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【1】side Ogami……出会い
ディーリングルームの朝は早い。
大手証券会社のグローバルマーケット部門に所属している大神波 は日本で一番広いと言われる取引 専用のフロアに今日も足を踏み入れた。
「おはようございます、統括」
「今日も早いですね。お疲れ様です」
口々に朝の挨拶を交わしているのは若手の為替ディーラーたちだ。地球上で最も早く為替の取引が始まるのはウェリントン市場だが、その後、シドニー市場が開き、続いて東京市場がオープンする。為替ディーラーたちはそのシドニー市場がオープンする時間に間に合うよう、午前七時前にはフロアに入る。この巨大なディーリングルームで二百名を超えるディーラーたちが日々、株や為替、債券といった金融商品の取引を行っているのだ。
大神はずらりと並んだディスプレイの海を抜け、自分の席に着いた。通常、一人のディーラーが使うディスプレイは六枚程度だが、大神が使うディスプレイは全部で十二枚――特別仕様のデスクだ。
大神はわずか三十五歳ながらグローバルマーケット部門の部長を務めている。この市場部では株式、為替、国内債券、海外債権の取引を行っており各セクションに課長がいるが、皆、大神よりも年上だった。この若さで大神が統括部長に抜擢されたのには理由があった。
大神は入社以来、常にディールでナンバーワンの収益を上げ、わずか二十五歳で三百億円のポジションを持つ債券ディーラーになった。その後も債権だけには留まらず株や為替でも数字を上げ、各部署の課長を歴任した後、三十歳でこのフロアを統括する部長になった。AIでの取引が主流になりつつある現在でも、大神をはじめとする菱沼証券のディーラーたちは第一線で活躍している。
ディールは完全成果主義の雄の世界だ。
結果を出せる者だけが生き残れる。
大神はそのメンタルの強さと相場を読む能力の高さから〝ディーリングルームの鬼神〟と呼ばれていた。
鬼でも神でも構わない。
会社を儲けさせる事ができない証券ディーラーは屑だ。旧財閥系の老舗の看板を背負い、会社の金で博打を打たせてもらっているのだ。顧客の金で売買してセコイ仲介料を稼ぐトレーダーや、小遣いで売り買いをしている引きこもりのデイトレーダーとは訳が違う。大神は常に億単位のディールを行い、リミットなしの大博打を打つ事もしばしばあった。己の食い扶持さえ稼げない証券ディーラーは、ディーラーを名乗るな。大神はそう思っていた。
――そろそろ九時か。
東京の市場 が開く。
さあ、来い。今日も相場の荒波をこの俺が乗りこなしてやる――。
大神はワイヤレスのインカムを装着し、発注システムにIDを入力しながら、己を囲むように設置されたチャートを映す大型ディスプレイを睨みつけた。
株式市場の前場 が終わり、立会時間の休憩を縫って大神はディーリングルームを出た。大手町にあるこのオフィスビルの中には、大神が勤める菱沼証券と日本三大メガバンクの一つである菱沼フィナンシャルグループが入っている。五十階建のビルの地下一階から十三階までが商業施設になっており、十五階にスカイロビーを挟んで、そこから上がオフィスフロアになっている。大神はそのオフィスフロアの中にあるコンビニに入った。
買い物カゴは無視して、いつものようにエナジードリンクとサンドイッチを手に取る。そのままレジの列に並んだが、一向に進む気配がない。
――変だな。
このコンビニはオフィスフロアの人間しか利用できない。客は菱沼グループの証券マンかバンカーのどちらかだ。店員の不手際に声を荒らげるような者はいないが、順番待ちの列には殺伐とした空気が流れ始めていた。
大神も苛立ちを隠しながら腕時計を確認する。後場 が始まるのは十五分後だ。あまり時間がない。
二つ前の客が会計を済ませて、ようやくその原因が分かった。レジを担当している店員の胸に研修中という表示があった。確かにそうなのだろう。一つ一つの動作に慣れておらず、緊張のせいか肩に酷く力が入っている。バーコードを読み取るという単純な作業にさえ時間が掛かっていた。
「あっ……あの、すみません」
男はしきりに謝っている。注文を受けたコーヒーを台の上に溢してしまったようだ。
「ごめんね。もう時間ないからいいよ」
一つ前の客が時計を覗きながらその場を立ち去った。首から下げたIDカードのラインが橙色で菱沼証券のディーラーだと分かる。その背中を見送りながら大神は商品をカウンターに置いた。
店員を眺める。
綺麗な男だと思った。
ストレートの黒髪に色白の肌。伏し目がちの一重瞼に、びっしりと柔らかそうな睫毛が生えている。高い鼻梁に少し薄めの唇。背はすらりと高かった。癖がない分、凡庸に見えるかもしれないが、どこか現実感のない儚げな雰囲気がその凡庸さを見事に打ち消していた。
磨けばさらに光る。そんなタイプの男だ。
おまけに繊細で趣のある手をしていた。
おどおどした態度は癇に障るが、控え目な美しさを持ったその姿に、大神はなぜか心をつかまれた。
男の愚鈍な動作を眺めながら想像する。
――この男を抱いたら一体、どんな顔をするのだろう。
ついつい、そんな事を考えてしまう。
嫌だと泣き叫びながら、歯を食いしばって男を受け入れるのだろうか。それとも案外、快楽に堕ちて甘い声を上げながら男を咥え込むのだろうか。
別にどちらでも構わない。
美しいものを無理やり奪うのも、甘やかして優しく落とすのも、どちらも好みだ。
大神は自信に満ちたプライドの高い男を落とすのが好きで、そういう意味では、目の前の男は好みの範疇から外れるが、どうしてかこの男の存在が気になった。
名札を見ると〝長月周 〟とある。名前も古風で可愛い。
――落としてみたい。
ふと思った。
そして、それが容易い事も大神は分かっていた。
大神は皮肉屋で型破りの奇人ではあったが、見た目がよく、ディーラーとしての才気を一手に背負った魅力のある大人の男だった。また、これまでの人生で、その資質を上手く使いこなせるだけの頭のよさと如才なさを身に着けていた。
――長月周……か。
大神は口の端だけで微笑んだ。
株式市場の後場を終えて終値を確認した後、大神はインカムを外して一息ついた。煙草が吸いたくなり、喫煙室があるフロアまでエレベーターで降りた。このビルは全館禁煙でそこでしか煙草が吸えないのが面倒だ。ガラス張りの喫煙室の横に社員が休めるラウンジがある。そこにさっきの男が腰掛けていた。
どうしたのだろう。
酷く項垂れているように見える。
手際の悪さを店長にでも叱責されたのだろうか。
大神は近づいて声を掛けた。
「どうかしたの?」
男は大神の声にビクリと体を震わせた。そんなに大きな声だっただろうか。男は大神を見上げると小さな声ですみませんと呟いた。大神のIDカードを一生懸命覗き込んでいる。
「あの……僕……皆さんに迷惑を掛けてばかりで……皆さん、とてもお忙しいのに僕が――」
予想通りの反応でがっかりする。やはり、声を掛けたのは間違いだったかなと思ったが、大神は男の隣に座った。
「客か店長にでも怒られたの?」
「え? ……あ、はい。そうです。すみません」
男はおどおどした調子で受け答えをしている。その姿にも少しだけ苛ついた。だが、大神は本音をおくびにも出さず、笑顔で応対した。
「火傷、しなかった?」
「え?」
「コーヒー溢してたでしょ」
「あ、そんな……平気です。し、心配して頂けるなんて光栄です」
そう言うと男はわずかに微笑んだ。
「これ、食べてみる? 可愛いでしょ?」
大神はポケットからひよこの形をしたクッキーを取り出した。ついさっき女子社員からもらったお土産のクッキーだった。大神はこんなものは食わない。しばらくしたらゴミ箱に捨てるつもりだった。
「いいんですか? こんなに可愛いものを頂いても」
男の表情がぱっと明るくなる。そのまま両手を伸ばして受け取ると、大事なもののように胸の前に抱えた。
驚いた。こんなつまらないもので、そんなに喜ぶとは。
一瞬、芝居かと思ったが、そうではないようだ。男は本当に嬉しそうな顔をしている。
「じゃあ、食べてみて」
「え……でも……」
男は逡巡するような様子を見せた。なんだ、やっぱり気に入らないのか。
「すぐに食べるのはもったいないので、しばらく眺めて、満足してから頂きます。今日はこれを一日、眺めていたいので食べません」
男は大神の顔を見て笑った。目がなくなる。その柔らかい笑顔がなぜか大神の心に引っ掛かった。
正直、男の受け答えに響くものはなかった。こんなクッキー一つで感情を上下させる所も人として好みではない。素直すぎる反応もだ。だが、どうしてか気になった。最初のおどおどした様子に、声を掛けた事を半ば後悔していたが、もっと男の笑顔が見たいと思った。
なぜ、そう思うのだろう。自分でも不思議だった。
「このクッキーを食べるといい事があるみたいだよ」
「え? 本当ですか?」
大神は咄嗟に嘘をついた。この男をもっと喜ばせたいと、単純にそう思ったからだ。
「願い事を唱えながら食べるとその願いが叶うらしい。やってみるといい」
「そうなんですね。可愛いだけじゃなくて凄いクッキーなんだなあ」
男はクッキーを軽く上に翳して見せた。全く疑っていない。素直な人間だと思った。つまり、それは馬鹿だとも言える。
「仕事、今日が初めてだったの?」
「あ、はい。手際が悪くてごめんなさい」
「俺に謝ってもしょうがない。気にするな」
「そ、そうですよね。すみません」
男はまた項垂れた。その姿を横からじっと眺めていると、耳が薄っすらとピンク色に染まった。可愛い。少し、からかってやろうか。慰めるように二の腕を叩いてやる。大神が新人ディーラーによくやる仕草だった。
「大丈夫か? 元気を出すんだ」
「あ、あ、あの……ありがとうございます。僕なんかに……すみません」
男はまた笑顔に戻った。
「あなたはとても優しい人ですね」
「そうかな?」
「はい。さっきまで凄く落ち込んでいたんですけど、なんだか元気が出ました。ええと……おおがみさん? のおかげです。ありがとうございます。これは大事に頂きます」
男はそう言うと立ち上がってがばっと頭を下げた。
「休憩が終わるので……もう行かないと……」
「そうか。これ渡しておくね。困った事があったらいつでも相談に乗るよ」
大神はそう言って名刺を差し出した。男は手の汗をズボンに擦りつけて拭うと、恐る恐る名刺に向かって指を伸ばしてきた。卒業証書をもらう小学生のようでおかしかった。
――可愛いな。
男の後ろ姿を眺めながら、大神はいい玩具を見つけたと心の中でほくそ笑んだ。
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