3 / 25

第3話 フォローしてね♡

仕事に行く為に朝の支度をしていると、母親から電話が入った。 ちゃんと食べているのか、荷物は片付いたのか。母親らしい心配の言葉が続く。 ちゃんとやってるよ、と返せば証拠を見せてと言われてビデオ通話で片付けた部屋を見せて回る羽目になった。 「ほらね?片付いてるよ…食事も三食とってるし」 『それなら良いけど、治安はどうなの?近所の人とトラブルになったりしてない?』 「なってないよ、仲良くやってる…一緒に食事したりゲームしたり」 『付き合う人は選びなさいよ、戸締りもしっかりね』 「うん、分かってるよ…仕事に行く時間だから、またね母さん」 『気をつけてね、行ってらっしゃい』 通話を切ってスマホをスラックスのポケットに突っ込む。棚卸しは日によって現場が違う為、出勤時間も日によって違ったりする。一度会社に集合してクルーごとに朝礼を済ますと必要な機材や脚立を持って社用車に乗り込みそれぞれの現場に向かう流れだ。 (今日はコンビニの棚卸しが2店舗だったな) 頭の中で確認しながら部屋を出る。母親に言われた通り戸締りの確認も怠らない。 「ほら、いつまでもグズってんじゃねぇ」 「ん~…眠ぃ」 笑武が部屋を出たのと同じタイミングで玲司の部屋から玲司と沙希が一緒に出てきた。どうやら昨夜は泊まっていたようだ。 「おはようございます玲司さん、おはよう沙希さん」 「ああ、おはようさん」 「ふああ…笑武じゃん、はよー」 沙希はまだ眠いらしく欠伸をしている。 「仕事か?」 「はい、今日はこれから…2人もですか」 「ああ、行きはいつもこの時間だ…帰りは残業によるからな、平均17時半から18時ってとこか」 「あはは、本当に送迎バスみたいになってますね…そのうち、機会があればお願いします」 「んじゃぁ、今度はビズで遊ぶ?アーケードの格ゲーなら負けねぇからゲーセン行こ」 「う…絶対きのう負けたの根に持ってる…節約は?」 「娯楽は必要経費!」 「遊ぶなとは言わねぇけど、ほどほどにしろよ」 「は~い」 「沙希さん、昨日は玲司さんの所で泊まったんだ」 「昨日はって言うかぁ、昨日泊まった」 「こいつ生活費が苦しくなると毎日のように転がり込んで来るんだよ、毎回持ってくるの面倒だからって着替えや日用品もちゃっかり置いて行きやがって」 「そ、玲司んとこにはたまに身内も泊まりに来たりすんの、だからソファがベッドになるし、おやつもドリンクもゲームも完備でちょー快適ぃ♪」 「な、なるほど…」 「ついでに朝も起こしてもらえるから遅刻しないで済むじゃんね」 「ったく、少しは自力で起きる努力しろ」 「あはは…それじゃあ、また」 「今度ゲーセンでリベンジ!約束だかんな!」 「うん、わかったわかった」 玲司と沙希は駐車場の方へ、笑武は駐輪場の方へと別れて移動する。愛車であるオレンジ色の自転車の鍵を外した所で昨日と同じ黒い車がやって来てマンションの前に停まった。 (あれって善さんの…い、今?!どうしよう!) 昨日と同じ状態の善が出てくると慌てて隠れ場所を探す笑武。 「笑武くん?おはようございます…どうしたんですか、キョロキョロして」 「さ、朔未さん!おはようございます!…ダメですよ、今出てきたら!」 「え?でも、俺そろそろ仕事に行かないと…」 仕事に行くために部屋から出てきた朔未は駐輪場で明らかに挙動不審な笑武を見つけて首を傾げた。 「わわ、とにかく隠れて!」 笑武は脱兎の如く昨日と同じ駐車場の方へ行ける通路に身を隠す。キョトンとしながらそれを追おうとした朔未の腕を後ろから掴む善。 「?!…あぁなんだ、善くんでしたか、お帰りなさい」 「…ただいま」 ま、を言い切ると同時に掴んでいた腕を引いて善が朔未を抱き寄せる。このままでは朔未がキス魔と化した善に捕まってしまう、意を決して助けようと飛び出した笑武より早く非常階段から「させません!」という声と共に人影が降ってきた。 「わぁあ!!善さん!あ、危な…っ!!」 階段の高さを利用して長身の善に上から飛び蹴りを入れて倒すという荒業。倒れた善の背に跨って、その腕を後ろ手に捻り上げたのはアストだった。 「朔未さん!大丈夫でしたか!僕が来たからにはもう安心です!」 「う、うん…俺は大丈夫…善くんは大丈夫じゃないけど」 「ぜ、善さん…」 「ふぅ、見張っていて正解でしたね…この人はお酒にはかなり強い方ですが連休やボーナス月は掻き入れ期とあって飲酒量が増え、この状態で帰ってくる事が多いんです…気をつけてください」 「あ!そういえば、今週は今日まで三連休ですね」 「ええ…振替休日です、きのう笑武君から不穏な話を聞いていたので心配になって非常階段から見張っていました…無事で何よりです」 「それは、ありがとう…」 一応、お礼は言っているが朔未の表情は困惑している。倒されてからピクリとも動かない善を心配しているようだ。 「…何やってんだお前ら」 笑武の叫び声を聞いて駐車場から様子を見に来た玲司はアストに馬乗りにされた善と、その近くで立ち尽くす朔未と笑武という異様な光景に冷ややかな視線で問いかけた。 「玲司くん!お待たせしてすみません!今、行きます」 「朔未さんもビズで働いてるんですか?」 「そうですよ、俺は本屋さんです…文具なんかも売ってますけどね」 「何ていうか、すごく似合いますね」 「ふふ、そうですか?ご来店お待ちしてます」 「この酔っ払いは僕が押さえています、行ってください」 「そ、そう?それじゃあ…行ってきます」 「はい、気をつけて!」 タタタッと小走りで駐車場の方へと去っていく朔未。 「あれ?沙希さんは?」 「車で寝てる」 「そっか、沙希さんの言ってた服屋さんもビズにあるんだ…」 「お前も早く行かねぇと遅れるんじゃねぇか?」 「あ!本当だ!行ってきます!」 予期せぬタイムロスで時間に余裕が無くなってしまっていた。自転車を出してすぐフルスピードで漕いで行く笑武を見送ると自身も車へと戻って行く玲司。 周りに誰も居なくなってアストは漸く善の上から下りた。 「困りましたね、倒すことしか考えていませんでした…僕ではこの人を二階まで運ぶのは無理です…放置しておきたい所ですが通報されそうですね、そういう訳で、お願いしても良いですか?透流」 二階の手すりに片肘で頬杖をついて高みの見物を決め込んでいた透流が苦笑う。 「りょーかい、そこに転がしとく訳にもいかないし」 「ではお願いします」 後のことが解決するとアストは一仕事終えたと言わんばかりに善には目もくれず自分の部屋へと戻っていった。入れ違いに降りて来た透流は善に肩を貸して立ち上がらせる。 「平気ー?避けれたでしょ」 「避けたら、アスちゃんが足を挫くかもしれなかったから」 「だからってまともに喰らわなくても…」 「可愛かったなぁ…飛んでくるアスちゃん」 「見惚れてる余裕あるならガードしろっての…ほんと、お前はアストの事になると急に変態だな」 「俺に頭突きや飛び蹴りして来た子なんて、アスちゃんしか居ないんだ…どうしたら他の子みたいに抱きついたり、擦り寄ったりして来てくれると思う?」 透流はこの上ない自信を持って言い切った。 「無理だと思う」 ~♪~♪ 透流のスマホに着信が入った。相手を確認するとそのまま電話に出る。 「どしたの?サクミン…ああ、うん、知ってる…いま回収したところ…怪我?善がアストの蹴りくらいで怪我する訳ないって……いんや?今日のは酔ってないやつ、サクミンをハグして見送ろうと思っただけじゃないかな…おっけー、伝えとく…お仕事頑張って、行ってらっしゃい」 電話は善が野晒しになっていないか心配した朔未からだった。事の経緯を説明した上でアストでは善を運べないから助けてあげて欲しいという内容だ。既に解決済みなので、報告だけしてそのまま終話する。 「朔ちゃん、何って?」 「アストくんは悪くありません、善くんの自業自得ですよ…だとさ」 「そうだね…アスちゃんに出迎えてもらえるなんて、得したよ」 「うぅーん、と…部屋戻ろっか」 アストに蹴られた事を喜んでしまっている善に、何を言っても糠に釘。 透流は速やかに善を彼の部屋に押し込む事にした。 一方、出発がいつもより少し遅れてしまったビズ行きは道中を急いでいた。 透流との通話を終えた朔未が助手席で安堵のため息を吐く。 「善くん、大丈夫そうで良かったです」 「アスは相変わらず容赦ねぇな」 「俺も見たかったぁ」 通話を聞いていた沙希が残念そうに声をあげる。 「なんだ起きたのか、うるせぇから寝てろ」 「ひど!さっきは起きろって言ったくせに!」 「ふふっ、なんだか兄弟みたいですね…あ、でも玲司くんの弟さん達ってまだ小学生でしたっけ」 「弟と、下の妹がまだ小学生だ…口を開けば遊びに連れてけ、あれ買って、これ食べたい…ってな、ふたり同時に相手にするのは相当体力使うぜ…ん?確かに言うこと同じだな、沙希と」 「誰が小学生と同じなんだよ!それに、あれ買っては言った事ねぇし!」 「買い物にくっついて来ると、アイス買ってとか言うだろ」 「それは、これ食べたいの方じゃん!」 「屁理屈こねやがって」 「沙希くん、来月は言うチャンスですよ…あれ買って!って」 「なんで?」 「来月でしたよね?沙希くんの誕生日」 「…あー、うん」 「そう言えばそうだったな…沙希、何が欲しい」 「え?…う、ん…考えとく」 「誕生日か…祝い事が続くな」 「そうでした、玲司くんは最近、甥っ子くんも産まれたんでしたね」 「ああ、それで実家に弟達の子守りに行く回数増やしてるからな…甥っ子は親にとっては初孫だ、今は毎日でも会いに行きたいくらいだろ…俺は週末に初対面だ」 「羨ましいなぁ、俺はひとりっ子だからその経験は出来ません」 「道理で、いかにも箱入りって感じなわけだ…朔の反抗期とか想像もつかねぇ」 「言われてみれば無かったかもしれませんね、強いて言うなら今が反抗期です…家を出てひとり暮らしをしたいと言った時は猛反対されたんですが…押し切って出ちゃいました」 「何となく親御さんが過保護になるのも分かる気がするけどな…良かったじゃねぇか、同じマンションに透流が居て」 「はい、透流くんが家具屋さんについて来てくれたおかげで無事に部屋に収まる本棚が買えました…俺だけで買っていたら天井を突き抜けている所でした」 「さすがに家具はサイズ測れよ」 「透流くんにも言われました…サクミン、自分の住む部屋の広さ知ってる?って」 思い出し笑いをしている朔未。一歩間違えば笑えない大失敗だが、朔未の中ではおもしろい記憶として残されているらしい。 「そっちの万年反抗期、今日は何時に昼休憩入るんだ?」 「は?俺は反抗期じゃなくて、こういう性格だし!」 「何でそこで威張るんだよ」 「んーと、今日はぁ…13時、合いそうなら連れメシしよ」 「そのつもりで聞いてんだよ、休憩室(バック)で食うのか、店で食いたいのかどっちだ」 「フードコートも飲食店も振替休日で混みそうだしぃ、適当に買って休憩室(バック)行こ」 「ああ、わかった」 「あれ?俺には聞いてくれないんですか?」 「お前はいつも早いんだろ」 「はぁ…そうなんです、11時からなんですけど…お昼が早いので後半にお腹が空いてしまうんです、せっかく休憩室が共同なのに2人とも会えませんし」 「昼は無理でも帰りによく飯屋寄ってるじゃねぇか」 「そうですけど、その頃にはもう空腹を通り越しちゃってたりするんですよ‥ご飯はお腹が空いてる時に食べるのが一番美味しいのに」 「裏でこっそりオヤツとか食べちゃえばイイじゃん」 「え?ふふ、常に人の出入りがあるので間食は難しいですね」 「お前はやってそうな口振りだな、沙希」 「うちはぁ、店長も隠れてオヤツ食べてるからOKなの!」 きのう笑武の部屋から持ち帰った金平糖の袋を振って笑う沙希。 「金平糖?可愛らしいオヤツですね」 「どうしたんだ、それ」 「笑武にもらった」 「笑武くんですか、もう仲良しなんですね」 「新入りに迷惑かけるんじゃねぇぞ」 「かけてないし!笑武は俺と居るの楽しぃんだよ!」 「越して来たばかりで気も張ってるだろうから連日押しかけるんじゃねぇよ」 「俺も片付け手伝ったし」 正確には手伝っていたが途中で飽きて緩衝材を潰して遊んでいただけだ。 「あぁでも、笑武くんは沙希くんには敬語を使っていませんね…それだけ気を許しているのかも」 「だよな!やっぱ俺が一番、絡みやすいってことじゃんね」 「えっと…放っておけないんですよ、きっと…笑武くんは優しそうですから」 「言えてる!ちょーお人好しだよな」 「ヴァルトに住んでいれば少しずつ打ち解けてくるだろ」 「俺も早く慣れてもらえるように…甘えちゃいましょうか♡」 ッシクュン!とくしゃみをする笑武。 (なんだろ…噂でもされてるのかな) 予定より少し遅れたが無事に出勤時刻には間に合った。駐輪場に自転車を停めて少しだけ急ぎ足で更衣室に向かう。スラックスは黒色指定で制服ではない為、上だけ制服の青い作業着に着替えて打刻を済ませる。 「おはようございます」 「おはよう!サトウ君!」 「あの…栄生(さこう)です」 毎回、出勤時間や一緒に現場に行くクルーが違う特殊な環境。短期の派遣社員も多く顔と名前が一致するのに時間がかかる。一度も同じ現場にならず名前も知らないまま契約期間を終える人すら居るくらいだ。夜勤の方では大型の商業施設の棚卸しもある為100人を越える大人数になる現場も珍しくない。 長期の契約をしている人以外は付き合いが薄い職場と言っていいだろう。 「ごめんごめん、サトウと聞き間違えてた」 「似てますよね」 同じ現場になるのは2回目の気さくな男性。彼は長期のアルバイトだ。外見に特徴は無いが日勤と夜勤を掛け持つタフな人という印象が残っている。 「ちなみに僕の名前、覚えてる?」 「あ」 「ははは、だよね…僕は津島(つしま)だよ、栄生君も長期雇用だよね?それならまた同じところに当たるかも知れないから宜しくね」 「宜しくお願いします」 朝礼を終えて現場まで向かう車の中は割と自由だ。雑談したりスマホでゲームをしたり音楽を聞いたり、今ごろ朝食を食べている人もいる。 「引越しは無事に済んだ?」 「なんとか…まだ少し片付けが残ってますけど」 「いいねえ、僕はずっと実家暮らしだから憧れるよ…同じマンションに可愛い女の子が住んでいて恋が始まったりして」 「あ、いや…うちのマンション女性は住んでないみたいです」 「え!そうなんだ…夢が壊れた」 「でもみんな良い人たちですよ、同世代も多いし…部屋とか行き来もしてるみたいで」 「もうそんな仲良くなったの、凄いなぁ…僕には無理!実は昔、遊びに来た友達に懸賞で当たったアイドルのサイン入りCDを盗まれたことがあってさ!それからいくら友達でも、部屋には入れてないんだ」 「えぇ!」 「栄生君も気をつけなよ!良い人そうに見えて、実は…って事もあるから」 「大丈夫だとは思いますけど、気をつけます」 この会話を笑武は世間話程度に思っていた。まさか数日後に起きる事件の予告になるなんて、この時は当然、知る由もなかった。 棚卸しに土日も祝祭日も天候も関係ない。余程のことが無い限り予定通りを貫く。 この日も予定していた2店舗のカウントを予定時刻までに無事に終えた。少し早く終わったくらいだ。 クルーのメンバーが比較的慣れた人揃いだったのもスムーズだった一因だろう。他の現場からヘルプが掛からなければ早く終わっただけ早く帰れる。今日は大丈夫そうだ。 作業が全て完了すると再び会社まで社用車で戻る。行きとは打って変わって帰りの車内では疲れて寝ている人が多く静かだ。津島も隣の席で爆睡していた。 「お疲れ様でした」 着替え終わり帰りが同じタイミングになった人達と挨拶を交わして自転車で帰路に着く。 (あれ?誰だろう) 遠目にWaldが見えてきた所で、駐輪場の辺りからHeimWaldの敷地を覗き込むような仕草をする中年の男が居るのに気付いた。グレーの作業着に黒いジャンパーを着ている。白髪混じりのボサボサな髪が深めに被ったカーキのニット帽の下から見える。顔はマスクで視力の良い笑武でもよく分からない。 不審に思って駐輪場に着く手前で自転車を降りて手押しでゆっくり近づく。 そして男が覗く方向を目で追ってみた。 駐車場や通路を覗き込んでいるので、目的はおそらくHeimWald内のどこかだろう。一見の憶測になるが年齢的に誰かの父親である可能性はありそうだ。そうでなければ、不審者でしかない。 「ふぅ…ふぅ」 マスクで息苦しいのか荒い息遣いが聞こえる。いよいよ怪しい。ごくり、と息を呑んで駐輪場に自転車を運ぶ。 「あの…失礼ですけど、ここの住人の誰かに用ですか?」 「!!」 話しかけると、男は初めて笑武に気付いたようで驚いて後退りした。漸く見えた目元は目の下がたるんでいる。目が合うと直感的に嫌な感じがした。 「あの!」 不審を確信して今度は強めに声をかける。すると男は逃げるように走り去った。 (もしかして、ドロボー?!) 不安になって部屋に戻ったが施錠はされたまま、何も異常は無かった。 不審な男の行動が気掛かりのまま、まだ渡せていないタオルセット片手に再び部屋を出る。 今まで人の気配すらしなかった1-D号室。その呼び鈴を鳴らした。 ピンポン、という音が部屋に響いてから数分。 カチャ、とドアが開いた。しかし住人の姿は見えない。開かれたのは内側からのロックチェーンも引ききらないほど僅かだったのだ。しかも、無言。応答を待ってしまったので不自然な沈黙が生まれてしまった。 「あの、こんにちは!俺…1-Bに越して来ました…栄生笑武って言います、挨拶に来ました」 「…」 挨拶をしても相手からの返事はない。 「これ、良かったら…タオルセットなんですけど」 聞こえているはずなので用件を続けると、漸く一言だけ返事が返って来た。 「不要だ」 そして僅かに開いていたドアが閉まりかける。 「あぁ!あの!変なこと聞いてすみません、今日って誰か知り合いの人が訪ねて来る予定とかありましたか?」 笑武は慌てて早口に聞いた。 「…なぜ」 「なぜ…と、聞かれると本当に申し訳ない理由なんですけど…さっき、中年の男の人がマンションの前に居て、こっちが気になる感じだったので…そ、それだけなんですけど」 「…無い」 ついにドアは閉まってしまう。もう一度は出て来てくれないだろう。笑武は諦めて部屋に戻ることにした。 「1-Dの人が無事なのは分かったから良かったけど、何か俺も怪しい人みたいになっちゃった気がする」 初対面で来客を訊ねてしまった事を少し後悔しながら余ったタオルセットを見つめる。 (沙希さんにあげようかな) 「あら、こんにちは」 「明梨さん…こんにちは」 まだ玲司の帰り前だが明梨が訪ねて来た。いつも露出が高めなので目のやり場に困る。 「玲司が帰って来る前に夕食作っちゃおうと思って」 「そうなんですか、帰って来たら夕食が出来てるのは嬉しいと思います」 「こう見えて料理は得意なの、ネイルしててもお米は専用のヘラで研げるのよ」 サロン行きたてのネイルを見せてクスクス笑う明梨。 「玲司さんとは、付き合ってからもう長いんですか?」 「そうね、3ヶ月くらいかな」 3ヶ月は長いのだろうか。疑問に思ったが、とりあえず頷いておく。 「玲司さん優しいしカッコいいから、明梨さんとお似合いですね」 「そう?ありがとう、彼って優しいと言うか私のおねだりに弱いのよね…行きたいとか、欲しいとか、食べたいとか言えば大体は叶えてくれるの!この間も私がおねだりして人気のレストランで食事したんだけど、そこの料理の写真をアップしたらアクセス数がすごくて、グッド♡の数も300を超えたのよ!…でも玲司って写真嫌いなの、絶対撮らせてくれないからいつも料理と私の写真になっちゃう…本当はツーショットを載せたいのに」 「…グッド?あ、SNSの話ですか?世間ではみんなやってるみたいですね、俺はそういうのに疎くて」 「私MEMOM(メモム)っていうSNSでフォロワーが1000人以上居るの、だから写真映えには気を遣うのよ…玲司って知名度のあるトリマーでしょ?写真撮らせてくれれば絶対にグッド♡も伸びるのに…あ!見て!これが私のページ」 スマホで自身がアップした写真の並ぶSNSのマイページを見せて来る明梨。そこにはスタンプや文字で可愛く加工を施されたハイブランドのプレゼントや、いかにも高そうな料理、手作りのお菓子などが明梨の笑顔と共に載っていた。コメントには羨む声が多い。 「はぁ…すごいですね」 開始日は数年前のようだ。驚く事に写真を遡ると歴代の彼氏とのツーショットも残っている。バンドマン、医者の卵、スポーツジムのトレーナー。タイプに統一性は無さそうだが共通点はあった。容姿が優れている所謂イケメンである事だ。 「元カレの写真は消したいんだけど、せっかくグッド♡くれたフォロワーさんに悪いから」 そう言う声に消したい意思は感じられない。恋人ですらグッド♡の糧のようだ。 「玲司さん、取材は店の宣伝の為に受けたんじゃ無いかな…まだ越して来て数日の俺が言うのもおかしいけど、自分から目立って人気者になりたいって人じゃ無いような気がします、不本意に知名度上がっちゃったみたいな言い方してたし」 「どうして?誰でも人気者にはなりたいでしょー?」 「あはは…その辺りの価値観は人によるから何とも言えないです」 「ねぇ見て見て、これ上の階の人!もうすっごくカッコよくてビックリしちゃった!そこのカフェでみんなで食事した時に会って撮らせてもらったの!グッド♡の数も上位に入ってるのよ」 「あ、ああ…善さんですよね、男の俺から見てもかっこいいと思います…わぁ、慣れてる…」 善が明梨との自撮りに応えた写真。明梨や料理を差し置いて善は完璧に写真の主役を奪っていた。写真慣れの格が違う。ただ、初対面の写真に「友達とお食事」と書かれているのには違和感を覚える。明梨は高評価の写真を自慢するのが楽しくて仕方がない様子で、思ったより長く引き止められてしまった。尽きない自慢話に少し聞き疲れてしまう程だ。 「よく見たら、あなたも美形ね」 「う…そんな事ないですよ、俺も写真はちょっと苦手で」 写真を撮ろうと言われそうな空気を読んで首を横に振るとあからさまに残念そうな顔をされる。 「そう…あ!ねぇ、MEMOMのこと分かったでしょ?登録したら絶対フォローしてね!友達にも薦めて」 「はぁ、はい…」 最後にはSNSの登録を薦められ、いつも持ち歩いているのかハート型の付箋にマイページのIDまで書いて渡された。満足したのかやっと玲司の部屋に入って行った明梨に笑武は写真を撮られずに済んで胸を撫で下ろす。付箋は一応受け取ったが、登録しようとは思わなかった。 (自分のことが無差別に知られるの…怖くないのかな) はぁ、と疲労から出た溜め息。 明梨との会話に付き合うのに必死で、不審な男の存在はすっかり忘れ去られていた。 笑武が部屋に戻り、再び無人となった1階の通路。1-D号室のドアが外の様子を窺うように僅かに開いて、しばらくののち静かに閉じた。 その日の深夜。笑武の部屋の裏側になる駐車場の方から誰かの足音が聞こえた。忍ぶようにゆっくり歩いているようだが、深夜の静けさの中では音は隠しきれない。耳障りで一瞬、目が覚めてしまう。 (んん?…誰だろう) そうは思ったが体が疲れていた為、睡魔に抗えずそのまま目を閉じる。 「どこだ」 夢か、空耳か。低い男の声で、そう呟く声が聞こえた気がした。

ともだちにシェアしよう!