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【6】side Amane……好きで、好きで
大神とキスをしたあの日から世界が変わってしまった。
大げさではなく、本当に。
大神に好きだと言われ、恋人になってくれと告げられた時、冗談だと思った。すぐには信じられなかった。けれど、大神は本気だった。その後も大神は優しく接してくれて、自分の事を一番に考えると言ってくれた。今日だって夕食がコンビニの弁当だったと言ったら、体によくないから続けて食べないようにと注意された。そして週末は一緒に食事に行こうと誘ってくれた。
大神がくれた言葉やメッセージの内容を心の中で繰り返す。まるでお守りみたいに。
――大神さん。
自分が恋をするなんて思ってもみなかった。
誰かを好きになるなんて……思ってもみなかった。
これまで自分はずっと、失くした人生を取り戻すために頑張ってきた。知らない場所を何度も訪ねたり、過去に自分がしていた事や、好きだったはずの本や音楽に解決の糸口を求めたりもした。認知の訓練と治療も受けた。けれど、何も変わらなかった。
――何かの拍子に一気に記憶が戻る事もあるよ。でも、一生戻らない事もある。
担当医は平坦な声でそう言った。
一生、戻らない。
自分はその欠損を抱えたまま生きていかなければならない。絶望の中で一人思った。
昨日まで一緒に遊んでいた友人は皆、違う高校へ進学していて別の人間関係を築いていた。お見舞いに来てくれた友達は知らない人だった。記憶を失くす事は人生そのものを失くす事と同じだった。自分はあの事故で過去と同時に、未来も失くしてしまった。
辛かった。本当に辛かった。これまで一生懸命、命がある事に感謝して生きてきたけれど、絶望に押し潰されそうになった事もあった。苦しくて何度もくじけそうになった。
でも――
そんな自分に大神はありのままでいいと言ってくれた。
失くしたものを数えるのはやめよう。これからもっといい記憶を積み重ねていけばいいと、優しく慰めてくれた。それが本当に嬉しかった。
もう自分を取り戻さなくていい。今のままの自分でいい。
そう思ったら未来が開けた。これから、もっと頑張っていこうと思えた。
温かな光と明るい未来。大神にそれを見た気がした。
――大神さん……。
いつも心の中に大神がいる。
不思議だと思った。人はどうして恋をした事がなくても、これが恋だと分かるのだろう。恋愛も人を好きになる事の意味も何も分からなかったけど、この気持ちは間違いなく恋なのだと分かった。分かってしまった。
――好きだ。僕は、大神さんが好き。
大人だとか男同士とかそんな事を一切、考えられなくなるほど、周は大神の事を好きになってしまった。
久しぶりにソーシャルワーカーの村上が家に来た。
キッチンと続きになっている居間に村上が慣れた様子で座っている。周はいつものように丸テーブルの上にお茶を出した。
「久しぶり。凄く元気そうだね。顔色がいい」
「はい。ありがとうございます」
どうしたのだろう。村上は少しだけ驚いた顔をしている。
「仕事も問題なくできているんだね」
「はい。最初の頃は失敗ばかりで周りのみんなに迷惑を掛けていたんですけど、最近はようやく仕事ができるようになってきました。掃除や棚出しはもちろん、レジ業務も忙しくない時は一人で任されています」
「へぇ、凄いじゃないか。よかったね」
「凄くはないです。グランノースタワーだと他の店舗と違って、公共料金の支払いや宅配便がほとんどないので楽なんです」
「そうか。やっぱり、あそこにしてよかったね。客層もいいだろうし」
周は村上に礼を言った。本当にそうだと心の中で頷く。あそこで働いたからこそ大神に出会えた。
「病院はどう?」
「あの……それなんですけど」
周はここの所、ずっと考えていた事を村上に話した。
「病気の治療は一回、お休みにしたいなと」
「どうして?」
「……今までずっと五年分の記憶を取り戻そうと必死になってたけど、それをやめようかなって」
「やめるって、どういう事?」
「取り戻そうって無理するのをもうやめたくて……。僕が失くしたのはエピソード記憶だけで手続き記憶は失くしてないし、生活もちゃんとできてる。だから、もう過去は考えずに、これからを一生懸命生きていきたいんです。きちんと前を向いて生きていきたい」
「…………」
村上は難しい顔をして黙り込んでしまった。しばらくの間、沈黙が続いた。
確かにこれまで村上は病気の事で誰よりも親身になってくれた。相談に乗ってくれ、治療が嫌になった時やそれを諦めかけた時も、いつも大丈夫だと慰めてくれた。そのおかげで自暴自棄にならずに済んだのだ。
周は場の雰囲気を変えるために立ち上がってお茶を淹れ直した。
「それ……どうしたの?」
村上は少し言い辛そうに首筋を指差した。
「え?」
「キスマークだよね、それ」
周は慌てて首筋に手をやった。
「周が変わったのって、それのせい?」
急に村上に距離を詰められていい言い訳が思いつかなかった。
「恋人ができたのか。同じ店の人?」
「そ、それは――」
どうしたのだろう。村上の目が怖い。初めて見る、鋭く刺すような冷たい目だった。
「周はもう十八歳だから恋人ができてもおかしくはないけど……そんな風に周が変わったのは恋人のせいなんだね」
「せいって……そんな……」
その言葉がどうしてか心に引っ掛かった。暗に責められている気がした。
「大神さんは悪い人ではありません。凄く優しいですし、ちゃんとしたいい人なんです」
「幾つなの、その人」
「年齢は……年齢は――」
「歳も知らない相手とそんな行為をするのか。周らしくない」
「ち、違う」
「だって、知らないんだろ? 知らないのにセックスするの?」
セックス。自分と大神がしている事は本当にそうなのだろうか。
粘つく村上の言葉に二人の関係が穢された気がした。違う。そんなんじゃない。心臓がキュッと縮む。自分と大神がしているのは、もっと尊くて崇高なものだ。それに、大神とはまだ最後までしていない。大神はそれを急ぐ風でも、周に無理やり何かするわけでもなかった。二人はちゃんと愛し合っている。慣れない行為に戸惑いはしたけれど、決して嫌ではなかった。
村上がふと居間の奥に置いてあるベッドに目をやった。立ち上がってサイドボードの上を見る。
「……名刺とクッキーがあるな。菱沼証券……統括部長? 大神――」
名刺に書かれた名前を見て村上が息を呑んだ。
「相手……もしかして男なのか?」
「…………」
違うとも言えず周は下を向いた。
「騙されてるよ、周」
「そんな――」
「悪い事は言わない。傷つく前に別れた方がいい。……大体、歳も知らない相手と、しかも証券会社の部長って……歳だけじゃない、生きてる世界も立場も全く違うだろ?」
「それは、そうだけど」
「周は見た目が綺麗だから、その手の人間にモテるんだよ。モテるっていうのは少し違うかな。病気の事もあるし、いいようにされてるだけだ」
「いいようにだなんて、そんな――」
「簡単なんだよ。凄く簡単な事だ」
「簡単って?」
「大人が子どもを騙すのは、とても簡単な事なんだ」
「…………」
「周はまだそれを知らない。だから俺が――」
「もういいです。出て行って下さい」
「周?」
「む、村上さんにはこれまで本当によくしてもらいました。心から感謝しています。……でも、それとこれとは話が別です。僕のプライベートな部分にまで、村上さんが踏み込んでくる権利はない」
声が震えた。
「それ本気で言ってる? 俺は二十五歳から五年間、ずっと君を見守ってきた。弟のように大事に思ってきたんだ。今も心配して、こんな嫌な事を言ってるのに……周は一緒に頑張ってきた俺の言葉を信じずに、その男の言葉を信じるのか? 出会ってすぐのよく分かりもしない男の言葉を。……だったら、もう何も言う事はない。好きにすればいい」
「あ……あの、村上さん」
村上は周の方を一瞥すると、跳ね上げるような乱暴さで鞄を拾い上げて、無言のまま部屋を出た。
バタンとドアの閉まる音がする。
息が詰まる。寒くもないのに指先が震えた。
――どうすれば、よかったのだろう。
村上を初めて怒らせてしまったと、周は思った。
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