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第4話 誰の敵ですか?
翌朝。昨日と同じ時間に出勤前のビズ組とエントランスで遭遇した笑武は昨夜の足音について尋ねてみた。朔未も玲司も1階の住人だ。2人も足音を聞いているかもしれないと思ったのだ。
「足音ですか?いえ、俺は気がつきませんでした…すみません、眠りは深い方なんです」
「俺も聞いてねぇな…気のせいじゃねぇか?」
「そう、ですか…俺の部屋、真ん中だから両隣の2人が聞いていないなら間違いだったのかも」
「ふふ、笑武くん新生活の疲れが出て来たんじゃないですか?」
「ですかね…あはは、すみません」
「それに駐車場側にはバルコニーがあります…かなり近くを歩かないと足音は聞こえないと思いますよ」
話していると2階から眠そうにしながら沙希が階段を下りて来た。
「ん~…眠ぃ」
デジャヴの光景。しかし昨日は明梨が来ていたので沙希は玲司の部屋には行っていなかったようだ。
「おはよう、沙希さん…今日も眠そうだね」
「はよー…1階住みが揃ってなに話してんの?」
「揃ってはねぇだろ」
「Dはそもそも集まらないじゃん」
「笑武くんが、夜中に足音を聞いたそうなんです」
「でも俺の気のせいだったみたいで…」
「足音?…あぁー…俺も聞いたかも、昨日じゃなくて先週だけど」
「「え?!」」
「それは初耳だな、俺の部屋に泊まった時か?」
「うん、そう…笑武の部屋ってさ、窓側にベッドあるじゃん?玲司の部屋は壁際にベッドで窓側にソファがあるからさ…ソファで寝ててギリ聞こえるくらいだし玲司には聞こえてないと思うけど…なんで?」
「そりゃあ、夜中に足音がしたら気になるよ」
「あはっ、何?笑武ビビったの?俺は善が煙草でも吸いに行ったんだと思って気にしなかったけど…」
「善さん…だったのかな」
「善くん昨日はお休みだったんでしょうか…夜はお仕事で留守だと思うんですが」
「あ!そうだ…」
笑武はスマホを操作して善の出勤情報を確認する。
(確かrosierの夕さん…)
検索するとすぐに出て来た。まさかホストクラブのホームページを閲覧する日が来るとは。ド派手な装飾の店内と特有の料金システム、所属ホストの写真に画面越しでも目が眩みそうだ。
「俺も見たい!…うわ、やば!シャンデリア!どこの城だよ!しかもあいつNo.2じゃん!」
笑武のスマホを覗き込む沙希の後ろ襟を掴んで引き離す玲司。
「善さん、昨日も仕事だったみたいです」
「え…マジ?じゃあ誰が夜中に駐車場なんか歩いてんの」
「俺、なんだか少し怖くなって来ました」
「俺も」
体を温めるように自らの腕を摩る朔未。笑武は足音を思い出して身震いする。
「あは…そんなん、誰かが昼間に落とし物でもして、探してるだけかもしれないじゃんね…」
先程まで呑気に構えていた沙希までもが声音に動揺を滲ませていた。
「何にせよすぐ確認できる事じゃねぇよ、そろそろ出発の時間だ…行くぞ」
「玲司くんは怖くないんですか?」
「気にはなるけどな…念の為、防犯しとけよ…沙希、次に気付いたら夜中でもいいから起こせ、見て来てやるから」
「「玲司くん(さん)」」
目をうるうるさせて期待の眼差しを送る笑武と朔未。
「その目やめろ…お前らチワワか」
足音だけで睡眠妨害の他に被害はない。全員の気掛かりにはなったが一旦、保留にする事にした。
アーチに「霧ノ堀 」と書かれた古い商店街。真ん中に小さな川が流れる昭和レトロな景観の商店街だ。昼間はシャッター街と化していて人通りも疎らだが、その一角にはひとたび夜になれば賑やかに人々が寄ってくる、夜行性の通りがある。
夜に開店し、深夜や早朝に閉店する店が密集する歓楽街。その中でも高ランクのホストクラブrosier。
ビルの1階から3階まで展開する人気店だ。
代表ホスト達のパネルが並ぶ入口。LEDの星に導かれるように煌びやかな扉を開けると現れるブラックホール。壁には淡く発光する稲妻の演出。月明かりに似たシャンデリアがいくつも天井から吊り下がり。各席の白いテーブルを照らしている。壁にはカラオケ用の大きなモニター。待機のホスト達に出迎えられてボーイの案内で青のレザーソファに腰掛ければ客は姫に早変わり。一夜のシンデレラにでもなったような気分に浸れるだろう。
1階と2階はオープンフロア。3階は個室となっている。4階は店舗ではないがスタッフの更衣室として使っている部屋がある。
閉店後の店内で掃除を終えたボーイ達。店長は売り上げの計算に忙しそうだ。待機用のテーブルでは新人のホストがひとり居残り白紙の名刺に手書きで名前を書くという作業に追われていた。まともな名刺を作ってもらえるのは、研修期間を終えたホストだけ。それくらい短期で辞める者も多い。
「夕さん、お疲れ様です!」
「うん、お疲れ…車待たせて」
「もちろんです!どうぞ!」
車も運転手も限りがある為、送りは行く方面によって相乗りする事がほとんどだ。夕は特に帰りを急がない為、いつも後回しでいいと申し出て待機席で一服する事にしている。善が隣に座って煙草を咥えると新人はすぐ灰皿を用意し、煙草の先端でライターの火をつけた。
「…火は自分の前でつけてからゲストの方に持っていこうか」
「え?!」
煙草を咥えたまま善はライターを手に取ると新人の顔の前で火をつけて見せる。びくっと驚いた新人が身を引いた。
「顔の前で火をつけると驚くし、危ないからね…」
「はい!すみません、気をつけます!」
新人に世話を焼く善の向かいにもう1人、ホストが腰掛ける。白金色の前髪を上げたショートウルフがホストらしい色黒の男。ワインレッドの目に裏地が豹柄という派手な黒い上着。スーツも黒のせいかどこか悪の雰囲気を纏っている。
「No.2がしたっぱのお守りか?夕」
「っと…No.1のお出ましだ」
「お疲れ様です!皇 さん!」
皇。パネルでも代表として大きく飾られているrosierのNo.1だ。名前に合う皇帝のような威圧感。
この皇帝に愛でられたい客達は献上品のように金やプレゼントを落としていく。善と皇は飴と鞭。
それぞれが担当する客のタイプは真逆が多い。
「おい」
「はい!」
皇も煙草を取り出す。新人は皇の隣まで移動して先ほど善に言われた通り手元で火をつけてから皇の煙草に近づけた。
「連休中は新規 が多かったな」
「そうだね、向かいの改装も影響してると思うよ」
近所の競合店の改装工事。本来は連休前にリニューアルオープン予定だったが、荒天の影響でずれ込んだらしい。そのおかげか指名をもたない新規の客が流れて来てrosierは盛況だった。
「ハッ、連休に店が開けられねぇのは、ついてねーとしか言えんな…おい、したっぱ…何黙ってんだ?ゲストを楽しませる話題を振ってみろ」
「っ?!…話題ですか!…話題…話題」
急に接客を迫られて新人が慌てふためく。No.1とNo.2が居るだけで緊張は上限を振り切っている。頭の中が真っ白のようだ。話題、としか口から出てこない。
「はぁ…俺がゲストなら、ここでチェックだ」
チェック。会計を意味する。
「女装クラブ!」
「あ?」
「霧ノ堀に、女装クラブが出来たんですよ!……珍しく、ないですか?」
窮地の新人が捻り出したのは少し前にオープンした新店の情報だった。
「霧ノ堀では珍しいね、競合店になるのかな…一応」
「ゲストの色が違いすぎるだろ、視察するまでもねえよ」
「すみません…」
大した話題にならなかった事で新人は意気消沈してしまった。
「夕なら行っても楽しめるんじゃねえか?女も男もイケるんだ、女男でも問題ないだろ」
そう言って皇は鼻で笑う。
「俺は皇と違って好き嫌いが無いからね、ゲストも選ばないし」
指名の無いフリーの客への割り振りは回し役と呼ばれるボーイが行う。基本的なシステムは簡単だ。1セット60分。指名をしなければ20分でホストが交代して3人の接待を受けられる。客もホストを選べなければ、ホストも客を選べない。しかし皇はNo.1の地位を利用して金払いの良さそうな客を優先的に回してもらうのだ。そして、付いた客からは高確率で指名を取る。結果を出すので、店長も大目に見ているのだろう。そうする事で皇と話すには安くない指名料を払う必要が出てくる。指名料を払って皇と話せる権利を得ても、指名が被ればヘルプが入り話す時間は少なくなる。限られたセット時間。少しでも長く皇と話したい客は延長と指名料という課金ループに陥り太客になっていく。良く出来たアリ地獄だ。
「でも皇さん、そこのサクラちゃんマジ可愛いんですよ」
「何?お前、行って来たのか?」
「…き、興味本位で1回だけ」
指で1を作る新人に信じられないと首を横に振って煙草を灰皿に押し付ける皇。2本目を取り出した所へすかさず新人が火を持って行く。
「最近は此処らもバラエティ豊かになったな」
「廃れて行くよりは良いと思うけど」
「それは違いねえ…ただコイツみたいに興味で店選ぶ客も居るだろうよ、張りぼてに客が流れねえと良いけどな」
「話のネタに行くならホストクラブより女装クラブ…か」
「ずっと王道を歩いていると、たまには逸れてみたくなるもんだろ…人の心理ってのは」
「フッ、いつから心理学者になったんだ?」
皇と善は軽口で互いに嫌味を含んで話してはいるが、喧嘩ではない。仲は悪くないが、特段よくも無い。あくまで仕事仲間を超えない関係だ。互いを店を支える柱だと認めているからこそ閉店後にこうして店の運営について話し合うのが日課になっている。善は煙草を灰皿で揉み消してスマホに持ち替えた。
2人の仕事用のスマホには現在進行形で客からのメッセージ通知が届き続けている。店が閉まって朝が来ても、夢から覚めたくない客達。それら全てに「今夜も会いたい」と営業の返信をする。次も来てもらう為に必要な作業だ。
新人は白紙名刺のストック横にある、客が持ち帰らずに置いて行った名刺の束を手に取り自分の名刺を回収する。
「…おい」
渡した名刺の半分は戻って来ていた。それを見て落胆し、気が抜けていた新人に皇の鋭い声と視線が刺さる。ライター片手に振り向いたが、まだ煙草は煙を燻らせていた。皇の短気を知っている新人は抜けていた気を張り巡らせて何をすべきかを探す。
焦りから忙しく泳ぐ視線。その間にも皇の眉間には不機嫌の値を示すかのように皺が寄る。
「あ、あの…」
何をすれば良いですか?と聞けば皇の短い気が切れてしまいそうだ。必死にするべき事を探していると善と目が合う。善は無言で合わせた視線を一瞬だけ灰皿へと移した。そこには吸い殻が2本。ハッして手早く灰皿を取り替える新人。
吸い殻は、1本~2本で灰皿交換。それが基本だ。皇の眉間から皺が消えた。
「夕さん、お待たせしました!送り行けます」
車を回して来たボーイが迎えに来た。
「お先」
「ああ」
席を立って店を出た善を追いかけて来た新人が小声で礼を言う。
「夕さん…さっき、ありがとうございました…俺…緊張すると何も考えられなくて、周りも見えなくなるんです…これじゃ、指名取れなくて当然ですね」
「笑って」
「え…」
「見送りはその日、ゲストの記憶に残る最後の顔になる…そんな暗い顔で見送られたら、楽しくなかったのかと思われるよ」
「はい!すみません!お疲れ様です、また今夜…」
言われた通りに笑顔で挨拶する新人。
「よく出来ました…おやすみ」
「おやすみなさい」
朝は、夢が眠る時間。夢を見せる仕事人も現実へと帰って行く。
平日の昼間でも安定の集客率があるのは街一番の大型ショッピングモール Biz Fest だ。
2階建ての本館とペットショップや動物病院の入る別館。その店舗数は合わせて200店舗を超える。この煽りを受けて霧ノ堀を含む商店街から活気が落ち込んで行ったのは致し方が無い結果だろう。
規模は全国的にも最大級。商店街には無い映画館やゲームセンター。フィットネスクラブやサロン、車の販売店まである。休日には駐車場の一角にあるイベントスペースで物産展やサーカスが開催され大賑わいだ。
本館2階のメイン通路最奥にある書店。『知多 書房』。朔未の勤務先である。
制服のデニム生地エプロンが妙に似合う朔未。本屋なのにキッチンに立っている新妻にも見えてくる。その姿に釘付けになる男性客は少なくない。
「あの子、すげー可愛いな」
「諦めろよ、絶対彼氏いるって」
そんな見当違いな会話も聞こえるほどだ。
「穂高君、明日の入荷リストを印刷しているなら、ついでに在庫照会お願いしてもいい?無ければ取り寄せるわ」
「はい、分かりました」
「「男ぉ?!」」
同じくらい朔未が男性だと分かった時の男性客の嘆きも聞こえる。
「ふふ、またガッカリさせちゃいましたね」
「穂高君、女の私より可愛いから仕方がないわよ」
長い黒髪を後ろで束ねた厚い眼鏡の女性スタッフが慣れたように返す。グレー色の体型が隠れるチュニックに黒いパンツという地味な服装。エプロンが無ければモノクロになってしまう。名札には白石 と書かれている。
「そんな事あり得ませんよ、白石さんの方が可愛いです…在庫0ですね、取り寄せ対応になります」
フロアの作業台にあるパソコンでメモに書かれた書籍の在庫確認をして、そのまま商品コードをコピーすると取り寄せ伝票をすぐ作れるように準備画面まで開く朔未。
「ありがとう、後はやっておくから作業に戻って」
「お願いします」
近くで新刊の在庫分を片付けている朔未に取り寄せ伝票を作りながら白石は続けた。
「私を可愛いなんて言う人は、穂高君くらいよ…親にも言われた事ないわ」
「言わなくても思ってるんですよ、みんな照れ屋さんですね」
「穂高君は毎日、言われてそうね」
その言葉に、朔未の脳裏に善が浮かぶ。確かに『朔ちゃん、今日も可愛いね』と、顔を合わせば言われている。
「そうですね…でも、彼の場合は職業病ですよ、ホストですから」
「ホストに毎日可愛いって言われてるの?!」
つい声が大きくなり、口を押さえる白石。
(どう言う事?穂高君は毎日ホストクラブに行くの?夜のお店に行くタイプには見えないけど…行くにしても、ホストクラブ?キャバクラじゃなくて?)
「そう言うのは、お店の中だけにして下さいと言っているんですが…どうしても出ちゃうみたいで」
(お店の外で会っているということ?)
白石は作り終えた伝票のデータをプリンターに送信しながら平然を装って相槌を打った。
「そ、そう…もしかして、いつも送り迎えしてくれてるのって…そのホストの彼なの?」
「ふふ、それは無理ですよ…俺が出かける頃に彼は帰って来ますし、お酒が抜けない内は運転できませんからね」
(ど、ど、どういう事?何で帰宅時間を知っているの…まさか一緒に住んでいる?!)
「送迎は別館のペットショップでトリマーやってる玲司くんに甘えてます」
「え!それって…この雑誌に載ってた人?」
作業台の引き出しから雑誌のバックナンバーを取り出す白石。確かにそれはペット業界の特集を組んだ雑誌の地域版で、玲司が載っているナンバーだった。
「それです…あれ?その雑誌、バックナンバーですよね…返本し忘れですか?」
「これは私の私物だから良いのよ…か、勘違いしないで!Biz Festが載ってるから問い合わせが多くて、おすすめPOPも付けていたから参考までに置いてるのよ」
「そうなんですね、やっぱり俺も買えば良かったなぁ…玲司くんが必要もないのに買うなって怒るんですよ…きっと彼も照れ屋さんなんですね…あ!内緒で取り寄せちゃいましょうか」
ふふふ、と悪巧みを思いついたように笑う朔未。
「じゃあ、いつも彼と一緒に通勤してるの?」
「そうですね、たまに玲司くんが休みで俺が仕事の時は仕方なくバスを使いますよ…でも、朝のバスは混んでいて、通勤だけで疲れてしまいます…玲司くんが居てくれて良かった、休みの日でも都合が合えば車出してくれますし…時間潰しにも付き合ってもらえますし」
(それ完全にアッシーじゃない!ホストと同棲してイケメントリマーをアッシーにしていると言うの?!)
印刷された取り寄せ伝票をチェックしながら白石は少し震え声で呟く。
「良いわね、私は男の人の車に乗った事もないわ」
「はい、女性は無闇に乗っちゃ駄目ですよ」
そう言うと朔未は入荷したばかりのファッション雑誌に別便で届いた付録のランチトートを挟みシュリンクを掛け始めた。最近の雑誌は大きな付録も多いため、本と付録が別々で届き本屋でセットするという流れになっている。
「その付録のランチトート可愛いわね」
「そうですね、このくらいのサイズは使い勝手が良いと思います…作ってもらおうかな」
朔未は確かに「買おうかな」ではなく「作ってもらおうかな」と言った。
伝票の店舗控えを取りながら念の為、聞き直す。
「え?作ってもらう?…お母さんに?」
成人男性が母親にランチトートを作って欲しいと頼むのは些かマザーコンプレックス気味ではないだろうか。それとも、そうなのだろうか。
疑い見る白石に朔未は驚いたように目を丸くして、そして破顔した。
「え?ふふっ、違いますよ…幼なじみにです」
「幼なじみ…あ、なるほど、裁縫が得意な子が知り合いに居るのね」
それを聞いて白石が思い描いた朔未の幼なじみのイメージは家庭的な女性だ。しかしそれは一瞬で否定される。
「ええ、得意というか、彼はプロですから」
(ん?彼?)
「…ホストの?トリマーの?」
「あはは、もう笑わせないで下さい…幼なじみは物作りのプロ、クリエイターですよ…本人は物作り屋さんって言ってます」
(また新しい彼が登場したわ!)
「本当に器用なんです…服のボタンを付け直してくれたり、家具を組み立ててくれたり、手料理を作ってくれたり…いつも頼りにしてます」
(同棲中のホストに毎日可愛いと言われて、イケメントリマーの送迎で通勤して、身の回りの世話をしてくれる執事みたいな幼なじみが居るなんて!そんなの少女漫画のヒロインしか経験できないシチュエーションじゃない…穂高君、あなたって)
「女だったら、女の敵だわ…」
「え!」
朔未は男性だが、白石から向けられたのは紛れもなく嫉妬のオーラだった。意味が分からず朔未は眉尻を下げた。完成した取寄せの引き換え伝票を客に渡し終えて戻ってきた白石は咳払いをする。
「でも、穂高君は男性だから気にしなくて良いと思う」
「…そうなんですか」
「ねぇねぇ!白石さん、穂高君!見て見て!あのお客さん、モデルかな?めっちゃカッコイイ~」
「仕事中よ、よそ見してる暇があるなら取り寄せが入ったから発注お願い」
「え~、は~い」
ハイテンションで寄ってきた後輩の女性スタッフに発注を任せると、呆れから溜め息を吐いて女性スタッフが熱視線を送っていた方を見る白石。
「まったく…お客様を何だと思って……はぅ!!」
店内を見渡して何かを探している様子の客は女性スタッフのテンションが上がるのも納得の人物、沙希だった。白石の目には瞬時にキラキラと輝くフィルターがかかり、沙希の周りだけ眩しく映る。
「あれ?沙希くん?」
「あ!居たし!なぁ週刊少年ワンデーの最新号、入荷してる?店長にパシられたぁ」
愚痴を零しながら、見つけた朔未の方に歩み寄って行く沙希を目で追いかける白石。
「えぇ?入ってたと思いますけど…沙希くんの所はオヤツだけじゃなくて漫画もOKなんですか?」
「そ、いつもは出勤前にコンビニで買って来るのに、今日に限って忘れたらしくて休憩時間まで待てないんだってさ…朝から続きが気になって仕事にならないって、ちょーうるせーの」
「それは大変ですね…ちょっと待っていて下さい、取ってきます」
シュリンクを中断して新刊売り場に週刊少年ワンデーを取りに行く朔未。その間に沙希は作業台にあった雑誌をペラペラとめくる。
(あ、あれは私の…)
「…優しい顔してんじゃん」
玲司のページを開いて、トリミング中の犬に向けられた優しい表情の写真にそっと触れる。表情が移ったように微笑む沙希にずっと見ていた白石はハートを撃ち抜かれた。
「沙希くん、ありましたよ!」
「さんきゅー」
「ふふ、ではまた帰りに…店長さんにお買い上げありがとうございますって伝えて下さいね」
「忘れなかったら言っとくー」
「もう…それは言わないつもりですね」
「分かってんじゃん」
雑誌を閉じて朔未から漫画を受け取るとレジの方に立ち去る沙希。それを見計らって戻ってきた白石は作業台の上に放置していた雑誌を素早く胸に抱え込む。
「これは持ち帰る事にするわ」
「あ、白石さん…すみません、沙希くんが勝手に読んでいたみたいで」
「い、いいのよ…か、彼も穂高君のお友達?Biz Festで働いているの?どんな人?かの…ッ」
(いけない!いきなり彼女はいるの?なんて、聞けないわ)
「はい、彼とも一緒に通勤してますから…でも、お友達と言うと怒られるかもしれませんね…最近の彼はとても楽しそうです、生活リズムが改善されて以前にも増して美人さんになりましたし…まだ朝に起きるのが苦手みたいですけど、お仕事も頑張ってますよ」
(イケメントリマーの運転で、彼と一緒に通勤?友達ではない関係?朝、起きるのが苦手なのを知っているのは何故?)
「ふふ…月の半分くらい寝泊まりしていて朝も起こして欲しいなら、いっそ一緒に住んでしまうのはどうでしょう、と思うんですが…そこは違うみたいです」
(月の、半分…寝泊まりしている?!ホストの居ない間に…?!)
ガーン!というショック音と共に魂が抜けた様な白石。彼女の頭の中では朝起きられない沙希を新婚さながら優しく起こす朔未の図が出来上がっていた。今なら白石にも朔未のエプロン姿が新妻に見える。
「…白石さん?どうかしましたが、顔色が悪いようですが」
「穂高君…あなたはやっぱり、女の…いいえ、私の敵だわ」
「…はい?今、何て」
「なんでもない…雑誌、片付けてくる」
ふらふらと雑誌を抱えたままスタッフルームへと消えて行く白石を心配そうに見送る朔未。登場した彼達が全員同じマンションの住人であるという大前提の説明をしていない事で、あらぬ誤解を次々と重ねて招いた事には勿論気付いていない。自分の中では分かっている為か「誰が」「誰と」を省いてしまったのも誤解を大きくした一因だろう。
「発注終わったよ〜、あれ?白石さんは?」
「スタッフルームです、なんだか元気がないようで…心配ですね」
その原因が自分にあるとは知らず、一方的に心配する朔未。
連休明けの平日。いつもの日常は平穏に過ぎていった。
いつもの日常を平穏に過ごせる。それはとても幸運な事だ。当たり前に訪れる明日も必ず平穏であるとは限らない。それは予知も出来ない、だから人々は願うしかない。
明日も、良い日でありますように。
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