違反シールを貼られて回収してもらえません、気をつけてください」 「資源ゴミは…」 「よく聞いてくれました、月に一度、この道を東に真っ直ぐ行って、車の修理屋さんを通り越した先にある日向ヶ丘(ひなたがおか)公園という所で回収があります、そしてその公園は災害時の緊急避難場所にもなっているので一度場所を確認しておくのが良いと思います…近いので必ず通り掛かるとは思いますけどね、僕はあの公園も好きですがループバスで行ける月ノ杜(つきのもり)公園が好きです…図書館が併設されていて並木道にはベンチも多いんです、読書や散策には最適ですよ、自転車でも往復1時間も有れば行けるので、サイクリングコースにもおすすめです」 「アストさんも自転車組?」 「うっ…そうです、今になって車の免許を取っておけば良かったと思う事はあります…人の送迎が出来ますし」 「同感です!重い物とか大きい物を買った時も車の方が便利ですよね」 「それもありますが…車の利点は、なんと言っても第一に人の送迎です」 「人の送迎…あ、玲司さんみたいに彼女さんや家族の送迎で車出す機会が多い人にとっては、そうかもしれないですね」 「玲司…ふん、あの人は確かに此処でも送迎係ですよ…行きましょう」 そう言ってアストは建物の裏側にある駐車場へと移動した。其処には昨日も見かけた玲司の白いミニバンと沙希に聞いた善の黒い高級車、そして誰のものか分からないが黄色くて可愛い型の軽自動車が停まっていた。 「駐車場だ、オレはあまり用は無いかな」 「あと、そっちの屋根の下が喫煙所です…灰皿は喫煙者が管理する事になっています」 「喫煙所があるのは知らなかったです」 「旧駐輪場に灰皿置いただけですけどね…喫煙者が2名ほど居るので、管理人さんに許可をもらってフェイクグリーンで囲いを作り目隠しにしておきました」 「え、目隠し?」 「駐車場は来客者も使うんです、いかにもホストという風体の男が喫煙している姿を健全な来客者に見せる訳にはいきません」 「善さん…喫煙者なんだ」 「ヘビースモーカーですよ、あの人」 駐車場の説明を終えて戻ろうとした所に車の鍵を持った玲司が現れた。 「玲司さん!おはようございます」 「笑武…と、アスか…おはようさん」 「おはようございます、今日は何名様ですか」 「今日は日曜だからビズ行きは運休だ、これから実家でチビたちの守り」 「ビズ?」 「なんだ笑武、知らねぇのか… Biz Fest(ビズフェスト) 、今度連れて行ってやろうか?」 「え?え?」 「車で20分ほどの所にあるショッピングモールですよ、快速バスも出ていますね…ヴァルトの住人も玲司を含めて数名そこで働いているのですが、勤務時間が同じなので玲司の車で送迎してもらっているんです…だから言ったでしょう、この人は送迎係だと」 「テメェそんな紹介してやがったのかよ」 「あなたはそういうの好きな人だから良いじゃ無いですか、笑武君も足が欲しい時は頼むといいですよ…空いていれば車を出してくれる、便利な人ですから」 「ええ!そんな…快速バスがあるなら、それ使いますよ」 「謙虚だなお前…いやこっちが普通か」 「ええ、他の人があなたに甘え過ぎです、あなたも甘やかし過ぎです、でも便利なのでこれからもお願いします」 (アストさんも乗せてもらう事あるんだ…) 「まぁ…必要な時は声かけろよ、無理なら断るから遠慮するな」 「玲司くん」 「あ?」 文庫本を抱えた朔未が小走りで寄ってきた。 「朔未さん、おはようございます」 「あ、笑武くん!おはようございます…昨日はよく眠れましたか」 「はい、天井が見慣れなくて変な感じでしたけど」 「ふふ、早く慣れてくるといいですね…あれ?今日はアストくんと一緒ですか」 「朔未さん…おはようございます、笑武君にヴァルト周辺の案内をしていました」 「おはよう、さすがヴァルトの学級委員長アストくんですね」 朔未に頭を撫でられてアストの顔が一気に赤くなった。耳まで赤い。 「こ、子供扱いしないでください…!新人に施設案内をするのは、先住人として当然です…特別に褒められる事でも無いです」 「そうかなぁ…管理人さんでもそこまでしてくれないと思うけど」 苦笑いを浮かべる朔未。笑武はアストに気づかれない程度に小さく頷いて同調した。 「おい、朔」 「あ!そうでした…玲司くん、今日は実家ですか?」 「ああ、約束まで少し余裕あるけどな」 「途中、図書館に寄ってもらえないですか?本を返却したくて…帰りはループバスを使います」 「とことん本好きだな、そろそろ部屋が図書館になるんじゃねぇか?…いいぜ、乗れよ」 「そうならないように買わずに借りてるんですよ…ふふ、いつも助かります、そうだ!時間があるなら、お茶でもして行きませんか?月ノ杜公園の近くに昔ながらの喫茶店があるんです、レトロな雰囲気が落ち着くんですよ」 「喫茶店だ?お前は爺さんか」 「あちこちからお年寄りの会話が聞こえる所も素敵なんです」 「その良さは分からねぇけど…別に一杯くらいなら付き合えるぜ、ほら乗れ」 「はい、お願いします」 慣れた様子で助手席に乗り込む朔未。玲司は運転席に着くと普段は掛けていない細い黒フレームの眼鏡を取り出す。運転時は必要なのだろう。 「気をつけて」 手を振る朔未に手を振り返してミニバンを見送る笑武。その後ろで拳を握ってわなわなと肩を震わせているアスト。 「…送りだけならともかく、喫茶店なんて」 「ど、どうしたんですかアストさん」 「やはり車の免許を取っておくべきでした…僕なら…僕なら喫茶店が好きです!」 「…はい?」 アストは相当の喫茶店好きで、喫茶店に行った2人が羨ましいのだろうか。そんな事を思いながらアストに付いて表の方まで戻る。 「こほん、エントランスに消火器があります…それと此れが掲示板、管理人さんからのお知らせが張り出されているのでチェックしてくださいね」 「はい」 「お知らせと言えば、郵便受けに他の入居者からお知らせが入っている事もあるのでそれも確認してください…ヴァルトは皆、知った仲なので忘年会や新年会、花見にバーベキュー…総じて交流会を行う事があるんです…参加は任意です、予算や都合に合わせて良ければ出席して下さい」 「集合住宅にはそういう機会って無いと思ってた…なんか楽しそう!」 「比較的、同世代が多いですからね…友達感覚なんですよ、でもあくまで任意なので殆ど参加しない人も居ます…特に1-Dは一度も顔を見せた事ありませんね」 「そう言えば挨拶に行った時も留守だったなぁ…」 「居留守の可能性もありますよ…基本的に馴れ合わないタイプの人です」 合わせたように1-D号室へと視線を送る。今日も人の出入りがある気配はない。 「ヴァルトの施設案内は以上です…はっ!危ない!こっちへ!」 笑武の手を引いて駐車場側の壁際に身を隠すアスト。訳も聞かされず、とりあえず隠れた笑武はそっとマンションの正面を覗き込む。一台の黒い乗用車が停まった。 「あれは…」 車から降りて来たのは善だった。出かけた時と変わらないように見えるが足取りが少しふらついて酔っているのが分かる。運転手のボーイに手を振り、やや前屈みに俯いて階段を登っていく姿を隠れて目で追う。 「行ったようですね…あの状態の彼は大変危険です、近づかないように」 「かなり、お酒入ってる感じだったけど大丈夫かな」 「連休の土曜は忙しいんでしょう…あの人は店では人気があるそうですから…僕には何処が良いのか理解できませんけどね」 「善さん、お酒入ると何が危険なんですか?」 「恐ろしい事です…普段でも痴漢紛いの存在ですが、酔うとキス魔に変貌するんです」 「キ、キス魔?!」 「しっ!あまり大声で言う事ではありません…見境が無いので万が一捕まってしまったら蹴り上げてやってください、それは正当防衛です」 「そんな…無理だよ人を蹴るなんて」 「あの人、あの身長とジム製の筋力ですから、抵抗しないと部屋に連れ込まれるまでありますよ」 「アストさん捕まった事あるんですか」 「ええ、抱きつかれそうになったので思い切り頭突きをしてやりました、そしてキツく叱咤しておいたのであれから酔っていても僕に対しては本能的にブレーキが掛かるようです」 ドヤ顔で言うアスト。可愛い容姿と裏腹にやる事には容赦がないようだ。 「そういえば昨日、朔未さんも捕まって大変そうだったな…」 「な!!何ですって!朔未さんは無事でしたか!」 「はい、多分」 「多分とはなんですか!」 「善さんが仕事に出かける所で、そのまま朔未さんに見送りして欲しいって連れて行っちゃったんですよ…でも善さんまだお酒入ってなかったし」 「夕岳善…許さない、あの危険人物を朔未さんに近づけない様にしなくては」 「アストさん?なにブツブツ言ってるんですか?」 「い、いえ…とにかく酔っ払いに注意という事です」 「俺はそんなに強く言えないし…捕まらないように気をつけます」 「まぁ、あの人も微塵の理性は持ち合わせているので本気で抵抗すれば何とかなりますよ…多分」 (多分なんだ) 「だからと言って許されませんが…他に気をつけた方が良い人物は沙希ですね、以前に比べて少しは大人しくなりましたが今も決して素行が良いとは言えません…それに、最近まで連んでいた仲間たちは今も不良のままでしょうから」 「…沙希さんとは昨日一緒に引越しそばを食べたけど普通に楽しかったです」 「それは彼に食事を振る舞ったからです、甘やかすと懐かれてしまいますよ」 「そんな野良猫みたいに…」 「沙希と野良猫を同じにしたら野良猫に失礼です」 「辛口だなぁ、アストさん」 アストはついでだと、透流が言っていた libertà(リベルタ)の場所も教えてくれた。煙突の付いた屋根が可愛い洋館風カフェレストランだ。2階は住居になっているらしく店舗は1階のみ。 海外のお洒落な通りにありそうな外観で日本の小田舎の街並みからは少し浮いている。 イーゼルのボードには定番メニューオムライスと書かれていた。窓から見える店内はノスタルジックな雰囲気で内装にはレッドブラウンの木が多く使われている。照明や絵画の演出は高級感も忘れていない。天井にはシーリングファン。軸組があえて出されている大胆なデザインだ。 「うわー…なんか、ありきたりな褒め方だけどオシャレなカフェだなぁ」 「そうですね、二階にオーナー夫妻が住まわれているんです…若い頃は海外を多く巡られていたそうで、店内の絵画や装飾品はその時に仕入れた物だそうですよ」 「だから多国籍な組み合わせもあるんですね、海外かぁ…俺はまずパスポート作る所からだ」 「僕はいつかアマゾンに行ってみたいのですが」 「アマゾン?!またすごい所に行きたいんですね」 「何を言ってるんですか、南米アマゾンの熱帯雨林を知らないんですか?世界…いえ地球最大規模の熱帯雨林ですよ…アマゾン川をクルーズしながら観て回りたいものです」 「アストさんって、意外とワイルドなんですね…俺はワニとか怖くて」 「そうですか?遠目に見る分にはカッコイイと思います…さて、他に聞きたい事はありますか」 「大丈夫です、ありがとうございました…また何か分からなくなったらアストさんに聞きます」 「そ、そうですか!仕方がありませんね、不在の時もありますが困った事が有ればいつでも声を掛けてください」 仕方がないという言葉を照れ隠しに使って、アストは嬉しそうに声を弾ませた。 「アストさんって長男?」 「え?ええ、続柄は長男です、姉は1人居ますが跡取りは僕ですね」 「そっか、しっかりしてるから」 「他がしっかりしていないだけです、僕は至って普通です」 「あはは、じゃあ俺もしっかりしてないかも…がんばります」 そこへピンヒールの音がして振り向くとヴァルトの方に向かう明梨を目撃する。 「あの方は玲司の恋人ですよ」 「あ、はい…きのう挨拶を」 「玲司の留守中も出入りしているようですね、まぁ合鍵を渡しているのだから良いんじゃないですか」 「ですね…でも、すれ違いだなって」 「確かに、朔未さんとお茶に行く余裕があるなら彼女を待てば良かったものを」 「は!すみません…ただ何でだろうって思っただけで!」 「これは独り言ですが…僕は顔も知らない誰かに捏造してまで見栄を張る意味が理解できません」 「え?」 「行きましょう、此処にいると客だと思われます」 来た道を戻るアストに付いて行く笑武。 「あら、こんにちは」 ヴァルトに着くと先程見かけたばかりの明梨が既に玲司の部屋から出て行く所だった。 「こんにちは…玲司さんなら、さっき出かけましたよ」 「知ってる、ちょっと忘れ物したの!じゃーね」 ひらりと手を振って足早に立ち去る明梨を見送る2人。 「僕もこれで失礼します、そうそうヴァルトの入居者は僕やビズ組を含めて日曜休みが多いので訪ねるなら日曜が良いですよ、では」 「はい、後で3階にも行ってきます」 礼儀正しくお辞儀をして2階へと上がって行くアスト。笑武は一旦、部屋に戻った。 「アストさんかぁ、小さくて可愛いけど頼れる人だなぁ」 管理人からもらったゴミ出し等の案内が書かれた冊子を大切に書類ケースへ片付ける。再開した荷解き。一通り片付けが終わった頃には正午を過ぎていた。 潰したダンボールを紐でまとめ終わると盛大なため息と共にソファに倒れ込む。たかがダンボールでも枚数が多くなると潰して畳むのも一苦労だった。体力が大幅に削られてしまった。 (3階の挨拶回り行かないと) ピンポン。そろそろ挨拶回りに戻ろうと思った所に再び来客を告げるチャイムが鳴った。 「え?」 今度は誰だろうとドアを開ける。 「あは、お疲れぇ」 「あれ?沙希さん…お疲れ様、今日も何かの節約?」 「ん~…まぁ、近いけど…これ観たい」 沙希が手に持っていたのは最近ビジュアルが発売されたばかりの新作タイトル。海外の映画で、殺し屋同士の男女が互いをターゲットと知りながらも恋に落ちてしまうコメディアクションだった。 「あ、面白そう」 「笑武の部屋のテレビのが俺のより大きいし」 「いいよ、俺もちょうど片付けが終わって休憩してた所だから」 「おやつある?」 「え?!…あったかなぁ」 昨日に引き続き、上がり込む事に成功した沙希は片付けが進んだ部屋を見回す。 「ふーん、ほとんど片付いてるじゃん…あはっ、このクマ好きなんだ?かーぁいい」 ソファにあった黄色いクマのクッションを見つけると抱きしめて座る沙希に笑武はキッチンの棚を覗き込みながら答える。 「そう、のんびりしててマイペースだけど憎めない所とか好き…沙希さん、ごめん、コレしか無い」 「駄菓子?いいじゃん、好き」 「引っ越して来る前に駄菓子屋さん見つけて、懐かしくて買ったんだった」 「うわ、金平糖だ…確かに懐かしぃ」 「そう、この串に刺さったカステラとか…長いゼリーとか、つい買っちゃって」 「笑武ってさ、子供っぽいとこあるのな」 「う…否定はできないけど、沙希さんには言われたく無いな」 「は?!子供扱いしたらマジ許さねぇから!」 「はいはい…じゃあ飲み物持って来るからディスク入れて」 「ミルクティーある?」 「え…緑茶しか無いけど」 「品揃え悪ッ」 「品揃えって…お店じゃないのに…冷たいので良い?」 「良い」 ゲーム機にディスクを入れている沙希にお茶を出す。隣に自分用も置いて、適当につまめるようにテーブルに駄菓子を広げた。挨拶回りは、映画の後にしよう。そう決めて沙希と並んでソファに腰を下ろす。 「字幕派?吹き替え派?」 「どちらかと言えば吹き替えかな」 「俺もぉ」 さっそくゼリーを咥えて鑑賞モードの沙希に釣られてテレビの画面に目をやる。映画化されるだけあって、始まってしまえば夢中になっていた。コメディなので要所要所に笑えるシーンが挟まれて、その度に2人で声を出して笑う。 「あっは、なんで女装してんのにヒゲ剃ってない訳」 「ほんとだ、すね毛も剃って無いな」 ダンスパーティーに潜入したムキムキの俳優がドレス姿で現れる無理のある変装シーンに爆笑する。 しかし、そのあと潜入に気付かれてヒロインとドレス男が個室に逃げ込み、隠れるシーンで突然のラブシーンに突入した。見つかるかもしれない、という事に興奮する2人。 ドレスを破るように脱ぐ男。 「あはは、ドレス破いたら服どうすんの、な?」 金平糖の袋を開けながら隣の笑武を見る沙希。そこには頰を赤くして俯きがちな笑武が居た。ラブシーンの映るテレビ画面から目を逸らしているようだ。 (うわ~…ギリギリだ…女の人までほとんど裸だし) 「笑武…ひょっとして、エッチなシーン観てシたくなった?」 「ふぁっ?!…ち、違うよ!違う違う!」 顔を覗き込んできた沙希に慌てて否定する。すると、揶揄うように笑われた。 「あはは、冗談だし、ちょーかぁいい」 「勘弁して…見慣れてないのは認めるけど」 「童貞?」 すごい質問がさらっと飛んできた。笑武は表情を曇らせて、首を傾げた。 「違うよ、多分」 「なにそれ…もしかして記憶ないとか?」 「…そう、だね…あまり覚えてない」 歯切れの悪い返事に沙希はそれ以上の追求は止めて金平糖を口に含んだ。甘い香りがする。 「沙希さんは?恋人、居る?」 「居ないし要らない」 「そっか、意外…絶対モテるでしょ」 「んー…モテるのは否定しないけど、好きでもない奴にモテても面倒じゃんね」 「うわ、言ってみたい」 「俺に言い寄って来る奴なんて見た目しか見てない奴だって…体目当てとか」 ぶ、と口に含んだ緑茶を吹き出す笑武。 「ゲホッゲホッ」 「ちょ、何むせてんの」 「沙希さんが変なこと言うから…」 「別にホントのこと言っただけだしィ」 「俺はそもそもモテないから…でも確かにモテすぎるのも苦労するんだろうな」 「それな!客に告られるのが1番困る、泣かれたら面倒だし…俺は自分から告った事無いけど、この2人みたいにさ、好きになっちゃダメな相手を好きになったら…どうやって諦めるのかな」 「この2人は付き合うんじゃなかった?」 「もしもの話!禁断の恋ってやつ…既婚者とか…兄弟とか……恋人いる奴とか…気持ち伝えても困らせるだけじゃんね」 兄弟。そのワードにドクンと心臓が跳ねた。血の気が引く感覚がする。 「そ…うだね、難しいかも…諦めたくて体は離れても、心はきっと、離れられない」 予想外の返事に沙希は目を見開いた。 「笑武…もしかして、そういう恋してんの?」 「え?…もしもだよ!もしもの話!例え話!」 「あは、ビックリした!似合わねぇもん!」 「似合うとかないだろ!そういう沙希さんは?もしも、禁断の恋をしちゃったら」 「…俺?俺は…そんなヤツ好きにならないから平気ィ」 「それ、答えになってないって」 一度は気持ちを切り替えて互いの命を狙い合う2人の男女。しかし、何度かのチャンスをわざと逃す。 その内に、気づいた。不意に見せる隙は、わざと作り出されたもので2人は互いに相手が自分を仕留めるのを待っているのだと。いよいよ終盤、男の家での激しい銃撃戦。今まで散々、暗殺にこだわってきたのに急に派手に撃ち合い始めるのはアクション映画ならでは。 ムキムキの男の方が体力と筋力がある。疲労から油断した女が突き飛ばされて棚に置いてあった物が床に散乱した。男が素早く銃を構えたが、女と目が合うと構えた銃をゆっくり下ろした。 『なぜ!殺せたのに!』 『弾切れだったんだ』 今度は女が床に散乱した本を男に投げつけて見事に顔面に命中させた。鼻血を出して顔を覆う男に女は銃を突きつける。 『いいさ、君になら…』 『…私も弾切れよ』 2人は同時にまだ弾の残る銃を床に捨てて抱き合った。濃厚なキスシーンが流れる。予測できた展開だが、やはり面白い。笑武は飲み物のおかわりを気にして沙希のグラスの減り具合を横目に見た。 (え…) 不意に視界に入った沙希の横顔が、どこか悲しそうに見えた。ただの感動とは違う、本当に悲しそうな表情。しかしそれは一瞬で消えて揶揄うような笑顔。 「あー…また笑武が興奮するシーンじゃん」 「だ、だから違うって!」 映画を観終えると、そのままゲームに移行してしまい気付けば夕方まで時計の針が進んでいた。 「久々にゲームやったら鈍ってたぁ」 「そんな事ないよ、コンボ入ってたし」 「入ったけど、負けたじゃん…悔しぃ、あと遊んだらお腹減った!」 「食べてく?」 「今日は玲司んとこ行くからいい、もう少ししたら帰ってくるし」 「そうなんだ」 「金平糖、もらって行ってイイ?」 「いいよ、好きなだけどうぞ」 気に入ったのか金平糖の袋をいくつか手に取って立ち上がる沙希。 「笑武さ、もし諦められなくても…勝手に好きでいるくらいはイイんじゃね?」 「え?」 「さっきの話、俺なら多分…諦めるの無理、だから勝手に好きでいる」 「…ずっと?」 ずっと片思い。始まりも、終わりもない、透明な恋。 「そ、伝えなきゃバレないし迷惑もかかんない、勝手に好きでいるくらいイイじゃんね」 そう言った沙希の表情は、映画を観ていた時と同じく悲しげだった。 「うん、そうだね」 否定する事が出来ず、頷くと沙希はクスッと笑って玄関に向かう。 「じゃ、またなー」 「うん、気をつけて」 沙希を見送って、閉まったドアを見つめると耳元で兄の囁く声が聞こえた気がした。 『へぇ、俺から逃げるんだ』 「俺は終わらせる、だから逃げ続けるよ…兄さん」 ふぅ、と気持ちを切り替えるために溜息を吐いて残り少なくなったギフトを手に取る。 それから3階への挨拶回りに出向いたが、すべて応答がなかった。 ただ3-B号室に関しては人の気配はあったのだが、出てきてはくれなかったというのが正しい。 タイミングが悪かったのかと引き返す。 日が沈むのが早くなってきた。夜を招く紫色の夕闇はどこか兄を思い出させた。 ゾクっと背筋を撫でる冷たい風から逃げるように部屋に急ぐ。 「っと…」 「わ!…すみません!」 「平気、そっちは?大丈夫だった?」 急ぎ足で階段を駆け下りた所に仕事へ出かける所だった善が居た為、軽くぶつかってしまった。 「大丈夫です、よく前見てなくて…あの」 「どうしたの、寒い?」 「え?」 「震えてる」 「ぜ、善さん!?」 ハグするように抱きしめられて固まる笑武。特にそれ以上何かしてくる様子はない善に落ち着きを取り戻すと初めて自分が震えている事を自覚する。 「俺、体温高い方だから暖めてあげる」 (た、確かにあったかいけど…ど、どうしよう!) 仕方がなくそのままで居ると本当に暖かくなって、固まっていた体からも力が抜けてきた。優しい香水の香りに包まれて少しリラックスさえしてしまう。いつの間にか震えも止まっていた。 (あ、あれ?なんか…落ち着く) 「うん、もう大丈夫だね」 「う…あの、どうも」 「おいで、部屋まで送ってあげる」 「送るって…すぐ下なんですけど…」 手を差し出されてダンスにでも誘われているのかと錯覚した。改めて男から見ても狡い位に整った容姿だ。そして、見惚れている内にぽわーんと思考が停止して無意識に手を取ってしまったのは知らず知らずその魅力に惑わされていたのかもしれない。夢見心地とは、これの事だろう。 「怖い夜は俺が連れて行ってあげるから、安心しておやすみ」 「…は、はい…おやすみなさい、善さん」 「いい子」 笑武を部屋まで送ると、夜の繁華街へと去っていく善。その後ろ姿が見えなくなったところで笑武はハッと我に返った。 「よ、夜が怖いとか!そんな子供じゃ無いです!」 その声は虚しく夜空に消えて行った。

ともだちにシェアしよう!