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【4】side Amane……恋のはじまり

 今日は夢のような一日だった。  部屋に帰ってきた今もまだ夢から覚めやらない。  仕事を終えてエントランスを出ようとした所で大神から声を掛けられた。その瞬間、周の心臓は弾けた。なぜか同じ場所に立っている大神の姿が眩しく輝いて見えて、驚きと緊張と嬉しさで気持ちがごっちゃになってしまった。大神はそんな挙動不審な周を笑ったりせず、優しく接してくれた。  周は大神が周囲から変に思われないか逆に心配になった。自分はくたびれたグレーのパーカーに黒のデニム姿で、どこから見ても学生かフリーターのようだった。反対に大神は皺一つないスーツ姿で濃いブルーのYシャツと艶のある水色のネクタイが似合っていて凄くカッコよかった。そして、いつものようにいい匂いがした。  連れて行かれたお店もお洒落で見た事のないような食べ物が出てきた。どれも美味しくて夢中になって食べた。デザートまで平らげた時、自分ばかりが食べていた事に気づいた。大神が自分のために料理を注文してくれた事が分かって胸が熱くなった。  ――なんであんなに優しいんだろう。  その理由が分からない。  けれど、無性に嬉しかった。  食事を終えると連絡先を聞かれ、SNSのアカウントを交換した。帰り際にはタクシーを停めてくれて、周が自宅の住所を告げるとお金を払ってドアまで閉めてくれた。窓越しに手を振られて周も夢中で振り返した。  ベッドの上に横たわってもう一度、今日あった事を思い返してみる。  大神が優しくてカッコよかった。  溜息がこぼれる。  ――この事をソーシャルワーカーの村上に話そうか。  そう思ってすぐにやめた。村上には大神の事を話さない方がいい気がした。今までいい事があったり、友達ができたりすると全て村上に報告してきたが、何も報告は義務ではないのだ。話さない事があっても構わない。嘘をつくわけではないのだ。  そんな言い訳じみた事を考えて苦笑する。  どうしたのだろう。まるで悪い事をしているみたいだ。そうではないのだと自分に言い聞かせる。色んな感情がない交ぜになって気持ちが落ち着かない。ドキドキとソワソワが同時に襲ってくる。  ――でも、やっぱり大神さんの事は黙っていよう。  周がそう思う理由の一つに、ある種の後ろめたさがあった。  周はこれまで誰とも恋愛をした事がなかった。他人に興味がなく、性的にも未成熟で誰かと付き合いたいと思う事もなかった。それなのに大神を見ていると心臓がドキドキする。目を合わせられないのにずっと見ていたいと思う。理由は分からなかったが、大神という男に強く惹かれている気がした。  憧れだろうか。  自分も本当はああなりたいのかもしれない。大神は優しくてカッコよくて話も面白い。大人の男性に対する憧れが表に出たのだと、周はそう思った。  食事をした日から大神から小まめに連絡が来るようになった。一日に数回SNSのメッセージが届く。今、何をしているだとか、今日は何を食べただとか、他愛無い内容だったが大神からもらっているというだけで嬉しくなった。周が金魚の写真を送ると、お返しにサボテンの写真が送られてきた。  ――大神さん、サボテンなんか育てるんだ。  笑みがこぼれる。イメージと違って可愛いなと思った。  何年かに一回、綺麗な花が咲くらしい。その花を周に見せたいというメッセージが来た。どんな花が咲くのだろう。想像して溜息がこぼれる。周はサボテンの花を見た事がなかった。  嬉しくて心が弾む。世界が開けて見えた。大神の家に行ったりできるのだろうか。どんな所に住んでるんだろう。休みの日は何をしているんだろう。そうだ。まだ、仕事の話も訊いてなかった。  ――知りたい。  大神の事をもっと知りたいと思った。  そして、まだ何も知らない事を少しだけ寂しく思った。  日曜の午後、金魚の餌を買いに行くために、周は街へ出る事にした。  古いアパートの階段を下りて駅までの道のりを歩く。電車に乗って自宅の最寄駅から近くにあるターミナル駅まで三駅分だけ移動した。定期を使ったので交通費も掛からない。そんな事が嬉しかった。  ――コンビニの店員だけど仕事をするっていいな。大神さんとも会えたし。  大神は今日、何をしているんだろう。スマホを見たが、メッセージは来ていなかった。まだ寝ているのだろうか。そうかもしれない。  周は駅ビルの中にあるペットショップに向かった。魚の水槽がずらりと並んでいる場所に足を止める。ネオンテトラ、グッピー、ベタ、ディスカス、コリドラス……様々な種類の熱帯魚が泳いでいる。アクアリウムに顔を近づけて中を覗き込んだ。そこは現実とは違う別世界だ。  綺麗だと思う。  水槽の中で木々が鬱蒼と覆い茂った西洋の森が忠実に再現されている。細長いナイフのような形をしたゴールデン・デルモゲニーが、泳ぎながら銀色の背をきらきらと輝かせていた。  そうだ、と思って店員に声を掛けた。SNSでの利用が可能な水槽を訊いて、その写真を撮った。今、駅前のペットショップに来ています、とメッセージをつけて画像を大神に送信する。すぐに既読になった。  ――綺麗だね。これは熱帯魚?   そうです。ゴールデン・デルモゲニーっていう淡水魚です。  ――沖縄にいるダツっていう魚に似てるね。   あ、そうなんです。ダツと同じ種類の魚なんです。  ――ダツは危険だけど、これなら家で飼えそうだな。   大神さんも魚好きですか?  ――飼った事はないけど、一度、飼ってみたいと思う。魚はもちろん好きだよ。   そうなんですね。僕と一緒でなんだか嬉しいです。  速いスピードで返信が来る。大神が喜んでくれているような気がして、画像を送ってよかったと思った。ひと通りやり取りを終えると、周は熱帯魚のコーナーから金魚の水槽がある場所へ向かった。周はしばらくの間、金魚を眺め続けた。  餌を買って店を出た所でスマホが鳴った。見ると大神からで近くまで車で来ているという。指定された大通りの交差点へ向かうと、車の傍に立っている大神の姿が見えた。周に気づいた大神は軽く右手を上げた。  やっぱりカッコいいなと思う。  今日はスーツ姿ではなく細身のパンツにラフなジャケットを合わせていた。左手をポケットに入れたまま車にもたれ掛かるような仕草でこちらを見ている。周が駆け寄るといい子だと言うように頭の後ろを撫でてくれた。  体温がじわりと上がる。  犬でもないのにもっと撫でられたいと思ってしまった。恥ずかしいのに、大神の大きな手の感触が温かくてずっとこうしていたいと思う。それくらい気持ちがよかった。 「どこか行きたい所、ある?」 「……特にないです」 「魚が好きなら海も好きなの? 海に行こうか?」 「海……」  周がぼんやりすると大神が微笑んだ。 「さすがに今から熱帯魚のいる沖縄の海には連れて行けないけど、そうでなければ行けるよ。街から見える海がいい? それとも砂浜のある海がいいかな」 「波が来る様子を見たい……です」 「よし、決まりだ。車に乗って」  周は促されて車の助手席に乗った。中に入ると本物の革の匂いがした。周は車に詳しくないので車種までは分からなかったが、高い車である事は分かった。 「大神さんはエリートなんですね」 「どうしてそう思う?」 「なんでも知ってるし、なんでもできる。それだけじゃなくて……なんでも持ってる。僕には大神さんが完璧な人間に見えます」 「この世に完璧な人間なんていないよ。それに俺は完璧じゃない。君より少し大人なだけだ」  そうなのだろうか。 「大神さんはどんな仕事をしてるんですか? 名刺を見てもよく分からなくて……」 「証券ディーラーの事?」 「はい」 「簡単に言うと会社の金で株や為替、債券の取引をして収益を上げているプロの投資家だ。自己資金で取引をしている個人投資家ではなく、顧客の金で取引をしているトレーダーでもなく、ただ会社を儲けさせるためにいるのが俺たち証券ディーラーだ」 「会社を儲けさせる……」 「気になる?」 「はい。店のお客さんは菱沼証券と菱沼銀行の方ですけど、大神さんと同じIDに橙色のラインがある人は他の人となんか雰囲気が違うなって」 「あれか。店でレジを急かされたりしてるのか?」 「そんな事はないですけど、周りの人が『あの人たちは特殊部隊のエリートだから』って」 「くだらないな。インセンティブが完全成果主義なだけでエリートではないよ。それを言うならバンカーの方がずっとエリートだ。俺はただの相場師だからな。だが、プライドを持って仕事をしている。大手の証券会社で二百人近いディーラーを抱えているのは菱沼証券だけだ。だから他のセクションで出した損失を埋めるぐらいの気持ちで俺は仕事をしてる。――あ、エリートって実は悪い意味だったりする?」 「悪くないです。でも、なんだか遠いというか、雲の上の存在だなって」 「そうか。周は金を稼ぐ事をどう思う?」 「お金ですか? ないと困ります。そのために僕は仕事を始めました」 「だよな。日本人は大金を稼ぐ事をよしとしない。清貧なんて言葉があるくらいだ。……馬鹿馬鹿しい。しっかり稼いで、その金を使う。経済を回す。それが人のためになるんだ。金を儲ける事はきちんと人の幸せに繋がっている。ひいては世の中のためになっている。それを知らずに綺麗事ばかりを言う奴が、この国にはあまりにも多すぎる。全く、嫌になるよ」  大神は小さく息をついた。  誰かを思い出しているのだろうか。その横顔が凄く寂しそうに見えた。  高速で都内を抜けて海に向かった。地下の駐車場に車を止めて外へ出るとそこはもう海だった。 「わぁ、凄いなあ」  横断歩道を渡って海岸線まで出る。コンクリートでできた階段を下りると砂浜が見えた。 「おいで」  大神が手を引いてくれる。スニーカーが砂に埋まって歩きにくかったが、大神のおかげで躓かずに歩けた。  ――指先が熱い。  触れている手のひらに全身の神経が集中している。  男らしく大きな手。長く頑丈な指。節が少し硬くて、胸が騒ぐ。  あの日もそうだった。  突然、手を取られて引っ張られた。  夜の歩道を二人で走って、生温い夜の風がふわりと頬を撫でた。  タクシーまでの距離が永遠にも思えて、時が止まったように感じた。そして、幸せってこんな事なのかなとも思った。足がふわりと浮く感触と目の奥が熱くなって視界が開ける感じ。きっと大神にとってはなんでもない事だったのだろう。今だってそうだ。こうやって手を繋いでも大神は普通の顔で笑っている。  ――でも、僕にとっては違う。  今だってずっと心臓がドキドキしている。  大切で、尊くて、特別な事。  ずっとこうしていたいと思う。こうしていられたらと思う。  一体、どうしたのだろう。  ただ手を繋いでいるだけなのに涙が出そうになる。 「波打ち際まで行こう。靴は脱ぐか」  大神はそう言うと、その場で跪いて周の靴を脱がせてくれた。 「俺の肩に手を置いて」  周が揺らめくと大神は笑った。肩に手を置くと今度は靴下を脱がせてくれた。つるりと果物の皮を剥くように手際よく脱がされる。 「綺麗な足だな。爪が桃珊瑚みたいだ」  大神はうっとりとした様子で言った。もう片方も同じようにしてくれる。 「若いなあ」 「あ……くすぐったい」  足の指をちょんちょんとくすぐられて声が洩れた。  砂の上に足を置く。六月のせいか砂浜はまだ少しだけひんやりしていた。その感触が気持ちいい。すぐに走り出して波打ち際まで近づいた。  波の音。潮の匂い。わずかにべたっとする潮風。  事故に遭ってから海に来たのは初めてだった。周の中で海に行くのは海外旅行と同じくらい遠い出来事だった。行こうと決心して、何日も前から計画を立てて、行き方を調べて、初めて行ける場所だった。それなのにこんなにも簡単に来られた。大神が連れてきてくれた。  爪先が濡れるか濡れないか、ギリギリの所で遊ぶ。勢いをつけて海岸線を走った。海の水は冷たかったが、とても心地がよかった。リズムのいい鼓動が耳に響く。最高に楽しい気分だ。  周のそんな様子を大神は少し離れた場所から見ていた。振り返ると大神が手を振ってくれた。周も慌てて振り返す。そうしているうちに陽が傾き、西の空が茜色に染まった。  ああ、綺麗だ。  世界が夕焼け色になる。  空も波も砂浜も、夕陽を受けて橙色に光っている。手のひらを見ると同じ色で、そこにも太陽があるような気がした。何もかもが隙間なくオレンジ色に染まっていく。 「周。おいで」  ふらふらと引き寄せられるように大神の下へと近づく。あと少しという所でふわりと抱き締められた。  体が揺れる。  大神の筋肉の感触が自分の頬と胸に触れた。何が起きているのか理解できなかった。 「海の匂いがする……」  大神が周の耳元で囁いた。波の音に混じって、大神の低く甘い声が響く。 「周」  名前を呼ばれて顔を上げた。すぐに自分の顔が影になって夕陽が見えなくなった。  ――あ……大神さんの匂い。  一瞬、ほんの一瞬だった。  離れて初めてそれがキスだったのだと気づくほどの優しい重なりだった。  唇が熱い。心臓が体の中心で変な音を立てている。血液が沸騰しながら全身に巡っていた。  二人のわずかな隙間に風が吹く。 「君を好きになった」 「え?」  冗談だと思った。けれど、大神の目は真っ直ぐ自分を見ていた。  これは……夢だろうか。 「俺の恋人になってくれる?」  言葉が出ない。けれど、嬉しかった。  事故に遭って目が覚めた時、自分は夏休み明けの中学一年生――十三歳の少年だった。  突然、両親が死んだと言われ、君は高校三年生なのだと告げられた。意味が分からなかった。昨日まで夏休みで部活をしていたのに鏡を見たら本当に高校生の姿をしていた。十三歳の顔じゃない。それまでの自分はどこに行ってしまったのだろう。五年分の自分は一体どこへ……。自分はまだ十三歳の子どもなのに……。目の前が真っ暗になった。 「眩しい……」 「ん?」 「なんだか……凄く眩しいです」  周は事故に遭ってから初めて、自分の人生に光が射した気がした。

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