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第2話 人として
僕たちの間の空気が固まる。僕は数秒おいた後、今までのひどい仕打ちを忘れてしまった口調で尋ね返していた。
「今なんて?」
「だから、ここは四肢欠損男子用売春宿、『よちよち娼館』だと」
場違いな、いや、この場には合っているのかもしれない単語がイケメンの口から発せられ、気が遠くなる思いになる。しかしゲルートは僕の心境をくみとってくれなかったらしく、ジト目は一切変えないまま少しだけ不機嫌そうな声で、大真面目に尋ねてきた。
「『よちよち娼館』が嫌なら、隣の『複乳ちゅぱちゅぱパラダイス』に種奴隷として売り飛ばすまでだが」
またとんでもない店名が来た。
くらくらする頭のまま、ゲルートを胡乱な目で見てしまう。
「なんだ、何か言いたいことでもあるのか」
責めるような視線に耐えかねて、僕は素直に主張した。
「真面目な顔でそんな単語言わないでください……」
「俺は元からこういう顔だ」
違う。そうやって折角のイケメンがそんなトンチキな単語を発さないでほしいって話なのに。
何のコメントをすればいいか分からず僕が黙り込んでいると、ゲルートは軽く頭を傾けた。
「体は未熟だがその様子なら素質はありそうだな」
その言葉が、普通は褒められるようなことではないことぐらい僕にも分かった。
「素質って、何のですか」
「決まってる。淫乱な『商品』の素質だ」
冷たく言い放つゲルートに体が勝手に怯える仕草をしてしまう。僕は後ずさろうとして失敗した。それより前にゲルートが僕の体を抱え上げようとしたのだ。
「な、何するんですか、放してください!」
さっきの仕打ちを思い出し、僕は抵抗しようとする。ゲルートはそんな僕をぽいっとベッドの上に放り投げた。
「また首輪を使われたいのか」
無表情な目で見下ろす彼の手には細い糸が握られていた。びくっと体が震え、動けなくなる。ゲルートはそれを見て満足したらしい。僕の体を抱えなおすと、部屋の奥へと連れていった。
「嫌です、もうさっきみたいのは、ひどいことしないで、助けて」
体を動かさないようにしながらぽつぽつと拒絶の言葉を発する。きっとまたこのままゲルートにひどい目に遭わされるんだ。シャツの前を開けられてその時を待っていると、ジャケットを脱いだゲルートは腕まくりをして僕をシャワー室へと連れ込んだ。
「洗うだけだ。商品は清潔に保たなければ」
「え?」
その言葉通り、ゲルートは僕の体を洗い始めた。石鹸を泡立てて髪から肩、短くなってしまった腕、胸、腰、と順々に洗っていく。
「んっ、ひっ……」
陰茎を触られたときに高い声が出てしまったが、ゲルートは気にしていないようだった。それどころか性的な意図をもって触ったわけではないようで、あっさりとそこからは手を離し、泡だらけになった僕の上からちょうどいい温度に温められたシャワーを降らしはじめた。
「丁寧に洗ってくれるんですね」
あんなにひどいことをしたのに、とぽつりとつぶやく。ゲルートは淡々と答えた。
「商品の手入れは基本だからな」
振り返って彼の顔を見る。その目からは相変わらず何の感情も読み取ることができず、口も横に結んでしまっており、何を考えているのか一切分からない。
彼はそのまま僕の体を拭き、新しいシャツを着せてベッドまで連れていった。
「もう寝ろ」
シーツを丁寧にかけ、困惑する僕を見下ろす。
何なんだこの人。優しいのか酷い人なのか分からない。
僕の視線に答えないまま、ゲルートはすたすたと部屋を出ていこうとした。だが、彼はふと立ち止まると、僕に振り向いて告げた。
「ああ、言い忘れていたが」
びくっと体がこわばる。彼は淡々と僕に言った。
「今は手足の痛みを薬で抑えている」
彼はベッドのわきのサイドテーブルに、薬が入っているらしきビンを置いた。
「痛い目に遭いたくないのなら、おとなしくしていることだ」
それだけを告げると、ゲルートはさっさと部屋から出ていってしまった。
一分、二分。
たっぷりそれだけ待った後、僕は身をよじって行動を開始した。
ここが街のどこに位置しているのか、今が何時かも分からない。だけど、このままここにいつづけたらまずいということだけは分かる。
あいつが優しい奴なのか酷い奴なのかは分からない。
でも商品なんかになってたまるか。ここを出れば、もしかしたら誰かが保護してくれるかもしれない。そうしたら、もうあんな目にあうことも――
「ぎぃっ」
支えにしようとしていた右手から鋭い痛みが走り、僕はベッドの上に倒れ込む。おそるおそる振り返ると、考えうる限り最悪の状況が右手に起きていた。
「ぁ……」
右手が入っている部分のシャツには赤い染みがべっとりとついていた。しかも染みはどんどん広がり、ベッドのシーツも汚していく。
縫った傷が開いたんだ。
動けないでいるうちにも傷口は徐々に熱を持ち、体の底から響く痛みがだんだん襲ってくる。
「あぐっ、はぁっ、うぅ……」
僕は口を開き、必死に息をしようとした。
痛い。苦しい。その感覚すらも超えるような何かに襲われ、僕は必死に手足を動かした。
どうしよう。このままじゃ死んでしまう。いやだ。まだ死にたくない。
もだえ苦しむ僕の視界に、ゲルートが置いていったサイドテーブルの薬瓶が入る。あれさえあれば。僕は届くはずもないそれに向かって手を伸ばし――そのままベッドから転落した。
顔と右手をもろに床にぶつけ、もはや身動きすらとれないまま、右手から血が流れるに任せる。
「あ、あ……ぁ……」
なすすべなく血だまりは広がっていき、その中でびくびくと痙攣しながら僕はうわごとを呟き続ける。
革靴が床を踏む音が聞こえてきたのはその時だった。
「じっとしていろと言っただろう」
「ゲルー、ト……」
血の海から助け起こされ、僕は薄れゆく意識の中、彼の名前を呼ぶ。
「ごめんなさ……うう……」
怖くて、情けなくて、涙とともに謝罪の言葉が口からもれる。ゲルートはそれを無視して、サイドテーブルの薬を取ったようだった。
「口を開けろ」
ゲルートは摘まみ上げた錠剤を僕の口の中に押し込んだ。反射的に口を閉じてしまいそうになったが、ゲルートはそれを止める。
「噛むな」
言われた通り、必死に口を開ける。彼は錠剤を喉奥に押し込んだ。
「そう、ゆっくり飲み込むんだ」
嘔吐感ごと錠剤を飲み下し、僕を抱えるゲルートを見上げる。相変わらず何を考えているのか分からない彼の顔を見ながら、僕はふっと意識を失った。
次に目を開いたとき、僕は全身を濡れたタオルで拭かれていた。どうやら右手からあふれた血を拭き取っている途中だったようだ。
僕はまだぼんやりとした意識の中、汚れをよくぬぐい取られた右手を見た。
「右手……」
「魔法も使って縫合しなおした。一晩おとなしくしていれば、そうそう傷口が開くことはない」
糸で縫い留められたそこは、前よりもしっかりと留められているようで、血も肉も覗いていない。
ゲルートは予備らしきシャツを僕に着せると、僕を再びベッドに寝かせようとしてきた。ふかふかの枕に頭を乗せ、清潔なシーツをかけられる。淡々と作業を終えると彼はそのまま部屋から出ていこうとした。
「まって」
自然と口から言葉がこぼれていた。振り返ったゲルートに、僕は請う。
「いかないで」
何の感情からなのか分からない涙が、たまってはこぼれていく。
「そこにいて」
数秒の沈黙。ゲルートが何か返事をする前に、僕のまぶたは落ちていった。
目を開く。頭の後ろには枕。シーツは清潔で、だけど右手には鈍い痛みがある。
どうやらまた気絶していたようだ。でも生きている。死ななくてよかった。
状況をだんだん理解しつつあった僕の耳に、ぺらりと本をめくる音が聞こえてきた。
ページの音がした右方を見る。そこには少し離れた位置にある椅子で、足を組んで文庫本を読んでいるゲルートの姿があった。
ゲルートはこちらに気づいていないのか、本から目を上げることはない。彼のスーツについた血が黒ずんでいるということは、かなりの時間が経っているようだ。
「ずっとそばにいてくれたんですか?」
彼は軽く息を吐いてパタンと本を閉じた。
「商品のメンタル調整も仕事の内だ」
立ち上がってこちらに歩み寄ってくる彼をぼんやりと見上げる。
「こうやって甘やかすのは今回限りだ、商品番号12番テンドウミノル」
商品番号。本当にこれから自分は商品として扱われるのだ。震えが体中に広がり、僕は身動き一つとれないまま彼を見つめた。
「調教は明日から始める。人としての己は捨てることになると思え」
絶望的な言葉を告げた後、ゲルートは僕の目元に手をやろうとした。抵抗することもできずに身をこわばらせるが、彼は僕の瞼の上に軽く手を置いただけだった。
「だから今は眠れ。人としての最後の夜だ」
残酷な宣告だ。だけどそれを告げる彼の声は、心なしか優しいもののように聞こえて、僕は体中を固めていた緊張がほぐれていくのを感じていた。
ゲルートは僕の目元から手を離し、そのまま部屋のドアへと向かっていった。僕はその後ろ姿に、なんだか安らかな気分になって声をかけていた。
「おやすみなさい」
それだけを言い残して、僕の意識は柔らかな闇の中に落ちていく。
彼の返事は、なかった。
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