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第3話 前足調教
ぱちりと目を開くと、黒く塗りこめられた天井があった。見覚えのないそれに混乱し、手足を動かして起き上がろうとする。だけど、そこに体を支えるべき部分はない。
「そっか、もう手も足もないんだ……」
短くなってしまった手足を持ち上げ、ぽつりと言う。どうして僕がこんな目に。ただトラックに轢かれて死んだだけなのに。もしかしたらあのまま死んでいたほうが幸せだったかもしれない。
ぐるぐるとめぐる思考の中、僕はじわっと目に涙がたまっていくのを感じていた。
でもそのまま泣いてしまうのも嫌で、右手で涙をぬぐおうとした。ぎりぎり届いた肘関節が、ほんの少しだけ涙をぬぐう。
それがまた悲しくて、なんとか寝返りを打った僕は、枕に顔をうずめて、ぐすぐすと泣き始めた。
どれだけそうしていたのかは分からない。泣きつかれた僕は体を脱力させてそのままもう一度意識を手放そうとしたのだが――その瞬間に何度も響いたベルの音に、目を覚ました。
「えっ、な、何!?」
僕の質問に答えないまま、ベルは何度も鳴りつづけている。なんというか、アニメの中の貴族が執事を呼ぶときのあのベルのような音だ。
数十後、ベルの音は止まり、さらにその五分ほど後に部屋のドアからゲルートが入ってきた。
「ゲルート」
僕が名前を呼ぶと、彼はちょっとだけ黙った後、つま先でとんとんと床を鳴らした。
「調教の時間だ。ここに来い」
革手袋をはめた右手で床を指さす。寝転がった状態で困惑の目をゲルートに向けると、彼は固まった目元のままさらに告げた。
「いつまでも抱えてもらえると思ったか」
厳しい口調で言いながら、再び革靴のつま先で床を鳴らす。
「自分で降りろ」
それでも何をすればいいのか分からずに彼を見ていると、少し苛立たしそうに彼はベッドの脇を指さした。
「階段ならそこにある」
寝返りをうって覗き込むと、確かにそこには一段一段が大きい階段が設置されていた。これから降りるのか。視線でゲルートに尋ねると、彼は重ねて告げた。
「来い」
命令口調にちょっとムッとしたが、ここで反抗すればまた首輪に電流を流されてしまうだろう。僕は一念発起すると、短い手足で這いずって、階段に向かい合った。
階段の一段一段の高さはそう高くはなかった。でもやすやすと降りれるような高さでもなく、僕は勇気を出して一段目に足を踏み出した。
ほとんどずり落ちるような形で僕の体は床に近づいていく。やがて顔と肩をぶつけながら、僕は床に到達した。短い手足をゆっくりと動かし、胴体を引きずってようやく体全体が床にたどり着く。
顔を上げてゲルートを見たが、こちらに歩み寄ってくれる気配はない。僕は歯を食いしばると、そのまま数分はかけて這いずって彼の足元までたどり着いた。
彼の前に倒れ伏し、ぜえぜえと息をする。ゲルートは何も言わない。息を整え終わった僕は、それが怖くなって、彼を見上げておそるおそる尋ねた。
「あの、僕は何をすれば」
「歩行練習だ」
端的に彼は言う。
「お前もこのまま這いずることしかできないのは嫌だろう」
それもその通りだ。だけど、こんなに苦労させて這いずらせなくてもいいのに。
「訓練を始めるぞ。前足に力を入れろ」
ゲルートは僕の腕を指してそう言う。なんだ前足って。そんな言い方ないじゃないか。
「なんだその目は」
無感情に見下ろされ、僕は慌てて顔をそらす。駄目だ、今は逆らっちゃ。
僕は腕に力を籠め、ぐっと胸を持ち上げた。
「もっとだ」
彼はあっさりとした口調で無理難題を言う。意地になった僕はさらに力を籠めて、胴体をなんとか腕の力だけで持ち上げた。
「うぐ……」
「そう、上手だ」
唐突に褒められ、ちょっとだけ嬉しくなる。だがゲルートはその直後に再び無理難題を言った。
「後ろ足も立たせろ。腹と胸はつけるなよ」
当然そんな余裕なんてない。その感情をこめてゲルートを見るも、彼は相変わらず冷たい目でこちらを見るばかりだった。
どうやら僕がやらない限り、これは終わらないらしい。僕は覚悟を決め、太ももにぐっと力を籠めた。
「ぐぅ……」
腕に体重をかけながら、縫い合わされた傷口を下に持っていく。ほのかに痛む気がするが、気のせいかもしれない。
やっとのことで片足を立たせると、もう片方の足を持ち上げるのはまだマシな作業だった。
なんとか四つん這いの姿勢になった僕は、確認するようにゲルートを見上げる。
「それでいい」
どうやらお気に召したようだ。これで終わってくれるのか。脱力しようとしたその時、ゲルートは僕の首に繋がる糸を、何もないところから取り出した。
「そのまま歩け」
「……へ?」
「歩けと言っている。ほら、右足を動かしてみろ」
そんなの無理に決まっている。視線で助けを求めるも、ゲルートは首輪の糸を持って見下ろしてくるばかりだ。
やらなければ電流だ。僕は再び歯を食いしばると、右腕を動かして前に進もうとし始めた。
右、左、右、左。
確かめるように腕を動かし、足もなんとかそれに続いていく。スタート地点からたったの一メートル進むだけで僕はへばってしまい、その場に崩れ落ちそうになった。しかしその瞬間、首輪のひもが引かれ、僕の首には鋭い痛みが走る。
「止まるな」
「ぎぃっ」
無様な悲鳴とともに僕の体は床に崩れる。その痛みに泣いてしまいそうになりながらゲルートを見るも、彼の表情は変わらない。
「どうした。早くしろ」
痛いのは嫌だ。ここは従わなければ。
必死で起き上がり、再び前に進み始める。十数センチずつしか前に進めない僕の横を、ゲルートはゆっくりと歩いていた。
永遠にも思える時間が経ったころ、僕はようやく部屋の壁までたどり着き、そこで脱力した。
「も、もう、むり」
脂汗を垂らし、ぜえぜえと息をする僕を見下ろし、ゲルートは鼻を鳴らす。
「フン、体力が乏しいな」
まるきり他人事のように言うゲルートを睨みつける。だが彼は一切気にせずに恐ろしいことを言った。
「死ぬ気で体力をつけろ。さもないと……お客様に腹上死させられるぞ」
死ぬ。殺される。全身に震えが走った。
「気持ちいいまま死ねるのなら、そちらのほうが幸せかもしれないがな」
そうやって吐き捨てる彼を見て、僕はまた泣きたくなってしまった。一度で死ぬか、何百回で気持ちよく死ぬか、というのはこういう意味だったのだ。
最初は生きたいか死にたいか聞いてきたくせに、本当にずるい。
鼻をすする僕から視線をそらし、ゲルートは懐から懐中時計を取り出した。
「昼だな」
きょとんと目を丸くする。ゲルートは手にしていた糸をしゅるりと消した。
「餌の時間だ。お前も腹が空いてきたころだろう」
彼は部屋の隅に置いてあった戸棚から、そこの深い皿と食べ物らしき缶を取ってきた。きっとあれは食料だ。そういえばこの世界に来て以来、まともに食事をとっていない。僕は目を輝かせて彼を見た。
「その前におねだりだ」
彼は冷たく言う。僕は硬直した。
「餌が欲しいんだろう。だったらおねだりしてみろ、せいぜい可愛らしくな」
単調な声で見下したような内容をゲルートは口にする。そんな屈辱的なことはしたくない。だけど、一度意識してしまった空腹は徐々に耐えられないものになっていった。
数分の沈黙の後、僕は口を開く。
「ええと、ゲルート、」
「ご主人様だ」
僕の言葉を遮って、彼は言う。
「今から俺のことはご主人様と呼べ」
不服だ。でも従わないわけにはいかない。僕は顔を背けながら小声で言った。
「……ご主人様、ご飯をください」
「ご飯じゃない。餌だ」
ご主人様の次は餌? こんなのまるきりペット扱いじゃないか。
情けなさで泣きたくなりながら、目を潤ませて彼を見る。
「餓死したいのか? それなら止めはしないが」
ぎゅるると腹の音が鳴る。もう耐えられない。これ以上は本当に死んでしまう。僕はプライドを捨てて、やけくそに叫んだ。
「ごっ、ご主人様! 僕に餌をください! お願いします!」
ほとんど泣いている僕の目と、彼の目が合う。彼はほんの少し、口の端を持ち上げた。
「よろしい」
ゲルートは缶詰を開け、皿にひっくり返して出した。そのままそれを、這いつくばったままの僕の前に置く。
「食え」
当然、食べさせてくれるはずもない。僕はプライドを捨てたまま、顔を皿に突っ込んで、そこに入っている餌に口に含んだ。
あ、意外とおいしい。すごく食べやすくしたシーチキンみたいだ。
久々の食事に夢中になり、僕は口を押し付けるようにして、皿の中の肉を食べていった。やがてほとんどのシーチキンを食べ終えたころ、頭上で軽くため息を吐く音がした。
「こっちを向け」
何か悪いことをしただろうか。怯えながら僕が顔を上げると、ゲルートは清潔なハンカチを取り出して、僕の顔をぬぐってきた。
「もう少し綺麗に食え」
ワンテンポ置いて、汚れた顔をきれいにしてもらったのだと気づく。
「ありがとうございます……」
意外な行動に驚きながら素直に礼を言う。するとゲルートはほんの少し目を細めて僕を睨みつけてきた。
「ご主人様をつけろ、この商品が」
「あっ、ありがとうございますご主人様!」
反射的に僕は言ってしまう。そんな自分の反応に嫌気がさしていると、彼は皿を持ちあげてすくっと立ち上がった。
「今日の調教はこれぐらいにしておくか」
僕は体をちょっと持ち上げて彼を見る。よかった。ようやく終わった。あの快適なベッドに戻れるんだ。
しかし、ゲルートはそんな僕に冷たい言葉を降らした。
「自力でベッドに戻って寝ろ。できなければそのまま床で寝てもらう」
その発言に衝撃を受けている間にも、ゲルートは僕から離れていく。
「これからはベルが鳴って調教の時間になったら、自分でここまで降りてこい」
最初に僕を呼び寄せた場所――ドアのちょうど前にあたる場所で、ゲルートは床を指さした。
「さもないと首輪だ。いいな?」
僕の返答を聞かずに、ゲルートはさっさと部屋から出ていってしまう。僕はほとんど泣いてしまいながら、ぐすぐすと鼻を鳴らして体を動かし始めた。
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