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【8】side Amane……ただ、あなただけを

 村上から話を聞いた日、周はショックで眠れなかった。  自分とは遊びだったと……それも恋愛ではなく肉欲を満たすための大人のゲームだったと知って、目の前が真っ暗になった。大声で叫んで、泣いて、泣いて、泣き続けて、夜の街を歩き回った。一晩歩いても眠くならず、涙も枯れず、足も痛くならなかった。それよりも心が痛くてどうにかなりそうだった。こんなに心臓が痛いのにどうして自分は死なないんだろうと思った。  けれど、心のどこかでこんな日が来る事は分かっていた。  夢を見たのだ。  とてつもない夢を。  夢はいつか終わる。目が覚める。  最後は悲しかったけど、いい夢を見た。大神はたくさんのものをくれた。周に溢れるほどの美しい景色を見せてくれた。海に沈んでいく夕陽や、ビルの夜景に浮かぶ満月を。恋した時の空の青さや太陽の眩しさを。本当に綺麗だった。きっとこれは一生の宝物だ。だから自分はもらった宝物を胸に生きていく。生きていける。 「ありがとう、大神さん」  周は大神からもらったクッキーに手を伸ばした。  今からこれを食べよう。大神が幸せになるようにそう願って食べよう。  袋を開けようとした所で涙がこぼれた。  大神の幸せを願っている。心の底から願っている。  でも、食べられなかった。  もったいなくて食べられなかった。これで本当に大神が自分の人生から消えてしまう気がした。それだけじゃない。  大神の未来を願いながら、自分はきっと違う事を願ってしまう。それが、本能的に分かった。  食べながら多分、僕はこう思うだろう。こう思ってしまうだろう。  神様お願いします。  どうかもう一度、大神さんが僕の恋人になってくれますように――。  空虚な夏が終わり、季節は秋になっていた。  村上とは仲直りをして元の関係に戻った。多少のぎこちなさは残ったが、村上は周を受け入れてくれた。本当に少しずつだったが、周は確実に大人になっていった。  毎日、一生懸命仕事をして、休みの日は部屋の掃除をする。料理も下手くそだったが覚えた。シャツにアイロンを掛けられるようになり、少ない洗剤で皿を洗えるようになった。仕事場で大神の姿を探す事もなくなった。大神は当然のようにコンビニに来なくなり、会えなくなった。それでいい。あの広いビルの中で一緒にいる。その事だけで幸せになれた。  休憩時間。いつものようにサロンに向かう。お決まりの席に座ってサンドイッチを食べ始めると、周の前に座っている男性が何か噂話を始めた。IDカードを見ると菱沼フィナンシャルグループとある。菱沼銀行の行員だと分かった。 「にしてもさ、証券の奴らはえげつないな。こっちも同じビルでディールしてんのに、俺たちがちょっとでも損失を出したら平気でぶっこんできやがる。大体、あいつらはテロや戦争、災害が起きるたびに、これ幸いと涎を垂らしてディールするハイエナ集団だしな」 「ま、あっちは儲ける事が正義だからな。同じディーラーでも俺たちバンカーとは思想が違うんだよ。ディーリングルームの鬼神? だっけ、あの大神とかいう部長。あいつがちょっとヤバいんだよ。おまえ知ってるか。奴がうちの銀行に来なかった理由。あいつの父親、メガバンクになる前の菱沼銀行に殺されたんだってよ」 「殺された?」 「親父が町工場の社長で、携帯電話かなんかの部品を加工する仕事をしてたらしいが、不渡りを出して会社を潰した上に、借金が返せず自殺したらしい。それもこれも菱沼銀行が融資を打ち切ったからだって」 「ハッ、よくある話だな。その辺にごろごろ転がってる不幸話だ」 「だろ? けどその額が五百万だったらしいぜ。それで父親が母親と無理心中したらしい。だから、恨みを晴らすように大金を稼いでる。菱沼銀行の入ったこのビルでな。たまんねぇよな、そういうの。俺たちのせいじゃねぇっつーの。貧乏人の逆恨みは怖ぇよな」  二人の男は笑いながら顔を顰めている。気がつくと周は二人の前に立っていた。 「大神さんは、そんな人じゃありません!」 「……なんだ、おまえ」 「大神さんは、ハイエナじゃありません。優しくて温かい人です。あなたたちなんかよりもずっと、いい人です。心根の綺麗な人です!」 「ん? おまえコンビニの店員だよな……なんなんだよ、ったく」  二人は周を不審そうに見るとすぐに無視して別の席に移った。  周は両手の拳を握り締めて震えていた。  あの海へ行った日、大神が車の運転をしながら寂しそうな顔をした意味がようやく――分かった。  周は自分の言った言葉を反省していた。素直に大神に謝りたくなった。許してくれるだろうか。分からない。けれど、どうしても謝りたかった。会って、顔を見て、謝りたかった。その日から周はビルの外で大神が出てくるのを待った。最初の何日かは会えなかったが、金曜の夜、覚悟を決めて何時間も待っているとようやくその姿が見えた。コートを着た大神がこちらに向かって歩いてくる。  ――ああ……やっぱり好きだな。  向こうもすぐに周の存在に気づいた。  なんでだろう。大神を見ただけで涙がこぼれた。 「大神さん……」  まだ人がいる。大神と同じ会社の人もコンビニの店員もいるかもしれなかった。それが分かっているのに足が止まらない。弾かれるように体が動いた。駆け寄って抱きつくと、大神は何も言わずに両腕で抱き締めてくれた。  大神の匂いがする。香水の匂いに混じって煙草の香りがした。その温かく逞しい体に溜息が洩れる。 「あなたに謝りたい事があるんです。どうしても、謝りたくて……」  周が消えそうな声でそう言うと、大神は「俺も」と言った。  久しぶりに聞く甘い声に心臓が切なく跳ねる。  好きだったんだと思う。  こんなにも好きだったんだと。  心拍数が上がって、呼吸も苦しいのに、驚くほど安堵している。  ずっとこうしたかった、どうしてもこうしたかった。それが叶って嬉しい。本当に嬉しい。自分の細胞の全部がそう言っている気がした。  本当に好きだった。一日だって忘れた事はなかった。  幸運のクッキーをもらったあの日からずっと――。  大神は周の部屋に行きたいと言った。まだ金魚に挨拶していないからと、子どもみたいな顔で呟いた。それが嬉しかった。電車の中では無言のまま、ずっと手を繋いでいた。話さなくても分かる。会えない間も自分と同じように大神が周の事を思っていてくれたのが分かった。本当は愛されていたんだと思った。  部屋に着くと周は大神にコーヒーを淹れた。インスタントコーヒーではなく、きちんとドリップ式で淹れたコーヒーだった。 「練習したんです」 「練習?」 「大神さんがコーヒー好きだったから」 「そうか……」  大神と別れてからも周はずっと大神の事を考えていた。 「どうぞ」  白い湯気の立ったマグカップを渡す。 「ありがとう。いい匂いだ」  大神は一口飲むと、美味しいと呟いて笑顔になった。周は大神が脱いだコートをハンガーに掛け、落ち着いた頃に話を切り出した。 「大神さんのお父さんの話を聞きました。グランノースタワーのサロンで、菱沼銀行の人が噂話をしてて、それで……」 「そう……」 「あんな酷い事を言ってしまって、本当にごめんなさい。壊れてるとか、心に穴が開いているなんて……何も知らないのに、大神さんを傷つける事を言ってしまいました。本当にごめんなさい」 「別に、謝る必要はない。それは事実だからな。俺が壊れてるのは事実だ。嘘じゃない」 「そんな……」 「俺の親父は、たった五百万の金が返せなくて死んだんだ。五百万……そんなはした金でな。今の俺なら数秒で稼げる金だ。俺は考えたよ。その時はまだ中学生だったが、考えた。五百万の意味を。親父が死ななければならなかった意味を。だが、どれだけ考えても答えは分からなかった」  大神は遠くを見つめるような顔をした。父親の事を思い出しているのだと分かった。 「金を稼いだら分かるかと思った。だから俺は己の才能だけで金が稼げるディーラーになった。ギリギリのディールを幾度もこなし、地獄の縁を歩きながら、それでも前に進んだ。何度も死にそうになりながら勝つ事だけを考え、実際に勝ち続けた。たった数時間のディールで体重が二キロ近く落ちる事もある。決して甘い世界ではない。そんなディーラーとしての人生を歩んで初めて金を稼ぐ本当の意味が分かった」 「お金を稼ぐ意味……」 「そうだ。金は道具だ。生きる意味じゃない。俺の両親のように金に人生を変えられてはいけない。よく金が人を変えると言うがそれは違う。人が金で変えなきゃいけない。置かれた立場を、理不尽な出来事を、詰みそうになった人生を。だから俺は金を稼ぐ。自分と世界のために」  大神が言っている事はなんとなく分かった。大神は痛ましい出来事で両親を亡くしたが、それを恨む事なくこれまで一生懸命頑張ってきた。仕事に対しても自分なりの信念と正義を持って取り組んでいる。だからこそ、ここまでやってこられた。決して運のいい苦労知らずのエリートではなかったのだ。 「……大神さんの気持ち、分かります」 「そうか?」 「はい。僕も両親を亡くしているので……。でも、その環境に左右されるんじゃなくて、僕も自分の人生を自分の力で変えていきたいなって思っています。大神さんと出会って、そう思えるようになりました。色々あったけど、大神さんにはありがとうって言いたいです」 「ありがとう……か」 「そうです。僕はずっと大神さんに感謝していました。あと、やっぱり好きです。出会った日から、ずっとあなたの事が好きでした。今も、変わらず好きです。大好きです」 「周……」 「毎日、あなたに会える、ただそれだけで幸せでした。本当に幸せだった……」  視線が合う。そのまま優しく抱き締められた。  大神の腕の中が、ここが自分の本当の居場所なんだと思える。嬉しさと安堵で心臓が音を立て、目尻に涙が滲んだ。 「俺の方こそ、すまなかった。村上に言った言葉は本音じゃない。俺はいつもああする事で、過去の自分と決別していたんだ。弱い自分を消そうとしていた。過去に何度も引き戻されそうになるのをどうにか思い留まって、今の自分を守り、弱い自分を上書きするために」 「もう分かってます。あなたが悪い人じゃない事は分かってる」 「周……」 「あなたは優しくて温かくて心根の綺麗な人です」 「……それは君の方かもしれないな」 「え?」 「周に愛されて初めて分かった。人を愛する事の意味が分かった。周の事を守りたいと思った。毎日、その笑顔を見ていたいと思った。だから、これからも一緒にいてほしい。君の事を心から愛している」 「大神さん……」 「愛おしいと思う気持ちも君が教えてくれたんだ。これは俺にとって最初で最後の恋だ。だから――」  大神が真っ直ぐ周を見る。  時間が止まった気がした。 「俺の一生の恋人になってくれるか?」  あの時と同じ言葉が違う響きで心に届いた。  ――ああ……幸せだ。  初恋の痛みが消え、相手を思いやる優しさへと変わる。  叶わぬ願いが満たされて胸がいっぱいになり、言葉より先に涙が溢れた。 「もちろんです。今度こそ僕を本当の恋人にして下さい」  人を好きになって分かった事がある。  相手が誰といようとどうしようと、とにかく幸せになってほしい、そう思えたら本物の愛なのだと。  だから僕はこれからも大神の幸せだけを願う。  永遠の恋人になれなくても構わない。自分が傷ついても構わない。  ――あなたが幸せなら、僕は本当に幸せだから。  了

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