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【7】side Ogami……代償
「大神さんは幾つなんですか? 家族とかいるんですか? お仕事はずっとディーラーなんですか?」
「どうした? 今日は質問責めだな」
「あっ……なんか、ごめんなさい」
「いいよ。そんな風に興味を持ってくれるのは嬉しい。愛されてる気がするな」
「もちろんです」
大神は自宅のソファーの上で、自分の膝に頭を置いている周の髪を撫でていた。
温かな日曜の午後の日差しが、周の美しい黒髪を眩いほどに輝かせている。産毛の光る額や白い頬も、指の背で同じように撫でた。
大神は不思議な気持ちがしていた。
周と付き合い始めた頃はどうやって自分が楽しめる男に育てようかと、そればかり考えていたが、気がつくとそんな事を思わなくなっていた。周といる時間を何よりも大切に思い、心が落ち着いている自分を感じている。
日々、荒々しい感情が上書きされていく。
――どうしてだろう。
恋愛はディールのように心が騒ぐものだと、これまでずっと思っていた。
背筋がゾクゾクするような興奮、アドレナリンが全身を駆け巡るような快楽、灼けつくような葛藤と叫び出したくなるような達成感。それが欲しくて恋をゲームのように楽しんでいた。事実、楽しかった。大神のこれまでの恋愛は全てそうだった。
けれど、周と出会ってから、それを無意味なものに感じるようになった。
穏やかで安らかな気持ち。心が凪ぐような安堵感。
以前だったら笑ってしまうような心の安寧をこの男に本気で求めている。
気づかぬうちに自分が変えられてしまったのだと思った。そして、それこそが恋の正体である事に大神は薄々勘付いていた。
まさか、この自分がそうなるとは……。
――恋をしているのだろうか。
それも、本気の恋を。
大神は周の頬を撫でながら心の中で苦笑したが、その指先は微かに震えていた。
「ちょっといいですか?」
仕事を終えてグランノースタワーを出た所で男から声を掛けられた。数日前から後をつけられていた事を知っていた大神は全てを悟った上で頷いた。
近くにあるカフェに入ると男はテーブルの上に名刺を差し出した。医療ソーシャルワーカーとあり、周がよく口にする村上という男なのだと分かった。
「私は長月周くんを担当しているMSWの村上と言います。単刀直入に言います。彼と別れて下さい」
いきなり切り出されて戸惑ったが、大神は冷静に言葉を返した。
「どういう事かな?」
「あなたも知ってる通り、あの子はまだ子どもです。世の中の事を何も分かってはいない。あなたの遊び相手になるような男じゃないんです」
「確かに子どもだ。だが、セックスはできる。体は大人だからな」
「やはり、あなたは俺の思った通りの人間だ。最低で、吐き気がします。今すぐ、別れて下さい」
「どうして、それを君が決める? 決めるのは彼だ。……ケースワーカーとやらは下の世話までするのか?」
大神が露悪的に呟くと、村上は弾かれたように立ち上がって大神の胸ぐらをつかんだ。
「金持ってるエリートだからって調子に乗るなよ! なんでも手にできると思ったら大間違いだ。俺は二十五から五年間も彼を見てきた。ずっと大切に思ってきたんだ。それなのに――」
ぐっと唇を噛み締めた村上を、大神は冷静な目で睨みつけた。
「欲しいものを手に入れて何が悪い。大金を稼いで何が悪い。できもしない奴ほど努力をしている人間に噛みつく。おまえのようにみっともなく吠える。俺は欲しいものがあったら血を吐いてでも手に入れる。何があっても手に入れる。たとえそれが一時の性欲を満たす玩具であってもな。おまえのような負け犬とは違うんだ」
「……このままだと周が壊れてしまう。あの子がどういう子か、あなたは分かっているはずだ。けど、最後に壊れるのは周じゃない、あんたの方だ!」
「俺に八つ当たりしても無駄だ。本当に大切なものを手に入れる勇気のなかった自分を憎め」
大神は茫然としている男を残して店を出た。
全く忌々しい。
村上と話した日から周と連絡が取れなくなった。想像はしていたが、周があの男の言葉をあっさり信じるとは思えなかった。周は自分に惚れている。それは動かしがたい事実で大神の前から周が姿を消す事はありえなかった。
――くそが。
苛々した。
大神はそれから何度も周に声を掛けた。仕事が終わるのを待ち伏せしたり、部屋まで訪ねたりもした。大神の努力もむなしく、どれだけ時間と労力を掛けても周の心が変わる事はなかった。
ある夜、どうしても話がしたかった大神は、逃げる周を追い掛けて声を掛けた。手首をつかんで話をするまでここから動かないと言うと、諦めた様子の周は十分だけ話を聞きますと言って夜の公園に向かった。
鉄製のベンチに並んで座る。久しぶりに嗅ぐ周の匂いに胸が締めつけられる思いがした。
「村上さんから全部、聞きました。僕とは遊びだったって」
「周……」
「凄くショックでした。僕は大神さんの事が本気で好きだったから。でも、ホントの事を言うと全部、分かってたんです。そんなの最初から分かってた。大神さんのような凄い人が僕を本気で好きになるわけがない。誰が見たってそう思う。ちゃんと分かってました。分かっていたんです。でも……分かってたけど、好きだったから諦め切れなかった。どうしても信じたかった。だってあなたは、僕にとって生まれて初めてできた恋人だったから」
周はそう言うと真っ直ぐな目で大神を見た。
「あなたの事、本当に好きでした」
「俺は――」
「凄く凄く、幸せでした。毎日がきらきらと輝いて、心が前向きになって、事故に遭ってから初めて自分は生きてていいんだって、そう思えた。大神さんからはたくさんの事を教えてもらいました。美味しい料理や綺麗な景色や、仕事の事。一緒に行った水族館では魚の薀蓄まで教えてくれた。大神さんはそれが好きな僕なんかよりずっと詳しかった。本当に感謝してるんです。でも、もう――いらないです。大神さんがくれるもの全部いらない」
周の目に大神を責めるような色が滲んだ。けれど、それは一瞬の事で、すぐに涙の膜が張った。見た事のないような切ない表情に変わる。あなたを憎みたいけど憎めない。周の目はまるでそう言っているようだった。
「僕がこんな事を言ったら、多分、大神さんは怒ると思います。気分を悪くすると思います。だから、すぐに忘れて下さい。――大神さんは壊れてる。酷く、どうしようもないほど、救いようがないくらいに壊れてる。理由は分かりません。でも、僕はそんな大神さんを見て可哀相だなと思いました。あなたは完璧な人間で、なんでも持ってるし、なんだってできる。誰かが何かをあなたに求めたら、あなたはそれを完璧に与える事ができる。本当に神様みたいだ。でもあなたはまるで、全てを手に入れるためにそれを差し出したかのように――中身が壊れてしまっている。僕の勘違いかもしれません。でも、人の気持ちを弄ばなければいけないほどの心の穴があなたにはある。それが孤独のせいなのか空虚さのせいなのかは分かりません。――僕にはあなたを救えない。どうか、幸せになって下さい」
周はそれだけ言うと夜の公園からいなくなった。周はベンチから立ち上がって噴水を越え、公園の入り口を抜けるまで一度も振り返る事はなかった。
その後ろ姿を見て、大神は初めて理解した。
――俺は……とんでもないものを失ってしまった。
とてつもない愛を与えられ、そして同時に失ってしまった……。
唐突に、体が崩れ落ちそうな墜落感に襲われる。
苦しい。息ができない。心臓が潰れそうだ。
どうしたというのだろう。
馬鹿馬鹿しいと呟きながら、乾いた笑いを洩らす。気がついたら大神は泣いていた。そんな風に涙を流すのは生まれて初めての事だった。
周を初めて見た時、あの笑顔を初めて見た時、大神の心が動いた理由が、今、ようやく分かった。大神がずっと抱えていた心の欠損を埋めてくれたのは、世界でただ一つ、周の笑顔だけだった。あの笑顔が、あの優しさが大神の穴を埋め、心のずれを治してくれた。知らないうちに全てを満たしてくれていた。だからこそ、心が平穏になり愛の本質に触れる事ができた。本当の愛を知る事ができたのだ。
気づかなかった。気づけなかった。それなのに自分は一体、彼に何を与えられたというのだろう。
絶望と喪失感に足元をすくわれ、大神はその場から動けなくなった。胸を突かれるような痛みにただ一人、耐えた。
痛い、痛くてもう死んでしまいそうだ……。
だが、何もかも、もう遅い。
これは罰だ。自分が受けるべき罰だ。全ては自分が招いた事だった。
――俺は……。
大神は誰もいない夜の公園で涙も拭わずに一人泣き続けた。
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