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第5話 いい夢を
「足音?気のせいでない?」
仕事終わりに預けていたグレーのコートを引き取る為、透流の部屋を訪れた朔未は昨日笑武から聞いた足音の話を持ち出していた。
「でも、沙希くんも聞いたそうなんです…昨夜は怖くて電気をつけたまま寝ました」
「あれまぁ…じゃあ暫くはコッチに居るから、どうしても怖かったら上がっておいで」
透流は工房とHeimWaldを行き来しているのでいつも居るとは限らない。訪ねる時はどちらに居るか事前に確認を取るのが賢いだろう。
原木の素材をそのまま活かしたローテーブルに2人分のコーヒーが運ばれて来る。マウルモザイク柄のカップがおしゃれだ。
「透流くんの部屋は、別の意味で怖いです…あれとか」
「はは、ただの収納ケースよ?あれ…サクミンくらいのサイズなら入りそうだけど」
朔未が指差した先にある収納ケースはエジプトの棺に酷似していた。開けたらミイラでも出てきそうだ。
「俺を収納しようとしないでくださいっ…そういえば工房の柱もエジプトっぽいですよね、好きなんですか?」
「いんや?国に好き嫌いはないよ…確かに工房の円柱はナツメヤシの絵が描いてあるからエジプトっぽいけども…あの柱脚から植物が生えてくる感じが気に入ってるだけ」
「はぁ…俺にはよく分からないけど、とにかく透流くんの部屋や工房は世界が1つの空間にギュッと詰まってる感じですね…あと、やっぱりあれが怖いです」
再び棺の収納ケースを指差す朔未。
「だから収納ケースだって…入れるか試してみる?」
「うう…何ですぐ俺を入れようとするんですか」
「冗談冗談…別に国とか物とかに拘りは無いのよ俺…興味あるのは使われてる装飾だけ…オーギュストラシネとか見てるだけで1日過ごせる自信あるからねえ、俺」
「おーぎゅ…す?」
「ああ、そうか…えーとね…ペルシア絨毯の装飾くらいは想像できる?なんとなく、ああいうのが好きなんだと思ってもらえれば充分かな」
「ええ、それならなんとなくは…そう言えば一緒に俺の部屋の家具を買いに行った時も、透流くんは絨毯のデザインを熱心に見てましたよね…ついに絨毯で空を飛ぶのかと思いました」
「いつか飛べるみたいに言わんでくれる?」
朔未はクスクスと笑ってコーヒーに口をつけた。
「美味しい…どこのコーヒーですか?」
「チコリコーヒー…俺のは豆乳でラテにしてあるけど」
「チコリ?可愛い名前ですね…あ、でも透流くんはハーブティー派じゃなかったですか?俺に合わせてくれなくても良かったのに」
「ははっ…今更サクミンに気を遣うつもりはないなぁ…これはチコリの根っこをローストして作ってあるコーヒーだから、ハーブティーと同じだよ…コーヒーの代用品として飲まれてるらしいから、コーヒー好きなサクミンに飲ませてみたくなってね」
「じゃあ…コーヒーだけど、コーヒーじゃないんですか?」
「うん、コーヒーは使われてないね、でもってカフェインレス」
「飲ませてみたくなったっていう所が引っかかりますが…美味しいです、ありがとうございます」
「口に合ったなら良かった」
「コートもありがとうございました、これで冬を乗り切れます」
ボタンが直ったコートが紙袋に入れて傍に置かれている。
「ああ、うん、いい手休めになったよ」
その時、雨粒が窓を叩く音がした。天気予報でも夕方から雨となっていたので驚きはない。
「雨、降ってきちゃいましたね」
「明日の朝方まで降るみたいよ、特に夜中にかけてがピークで強く降るってさ」
「雨は平気ですけど、雷は未だに苦手です」
「俺は昔から平気だったなぁ…寧ろ雷が鳴ると窓の外を見に行く子供だったよ」
「俺は怖くて布団を被ってました」
最初はぽつぽつと窓を叩いていた雨粒は次第にザーザーとノイズを奏で始める。空には真っ黒な雲が広がって、いつもの同じ時間より明るさも暖かさも感じられない。生活音は雨音に掻き消されていった。
窓の外を眺めて目を細める透流。
「誰も、降られてないと良いけどねぇ」
雨の夜でも霧ノ堀は屋根がある為、客足に大きな影響は無い。
「皇様ー、会いたかったですー」
「おう、濡れなかったか」
rosierは一度店が開けば常に席が埋まり、回し役が必要な状態になる。人気のホスト達には太客が必ず居るので同伴して来るか、開店と同時に来るか、どちらかですぐに指名が入り、開店と同時に新規につく事は殆ど無い。
「ちょっと濡れちゃったかもー、胸とか」
大きな胸の谷間を強調する客。ボーイがすぐにタオルを差し出した。店内では客との過度な触れ合いは禁止されている。例えば客が身体に触れるよう求めたり、キスを迫ればボーイが止めに入る。無論それはホスト側にも教育されていて接客にはプロとしての節度が求められるのだ。個室もドアはガラス戸で目を盗む事は出来ない。
ただし、それらは全て店内での規則だ。
「角のテーブル行こうか、手前の女性は新規、奥の女性は夕さん指名…手前について」
ホストを回す時、ボーイは必ず指名を教える。原則として、指名ホストの居る客には名刺を渡してはいけない。その行為は、指名を奪おうとしたと解釈され揉め事の原因になるからだ。逆に、新規の客に付いたら必ず最初に名刺を渡す。それを怠るとチェックされ、新規に回され難くなってしまうのだ。
指名を取るには新規につく事。つまり、名刺は常に切らしてはいけないホストの重要アイテムだ。
「よろしくお願いします!」
新人ホストは指名の居ない手前の客についたので名刺を渡す。
「ねえ、貴方も飲みましょうよ」
「いいんですか!ありがとうございます!」
「可愛い~、新人みたいだし、今日だけでも指名してあげたら?」
「そうね、いいわよ、私にはウイスキーをロックでお願い」
「はい!ありがとうございます!」
既に何杯かウイスキーをロックで飲んでいる女性。相当、酒に強そうだ。
ホストはゲストに奢ってもらった酒を礼儀として飲み干す。rosierではゲストグラスが一部を除いて飲み放題なのに対してホストに奢る酒は別途有料だからだ。指名と同じく奢られる酒でもホストの手取りが増える。飲める方が稼げる仕事である事は間違い無い。
激しさを増してきた外の雨など気にも留めず、夢の世界は煌びやかに、華やかに時間を刻む。
「お待たせ」
「夕くーん♡」
奥の女性の元に善が来てヘルプのホストと交代する。
「昨日ぶりだね、でも昨日より可愛いよ」
「えー♡変わってないよー」
「変わってない?じゃあ、俺のチカちゃんを見る目が変わったのかな」
「チカの夕くんを見る目はいつもハートだよー♡」
「本当?よく見せて」
顔を覗き込まれて蕩けそうな表情のチカという女性に対して、手前の女性は相変わらず強い酒が進んでいた。ゲストのハイペースに釣られて、新人のホストの方が自分のペースを崩されている。
首元まで真っ赤で、明らかに無理をして飲んでいる状態だ。酔って頭が働かず、そのせいで会話もうまく繋げられない。結局、勧められるまま酒を飲むしか無くなる悪循環に陥っていた。
4人で会話をする間も、新人のホストは相槌が精一杯の様子だ。
2人は一度、延長して2セット目でチェック。席を立った。
「「ありがとうございました」」
「「またねー」」
出口で満足げな2人を笑顔で見送った直後、力尽きたようにフラつく新人を支えてエレベーターの方へ行くよう促す善。
「あの飲み方は無茶だよ、暫く上で休んでおいで」
「夕さん…俺、はじめて指名…もらいました」
「よく頑張ったね」
へら、と嬉しそうに笑ってエレベーターに乗った新人。善はすぐに次の指名客の元へと向かう。
それから数時間後、そのトラブルは起きた。
大人数のグループ客に指名でついていた為、皇と善が珍しく同じテーブルに居たのだが、ほぼ同時に異変に気付く。ボーイが店長に何かを耳打ちした。そして店長は苦虫を噛み潰したような顔で非常口の方へ消えていく。待機テーブルのホスト達がヒソヒソと何か話しているようだ。勿論、客はそんな事には気づいていない。有料メニューのチーズの盛り合わせやスナックも頼んで居酒屋のようなテーブルになっている。延長は確定だろう。
グループ客のチェックまで、それから約90分。深夜に差し掛かり、漸く人気ホスト達も少し休憩できる時間が挟めるようになってきた。
「一服して来る」
皇は待機席には戻らず煙草を手に移動した。営業中の喫煙は、客が許可すれば客席で。待機中はスナック等を作る厨房と手洗い場の間にあるスペースで見えないように吸う事になっている。
「皇さん、やっと一服ですね」
「おう」
厨房でポテトを揚げていたボーイが皇に話しかける。
「なんか陽太 さんと新人がトラブったみたいですよ」
「あ?陽太?今日はずっとテーブル付いてるじゃねぇか…あの客、たぶんラストまで居るぜ」
陽太。rosierのNo.3だ。歌がうまい為、カラオケ好きの太客を多数抱えている。月に何回かは開店から閉店まで延長と指名をオールで取り続ける実力派。今日も店内には陽太の歌声がよく聴こえていた。その名の通り太陽の様な明るい性格と整形やメイクで誇張した童顔で可愛い系を売りにしている。赤髪なのも名前を連想させて覚えやすい。名刺にも太陽柄を使用するなど売り込みが上手なホストだ。
「そうなんですよ、あのゲストに付くと陽太さん指名のゲストには必ずヘルプが必要になるので何人か回してたんですが…その内の1人が、ヘルプで付いたのに名刺を渡しちゃったみたいで」
「一体か?」
一体、一日体験の略だ。例えば未経験の一日体験者であれば、間違えて名刺を渡しても比較的穏便に済む事が多い。しかし在籍のホスト同士となると、揉める時は殴り合いにまで発展する。
「いや、先週入った新人…名前は、なんだったかな…俺は厨房に居たので…あ、さっき角のテーブルで夕さんと入ってた人です」
「ああ、昨日のしたっぱか…ボーイは指名ついてる事伝えたんだろうな」
「当然ですよ、酔っていて間違えたって言ってるみたいですけどね…相手にされなかったなら、まだ良かったんでしょうけど、可愛いって気に入られちゃって…そりゃあ陽太さんは黙ってないですよ、陽太さんがよく世話してる後輩たちが裏で扱いてます」
「ハッ…どうせ陽太に取り入ってお溢れ貰いたい奴らだろ」
「皇さんはハッキリ言いますね、だから友達少ないんですよ」
「テメ、誰にモノ言ってんだ?」
「あはは…すみません、でも本当に怖いのは陽太さんみたいなタイプかもしれませんね」
「…周り固めて自分の居心地良くするのも、手段の1つだろうよ…俺は使わねぇ手だけどな」
チカのように、指名している客が新規の客を連れてくる事がある。その時、指名を取っているホストと仲が良ければ同じテーブルに当たった時に新規の連れに指名を勧めてもらえるというメリットがあるのだ。代表ホストともあれば、そのチャンスも多い。しかし「客は自力で取れ」としている皇はそれを嫌う為、取り入る隙がない。逆に善は一緒になれば誰でも勧めてくれる為、取り入る必要がないのだ。
対して陽太は自分に媚び売る仲間にだけ指名を勧める。今回の引き金も、根本的な原因は陽太の立ち振る舞いだろう。しかし、それは規則違反でも何でもない。咎める事も出来ない。
「さっき店長が様子見に行きました」
同じ説明を待機テーブルで他のホストから聞いた善は直ぐに非常口に向かっていた。通常、ホストは出入りしない受付カウンターの裏側。カーテンの仕切りを開いて、裏路地に通じる非常口の扉を開ける。
「!!」
店内は防音で常に音楽や人の声が賑やかなため気付かなかったが雨はピークを迎えていた。土砂降りの荒天。雨が地面を叩きつけ、一歩でも外に出ればずぶ濡れになるレベルだ。
その雨の下、跳ね返りで溺れそうなほど地面に顔を近づけて土下座していたのは先程、休ませたはずの新人だった。周りには昨日書いたばかりの手書きの名刺が散乱している。長時間土下座させられて震える冷えきった体。周りには傘をさしたホストが数人が取り囲む。
開いた扉に振り向いた店長が、善にそれ以上出てこないようと手で制する。
「夕、濡れるからそっから先は出てくるなよ?」
店長は傘をさして傍観しているだけだ。
「これは、やり過ぎ…」
助けようと店長の手を払うと、今度は全身で立ち塞がれる。
「夕!濡れるって言ってるだろ…もうフロアに戻れ」
「夕…さん?」
土下座していた新人が顔をあげた。寒さと恐怖で唇が震えている。
「なに勝手に顔あげてるんだよ!」
ホストに怒鳴られて悲鳴を上げながら顔を下げる新人。
「本当に、間違えただけなんです!陽太さんのお客様、取ろうなんて思ってません!…すみませんでした…許してくださいっ」
「店長、止めてください」
「殴る蹴るは止めた、閉店まで土下座で許してやるって話になったんだ…あともう少しで終わる」
もう少しと言っても、早朝の閉店まであと2時間近く残っている。
「せめて、別日にしてやって下さい…こんな雨の中でやらせる事じゃない」
「頼むよ夕、飲み込んでくれ…お前と陽太が揉めたら内輪が面倒な事になる、しかも今日は陽太が1日指名取ってる…あいつを立ててやらないと…悪いな」
その時、空に雷鳴が轟く。地響きするほど大きな音だ。
「やだー!!助けて!!」
雷が怖いのか頭を抱える新人。他のホストは平気なようで空を見上げたりしている。
「夕、同じテーブルで指名だとよ…行くぞ」
皇が一服を終えて夕を呼びに来た。
「皇…だけど」
「オラ!何シケてんだ、それがNo.2のツラかよ…行くぞ…客だ!夕!」
善の襟を掴んで力づくで引き戻す皇。
「いやだ!夕さん…夕さん!助けてください…!夕さん!!」
雷鳴と雨音の中で助けを求めて泣き叫ぶ声。その声を断ち切るように店長が非常口を閉めた。
引き返そうとする善を掴んだ襟を手綱に壁に押しつけて止める皇。
「諦めろ」
「酷く酔っていたのは本当だし、結果的に指名変えは無かったんだ…それなのに」
「知ってる、お前が付いた時にはもう潰れる寸前だった…いよいよぶっ倒れるんじゃねえかと思って見てたからな…あいつのミスは名刺云々よりまずそれだ、自分の限界を越える飲み方…ゲストの前でみっともねぇ…それで自滅してりゃ世話ない、それまでだ」
「…それでも、あんな風に寄って集って追い詰めるのは間違ってる」
「弱い内は寄って集まるのも生き残る為の知恵だろ…はぐれたら、明日は我が身だ」
弱肉強食の群れ。一度、追い出されたら戻れない。そのトップクラスに立つ者たちは、甘くない現実を身に染みる程わかっている。最初からトップだった者は居ない。新人の頃からトップに昇り詰めるまでに、消えて行った人間を何人も見てきた。
客の争奪による喧嘩、見て呉れを着飾る為の借金。それはホストに限らない。家に帰る時間が減り家族を失った者、夢幻の恋を現実に求めてストーカーと化した者、アルコール中毒に陥って人が変わってしまった者。何かの拍子に『誰か』の良い夢が悪夢に変わり、1人また1人と闇夜に消えていく。
それなのに、今宵もシャンデリアの明かりを求めて人々は集まり、偽りの恋を虚じてみたり。酒にとことん酔ってみたり。平気で夢の一時は流れていくのだ。
「見捨てろと…」
「今に始まった事じゃねえだろ…言っとくがな、お前を止めても俺には何のメリットもねぇんだよ…手離すぞ」
押さえつけていた襟を離してフロアへと歩いていく皇。客か、新人か、足を向ける先が決まらない。
「…ここはゲストが夢を見に来る場所…俺達は、良い夢を見せるのが仕事」
自分に言い聞かせる様に呟いてカーテンを開く。見慣れた店内。楽しげな客達。指名客が手を振って「早く」と呼んでいる。
「おい…行けるんだろうな?」
「それは俺に聞いてる?だとしたら、愚問だ…ゲストが待ってる、早く行こう」
客を見た途端、いつもの優しい微笑みを貼り付けて颯爽とテーブルに向かう善に皇は鼻で笑った。
「本当に怖いのは、夕みたいなヤツだと俺は思うがな」
納得はしていないだろう。それでも感情のコントロールを簡単にして見せるNo.2。いつも優しいのは、他の感情を隠し慣れているからだ。
「夕くん、会いたかったぁ」
「俺も会いたかったよ…今日も可愛いね」
店内には、本日何度目かの陽太の歌声が響いていた。
2時間後。
いつものように車を待つ時間がある善は、非常口から裏路地に出た。
雨は止み、夜明けを知らせる陽がまだ残る雲の合間から差し込む。散乱していた名刺は既に片付けられ何事も無かったかのように夜が終わった。
「辞めたってよ」
煙草を咥えた皇が後ろから告げる。
「そう」
目を伏せて善も煙草を咥えると皇がライターに火を点けて差し出す。火を貰って、煙を肺の奥まで届ける。そうすると胸に突き刺さる痛みが麻痺していく気がするからだ。
朝早くから雨で汚れたHeimWaldの玄関扉を拭き掃除しているアスト。マンションのメンテナンスは管理人の仕事なのでやる必要は無いのだがアストは自主的にやっているのだ。布巾やバケツ、ゴム手袋といった掃除道具も自前である。
「うーん、迷いますね…ラズベリー、それとも」
掃除をしながらも、ぶつぶつと独り言を唱えている。考え事で気持ちは上の空のようだ。
そこへ、いつもより随分早く善の送迎車が停まる。既に車のナンバーまで覚えているアストは途端に身構えた。いつでも水を掛けれるようにバケツを持ち上げる。
「…今日は酔ってないよ、だからバケツは下ろそうか…アスちゃん」
車から降りながら、投降するように両手を上げて見せる善。それを見て、アストはバケツを下ろした。
「いいでしょう、そちらも手を下ろしてください」
「あ、忘れる所だった!…夕さん、これ店長から」
「ん?」
走り去る前に窓を開けてボーイが店長からの預かり物を手渡す。それはいつも善が吸っている煙草、1カートンだった。よく我慢できました、という慰めだろう。
「お疲れ様です」
走り去る車。煙草のカートンを握り潰しそうな善にアストは掃除を止めた。
「言い忘れました、おかえりなさい、お疲れ様です」
「…ただいま」
「今日は早いんですね、早退ですか?」
「大丈夫、送りの順番を早めにしてもらっただけだよ…そのおかげでアスちゃんに会えたから、たまには早く帰ってくるのも良いね」
「僕には良い事ではありません」
「あれ?…それじゃ、良い事を起こそうかな」
「何をする気ですか!」
再びバケツに手をかけたアストに善は東の方角を指差した。libertàを指しているようだ。
「目覚ましに付き合ってくれないかな、好きなもの頼んでいいよ」
「目覚まし?寝ないんですか?」
「たまには日光浴びないと…今夜は休みだし、もう少し起きてても大丈夫」
「お断りします、香水と煙草の匂いでせっかくの紅茶や料理が不味くなります」
「…そっか、残念だな」
その声音が酷く落ち込んで聞こえた。部屋に戻ろうとする善にアストは溜息を吐いて振り向く。
「今月からリベルタに期間限定のモーニングが始まったんです、掃除が終わったら行こうと思っていました」
「?」
「ラズベリーのフレンチトーストとかぼちゃのパンケーキです…どちらも捨てがたいと思いませんか?」
「…それは、どっちも美味しそうだね」
「僕もそう思います、どちらも食べたい…分かったらシャワーでも浴びて着替えてきて下さい」
「え…」
「香水と煙草の匂いを落として来て下さいと言っているんです…僕の方もあと少しかかりますから」
「!…うん、すぐ行ってくるよ、待っててアスちゃん」
落ち込んでいた声音が弾んだ。嬉しそうに微笑んで足早に部屋へと向かった背中を見送ってアストも掃除の続きを急いだ。
ひとつ予想外だったのは両方頼んでシェアするものだと思っていたモーニングメニューをアストが1人で両方食べるつもりだった事だ。善は終始、美味しそうにフレンチトーストとパンケーキを交互に頬張るアストをコーヒー片手に見守るだけだった。
「…はぁ、美味しい…一仕事終えた後の甘いものは最高です」
「俺も幸せそうなアスちゃんを見れて嬉しいよ」
「あなたは食べないんですか?」
「気にしないで、夜中に食べてるから」
「なるほど」
「ありがとう、アスちゃん」
「何がです?」
「おかげで目が覚めたから」
「そうでしたね、それは良かったです…まあ、たまになら、早く帰って来るのも良いんじゃ無いですか?たまになら、付き合いますよ」
強調される、たまになら。
「そうだね、雨上がりの朝は早く帰って来ようかな」
「それは多すぎます」
ビシッと言い切るアストに善は嬉しそうだ。
「アスちゃんのそういう所が好きだよ」
「僕はあなたのそういう所が嫌いです」
窓辺の席。穏やかな朝日が窓越しにテーブルを照らしている。見上げれば重い雲はほとんど去って、空は晴れを指名していた。
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