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【2】side Amane……胸の高鳴り

「はい、大丈夫です。心配しないで下さい……はい、また電話します。それじゃあ」  長月周はソーシャルワーカーである村上との通話を終えた。まだ明るいままのスマホの画面を裏向ける。村上には大丈夫だと言ったが、今日は散々な一日だった。  初出勤で生まれて初めて本物の満員電車に乗った。混んでいるのは知っていたが、あんなに酷いとは思わなかった。急ブレーキが掛かるたびに人の重みで呼吸が止まり、肋骨が折れるかと思った。くたくたになってグランノースタワーに着くと、今度は入口が分からなかった。普通に入るとなぜか百貨店の中に入ってしまう。店長に電話して場所を尋ね、十四階にあるオフィスエントランスへ向かうと駅の改札にあるような機械があって驚いた。高級そうなスーツを着た人たちが次々とIDカードを翳しながら中へ入っていく。気後れしてしまった周はしばらくの間そこに立ち尽くした。  迎えに来てくれた店長と中に入ったが「店に辿り着く事もできないのか」と溜息をつかれてしまった。謝りながら遅刻ギリギリで制服に着替え、同じ仕事仲間に挨拶を済ませるとレジカウンターについた。緊張で上手く体が動かない。商品のバーコードの場所が分からなかったり、バーコードリーダーが反応しなかったりと、簡単な作業でも失敗続きだった。 「はぁ……やっぱり無理なのかなあ」  周はベッドの上で天井を眺めながら大きく息をついた。  周は今年で二十三歳になる。けれど、厳密に言うと中身はまだ十八歳だった。周は十八歳の時に家族と乗っていた車で事故に遭い、しばらくの間、意識が戻らなかった。目を覚ますと記憶が退行していて、五年分の思い出が消えてしまった。十八歳から十三歳に戻ってしまったのだ。周はその状態のまま専門医のいる病院で一年過ごした。  周は外的要因による一時的な退行性記憶障害と診断された。脳の機能そのものは損なわれなかったが、失くした記憶が戻る事はなかった。  事故で両親を亡くした周は医師とソーシャルワーカーの援助の下で、施設を利用しながらこの五年間を過ごしてきた。本人にその意識はなかったが、もう一度、十三歳から人生をやり直し、ようやく十八歳になった所だった。五年の間は両親が残してくれた少ない遺産で過ごしていたが、それも底をつきかけている。周は中身が十八歳になった事を機に心機一転、一人暮らしを始め、働く事にした。村上の援助と指導のおかげで障害者雇用での仕事が決まり、大手町のグランノースタワーにあるコンビニの従業員になる事ができた。  本当に感謝している。  だから、村上の期待を裏切りたくなかった。  三十歳の村上は周にとって兄のような存在だった。コンビニの勤務先をグランノースタワーにしてくれたのも村上だった。そこならビルで働くビジネスマンしかいないから、何かあっても大丈夫だろうと。それなのに……今日は失敗続きだった。 「……でも、あの人、優しかったなあ」  周は鞄からもらったクッキーを取り出した。ピンク色の縁で彩られた窓からひよこの顔が覗いている。つぶらな瞳が可愛い。もったいなくて食べられなかった。 「願い事をしながら食べると、その願いが叶うなんて……なんか凄いな」  クッキーを電球の明かりに照らしてみる。ビニールが光を反射してきらきら光った。  やっぱり可愛い。自然と笑みがこぼれる。  何か本当に願い事ができたら食べる事にしよう。周はそう決めて、ベッドに設置されているサイドボードの上にそっとクッキーを置いた。  それにしても、カッコいい人だったなと思う。  海外ドラマで観るエリート弁護士みたいな見た目だった。  すらりと背が高くて男性的な魅力に満ちているが、決して押しつけがましい雰囲気はなかった。肩幅が広く、手脚も長くて、モデルのようなスタイルをしていた。恥ずかしくてあまり顔は見れなかったけれど、綺麗な二重の目と高い鼻は印象に残っている。低い声は甘く響いて、嗅いだ事のないようないい匂いがした。  香水なのだろうか。  男性がそういうものをつける嗜みを知らない周にとってはドキドキするものだった。よく分からないけど異国の匂いがしたのだ。  きっと凄くいい大学を出て、お金持ちで頭のいい人なんだろう。スーツも高そうだったし、話し方に品があった。そして、笑顔が優しかった。  村上も優しいけど、それとは違う不思議な優しさだった。  大神は周にとっては初めて会う種類の人だった。  気になって名刺を取り出してみる。書かれた文字を読むと〝菱沼証券 グローバルマーケット部門 統括部長〟とある。一体、なんの仕事をしているのだろう。これだけでは何をしているのかさっぱり分からない。  今度、会った時に訊いてみよう。  そう思ってドキリとする。  また会えるのだろうか。そして、自分と話をしてくれるのだろうか。  よくよく考えたら年齢も立場も何もかもが違う。向こうは有名な証券会社に勤めるエリートサラリーマンで、こっちはただのコンビニ店員だ。歳だってきっと十歳以上は離れている。その上、自分は退行性記憶障害という問題を抱えていた。  でも――  また話し掛けてくれるような気がした。  今日は散々な一日だったけど、いい事もあった。  ――大神波さんか……。  また話せるといいな。  周は名刺を胸に抱いて、ゆっくりと目を閉じた。

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