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【3】side Ogami……取引開始

 大神はコンビニ店員である長月周に声を掛けようとして、その機会を何度か見送っていた。  先週末からニューヨーク市場が荒れたのを皮切りに株価が乱高下し、米社債は軟調に推移、香港ドルが急落した結果、下降基調を続けている市場の煽りを受けてマーケットが揺れに揺れた。のんびり休憩を取っているわけにもいかず、大神をはじめ証券ディーラーたちはフロアに缶詰状態だった。ようやくその嵐から抜け出し、大神はコンビニを覗いてみたが男の姿はなかった。  ――まさか、もう辞めたんじゃないだろうな。  ふと湧いた疑問を打ち消す。あの男はすぐに行動を起こすタイプの人間ではない。勤務の時間帯が合わないだけだろうと思い、仕事を終えた大神は十四階にあるオフィスエントランスへ向かった。  IDをカードリーダーに翳し、フロアを出た所でその後ろ姿が見えた。  ――やっぱりな。  大神の予感は当たる。  大神は速足で男に近づくと後ろから声を掛けた。 「長月くん、だっけ?」  男は振り返ると一瞬、ぽかんとした顔をした。すぐに慌てたように背筋を伸ばして、ぺこりと頭を下げた。その仕草に大神は少しだけ満足した。 「あ、あの……この間は、ありがとうございました」 「この間? この間、俺なんかしたかな」 「あの、ええと、僕にクッキーをくれて、それで……元気を出せって、僕を励ましてくれました」 「なんだ、そんな事」  軽く微笑んでみせる。するとほっとしたのか男も笑顔になった。 「この後、時間ある?」 「え?」 「あ、ごめんね。若いから金曜の夜はもう予定が入ってるかな。彼女とデートとか」 「か、彼女だなんて、そんなのいません、僕」  男は顔を真っ赤にして首を横に振った。素直な仕草が可愛い。 「じゃあ、一緒に食事でもどう?」 「え? でも……僕は――」  男は逡巡する様子を見せた。表情が読みやすく、考えている事が全部分かるのが面白い。 「俺と一緒は嫌かな?」 「あ、ええと、そうではなくて……」  視線を逸らして下を向く。金の事を心配しているのだとすぐに分かった。 「俺が誘ったんだ。もちろん奢るよ」 「でも……」 「じゃあ、決まりだね。行こう」  二人はエレベーターで一階まで下りてビルの外へ出た。  並んで歩き、大通りに面した路上に出た所で、大神は男の手を引いた。 「行こう」 「え?」 「タクシーが止まってる」  目の前の道路で客を降ろしたタクシーのドアが閉まろうとしていた。  けれど、そんなのは口実だ。  手を握りたかった。男の白い手を。  握った瞬間、嘘のように胸が騒いだ。  ――ああ、参ったな……。  冗談だろうと思う余裕はあったが、久しぶりに相場以外で興奮している自分を感じて、驚いた。  ときめいている。  心臓が大きく一つ打ち、手をつかんで走り出した足が宙に浮いていた。  夜の湿気を含んだ風が頬をふわりと撫でていく。自分でも信じられないほど気持ちが高揚していた。その鮮やかな興奮はなかなか収まらなかった。  タクシーの中で一番いい店を思い巡らせて選んだのが、ワインバーを併設しているイタリアンだった。店の中が暗く、アラカルトで食事が取れるためここを選んだ。男は天井まであるガラス張りのワインセラーを見て目を白黒させていたが、そんな様子も可愛かった。フロアには薄いカーテンが緩く垂れ下がり、幾つもある照明がその空間を淡いブルーに照らし出している。 「ここなら好きなワインと料理を適当に頼める。コースじゃなくて食べたいものだけを頼むといい。何が好きなの?」 「あの……えっと……」  男はメニューを見ながら緊張した様子で大神を窺っている。ワインリストはソムリエから手渡されたタブレットで、それには一切、手を着けなかった。 「野菜と肉が好きです。あと、魚も」 「そうか。なんでも食べられるんだな。じゃあ、俺が適当に頼んでもいい?」  大神がそう言うと男は頷いた。  大神はカジュアルなイタリアンワインを選び、料理を幾つか注文した。男は緊張していたが、しばらくすると落ち着きを見せ始めた。 「さっきは驚きました」 「ん?」 「大神さんが突然、走り出したので驚いちゃって」 「そう?」 「僕のイメージの中では大神さんはいつも落ち着いていて、走り出すような人じゃないと。あ、すみません。まだ、そんなに知らないのに勝手に決めちゃって」 「いや、いいよ。そんな風に素直に話してくれて嬉しい」  大神が微笑むとつられたように男も笑った。 「そうだ。俺は君の事、なんて呼べばいい?」 「周って呼んで下さい」 「分かった。じゃあ、そうするね」  名前を呼ぶと急に距離が近づいたようで嬉しい。それも計算の上で、何度も名前を口にした。 「どう? 仕事は慣れた?」 「まだ、慣れません。僕はあまり要領がよくないので……恥ずかしいですけど」  そうだろうなと思う。 「少しずつ慣れていけばいいよ。あそこなら客層は悪くないだろうし」 「はい。皆さん、とても親切にして下さってます。何度か来て下さって、頑張れって言ってくれる人もいます」 「へぇ」  どんな奴だろうと思った。自分と同じようにこの男を狙ってないといいが――。 「あ、でも、大神さんより優しい人はいません。大神さんは神様みたいだなって思っています」 「神様って、大げさだな」 「今日もこんなに素敵な店に連れて来てくれて……僕、初めてです。こんな凄いお店に入るの。まるで海の底にいるみたいですね。綺麗だ……」  周はうっとりした様子で天井を見上げた。 「大神さんはやっぱり神様だ。名前に神がついてるし、なんだか特別な人に見えるから……」  周の反応は予想通りとも言えた。大神はその答えに満足した。  しばらくすると料理が運ばれてきた。ワインは泡、白、赤、の順で産地の違うものを、それぞれグラスで頼んであった。 「乾杯しようか?」  そう言うと周は申し訳なさそうな顔をした。 「あの……僕、実は十八歳なんです」 「え?」 「あ、体は二十三歳です。だからお酒は飲めます」  言っている意味が分からない。突然、降って湧いた戸惑いと、自分が犯罪者になりそうな予感で大神のテンションは一気に下がった。 「黙っているのもよくないと思って。実は僕、十八歳の時に事故に遭って、その時に五年分の記憶がなくなったんです。退行性記憶障害って言うんですけど、そのせいで十三歳からまた人生をやり直して……体は二十三年生きてるんですけど、記憶は十八年分しかないんです。あ、分かりづらいですよね。すみません」 「いや……理解はできたが、今は大丈夫なのか?」 「はい。その事故で両親を亡くしたんですけど、ソーシャルワーカーの方や担当のお医者さんが親身になってくれて、今の仕事も紹介してくれて……だから、大丈夫です。体ももう問題ありませんし、毎日元気です」  周はそう言って笑った。  驚いた。てっきり勘の悪い世間知らずの子どもだと思っていたら、そんな苦労をしていたとは。 「大変だったね」 「そんな事はないです。僕は運がよかったんです。命は助かったし、こうやって今も生きてるので。記憶障害も色々あって、それまでの人生全ての記憶を失くしてしまう人もいますし、高次機能障害といって事故から後の事を記憶できない人もいます。それに比べたら僕は幸せで、だからもっと頑張らないといけないんです」  周は自分に言い聞かせるように呟いた。 「あ、こんな話をしてしまってすみません。本当に今は普通に暮らしているので気にしないで下さい。ただ、実際の年齢より知識や他の色んな事が足りない事実を理解してもらえればと思って。理由はよく分からないんですけど、大神さんには嘘をつきたくなくて……それと、僕の事を知っていてほしくて。なんだかごめんなさい」 「いや、いいよ。話してくれて嬉しい。話し方や態度が幼いなって思ってたけど、理由があったんだね。俺の前では無理に自分を繕わなくていいよ。ありのままの周でいい」 「ありのまま……」 「うん。それでいいよ。それがいい」  少しだけ男の見方が変わる。  初めてこの男を見た時、どこか現実味がなく儚げだと思ったが、その意味が分かった。周の身のうちに他の者にはない透明な核のようなものを感じたからだ。純粋さを結晶化させたような何か――。  それでか、と思う。  酷い事故に遭っても誰も恨まず、運がよかったと言える心の清らかさ。少年らしい真面目さと一途さ。  答えを見つけた大神は心の中でほくそ笑んだ。  ――それが欲しい。  もっと暴いてみたい。  この男を完全に自分のものにしたい。結晶ごと欲しい。誰も手にしていないような尊くて綺麗なものをこの手で穢したい。 「じゃあ、アルコールはこのシャンパンだけにしよう。料理も食べてごらん、美味しいよ」  氷の器に盛られたウチワエビのカルパッチョと和牛のタリアータを勧める。 「わあ、凄いです」  周はフォークを持った手を伸ばし、半透明のエビを口の中に入れた。薄い唇の間に生ものが滑り込んでいく様はどこか官能的だった。  そんな目で見られている事も知らず、周は頬を上気させながら一生懸命、口を動かしている。美味しいと呟いて微笑んだ。 「こんな綺麗な食べ物を食べたのは初めてです」  パスタは蟹とカラスミのカペッリーニを選んだ。少し癖のあるトリッパのトマト煮込みも問題なく食べ進んでくれて安心する。 「周は今、一人暮らししてるの?」 「そうです」 「寂しくない?」 「寂しくはないです。ソーシャルワーカーの村上さんがいてくれるし、三ヶ月に一回ですけど、お世話になっている担当医もいます。あと、金魚を飼ってるので」 「金魚?」 「はい。一匹だけ。僕の事を親だと思ってるみたいで、凄く懐いてるんですよ」  まさかと思ったが黙っておいた。周はとても楽しそうな顔で話している。それを邪魔したくはなかった。 「大神さんも見に来ますか? とっても可愛いですよ」  周はそう言った後、あっと声を上げた。 「……すみません。大神さんみたいな凄い人を僕の家に招くのは失礼ですよね。築三十年のボロアパートだし、何もない部屋だから」 「いや、嬉しいよ。金魚も見たいし」 「本当ですか?」  周の表情がぱっと明るくなる。素直な様子に胸がチクリと痛んだ。この男は自分がどんな目で見られているのか、何を目的にこうやって食事をしているのか、それさえ疑っていない。この後、自分の人生がどうなるのかも分かっていない。常に先読みして物事を進める相場師の大神にとっては考えられない事だった。  落とすのは簡単だ。もう落ちかけてさえいる。  だが――  この男を手に入れてもいいのだろうか。  珍しく罪悪感が頭をもたげる。どうしたのだろう。いつものようにやれない自分に少しだけ戸惑った。周の純粋さにあてられでもしたのだろうか。  何も罪悪感を持つ事はない。今までだってそうだった。日常を非日常にする軽い遊び。相手を傷つけたりはしない、自分が楽しむ分だけ、相手にもきちんとリターンを与える。相場と同じだ。稼がせてくれたディールには敬意を払う。だが、そこに留まったりはしない。いい波が来たら逃さず、次をものにする。  ――目の前の男は取引の価値がある男だろうか?  どうでもいいと思い、どうしても欲しいと思う。  大神は胸の内で呟いた。  ――さあ、周。  ――俺と取引(ディール)だ。  男の笑顔を眺めながら、やはり自分はどうしようもない人間なのだと苦笑した。

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