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燃え尽きてしまうとそれが何だったのか急に分からなくなる。原型を留めていなくて、元の姿をハッキリ思い出せない。端っこの骨を箸で挟むとカサカサと乾いた音がする。すっかり軽いその物体は一体何だったのか、無機質過ぎて頭の中にある像と直結しない。箸を持った手を動かすとまだ包帯の下が痛んだ。
一日がかりの葬式の間、俺はずっと宍戸の匂いと感触を思い返して何度か密かに勃起していた。遺影の中の宍戸は品行方正な姿に取り繕われている。絵に書いたような優等生の優秀な息子という体で宍戸の身内が扱っている事に違和感しか沸かない。彼を知るクラスメイトは皆、そう思っていることだろう。彼は学校の中では王のようだった。
三階のトイレの一番奥の個室。
そこは彼の灰皿だった。気紛れに一服しにやってきてはトイレの小窓から外を眺めている。一人の時もあれば、二人の時もある。男子トイレの筈なのに女子が一緒の時もあった。優雅に煙を外に吐き出している姿を下から見上げた事が何度かあった。
彼は成績がとても優秀だったが、悪い遊びもそこそこ嗜んでいた。しかし、宍戸の名や彼自身の実績が彼を庇護していて、多少の事は誰もそれを問い正すことも出来ず、自由そのものだった。
彼のカリスマ性は天性のもので、良し悪しの線引きも身の振り方もとにかく絶妙だった。そのお陰でどんな悪さでも瀬戸際でグレーに留めておけたし、そこからエスカレートすることも無かった。掴み所のない印象にも関わらず不思議なほど彼に反発する者はおらず、彼に引き寄せられるままに抱き込まれていた。クラスの殆どの人間が魅了されていたように思える。それは教師も例外ではなかった。
「なぁ、知ってるか?アイツ、ウリやってるらしい。金出すって誘えばヤらせるって」
そんな噂がどこからともなく立ったと思えば一気に広まった。出処は未だに分からない。実際に俺は何人かと寝た。それは学校外での事で、相手は皆大人だった。俺はとにかく金が必要で、そのためには背に腹は変えられない状況だった。クラスメイト達は噂が立つなりすぐさま俺を避け始め、密かに罵ったり陰口を叩いたりしていた。更に事実確認のために教師に呼び出されもしたが、当の俺は客から上手い誤魔化し方を教わっていて全く焦りはしなかった。余裕綽々とした俺の態度に、教師はすぐ俺を解放した。何人か噂を鵜呑みにしたしょうもないやつが、微々たる金額を持って誘ってきたが、あれこれ理由をつけて断った。
俺は置かれた環境の何もかもがバカバカしく思えてその時はひどく冷めていた。親に守られなんの不安も苦労もなく、お膳立てされた生活に悠々とのさばっていられる輩が憎らしくもあったし、そんな奴らにどう思われようがどうされようが、俺は日々生きるのに精一杯で煩わしいだけでそれどころでは無かった。誰かに金で買われて夜を費やしても、ただ退屈でつまらない。そんな虚しいこととも知らず、浮かれて騒ぎ立てる脳天気な同世代を嫌悪しつつ、そんな事をしている自分も軽蔑した。けれど金さえ持っていれば、俺を置き去りにした親がどんなに行方をくらましても何とか生きていける。そのためだけに必死だった。夕方からアルバイトに勤しんで、夜は誰かと一晩を過ごす。そうやって手にした金はあっという間にあれこれの支払いで消えて、自由な金はほとんど無かった。
ホテル街からの帰り道、ふらりと近所の公園に迷い込む。何もかもがくだらなくて何故か笑えて仕方なかった。深夜のブランコを漕ぎながら、ポケットに突っ込んでシワになった紙幣に触れる。これがある限り、これに縋っていかなくてはならない。そんな状況がこれからも無限に続くような気がして、俺はもう失望していた。公に出来ない薄汚れた事をしてまで、自分がこの場に立っている意味など等に無いのではないか…そう思えた。ズルズルと引きずる割り切れない辛さに疲れ果てた自分を今日は肯定した。そして潔く終えようとあっさり決意した。それくらい限界だった。
せめて終える時くらいは思うがまま、パーッと好きなように過ごそうと考えを巡らせていたが、時間はもう深夜に近付いている。今から何かをするにしても、ファミレスかコンビニくらいしか店は開いていないだろう。ポケットの中の金で、好きなものを好きなだけ食べよう。ギリギリまで節制して口に出来なかったものを。そう思い立って俺は再びホテル街の方へ戻る。その先のファミレスを目指していた。
一番奥の端っこの席を選んでテーブルに思いっきりメニュー表を広げる。選び出した二つのメニューの間で注文を決め兼ねていれば、少し騒がしい数人のグループが店に入ってくる。下品な笑い声が少し響いて、俺は微かな苛立ちを感じた。広げていたメニュー表を立てて、周りと自分の席を遮断する。騒がしい音を聞かぬようにバッグの中のイヤホンを探していた。
「羽多野」
メニュー越しに不意に話しかけられる。恐る恐る顔を上げ、向こう側を覗けばクラスメイトの宍戸がテーブルを挟んで俺の向かい側に座っていた。いつの間に座ったのか全く気が付かなかった。先程来店した面々が宍戸を呼んでいる。しかし彼はその席を立たず、共にここへ来たのであろう彼らに対し、一言「飽きた」とだけ告げた。
改めて俺に向き合うと彼は立てていたメニューを倒し、またテーブルに広げて目を落としている。居座る気でいるらしい事に驚きを隠せない。クラスでもほとんど接点のない俺に、なぜ急に宍戸が接触してきたのか、これはその後も明かされない謎となった。
「肉、食いたい?」
あまりにも自然と宍戸に話し掛けられて呆気にとられている。宍戸はお構い無しのようだった。
「俺、これにする。羽多野は?同じの?」
既に呼び鈴を鳴らしながらメニューの写真を指差す宍戸の人差し指に、変わったデザインの指輪を見つける。太めのリングに複雑な形のエンブレムと、見たことのない文字がぐるりと囲むように刻まれている。
「気になる?これな、…呪いの指輪」
俺の視線に気づいた宍戸が指輪を外してテーブルの中央に置いた。注文を聞きに来た店員に勝手にステーキのセットを二つ頼むと、お冷の氷を口に入れてガリガリと噛む。
「なんで、そんなの付けてんの?」
ようやく絞り出すように尋ねると、宍戸はニッと笑う。
「つまんないから、早く人生終わるように」
俺はドキッとした。冗談だとしてもまさか宍戸がそんな事を考えるとは思わなかった。さっきの公園のブランコを思い出す。俺は今夜、人生を終わらせようとしてる。
「……宍戸は、まだまだ何でも出来そうじゃん。楽しめるだろ?」
苦笑いを浮かべていると思う。宍戸は裕福で自由だ。俺とは何もかも対照的で、まるで違う人生を進んでいるはず。だと言うのに、それが不満なのだとしたら…俺は一体何だ。皮肉が不快さを産む。
「楽しいとか、そう感じる中身があればな…」
溜息混じりにそう応える宍戸の目をやっと見た。それは信じられない程に底冷えして空虚だった。宍戸のイメージを簡単に塗り替えられるほどに。普段の明るい振る舞いが全て演技なのだとしたら、それは相当に精神が疲弊することだろう。彼の抱えたこの翳りこそが、もしかしたら彼のカリスマ性の芯なのかもしれない。飄々としているように見えてなぜか放っておくことの出来ない危うさはここから来ていると俺は知った。
彼と向かい合わせで肉を食う。まさかこんなシチュエーションになるとは全くもって思いもよらなかった。ステーキがテーブルに並べられるなり、彼は二つの皿を自分の前に置き、丁寧に二枚分の肉を一口大にカットしにかかる。
「肉、嫌いじゃないよな?」
静かにそう問いながら宍戸がナイフとフォークを手に、赤い肉汁を滲み渡らせながら柔らかく色鮮やかな肉片を優しい手付きで引き裂いていく。とても巧みな仕草に見えた。
「何で、俺の所へ…?他の友達と遊んでいたんじゃないのか?」
恐る恐る聞いてみた。
「友達…?アレが?俺はただの金づるだよ。俺の散々な噂は聞いてるだろ?ヤる女と悪い薬と、遊ぶ金と。それが目当てで集ってるだけ」
苦笑しながら答える内容に少し驚愕する。彼が加担している事や物の後ろ暗さが思っていたよりも重かった。隠し抱えている事の大きさは俺よりも大きいのではないだろうか。
「俺も聞いてるよ、羽多野の噂」
俺の目の前に綺麗に切り揃えたステーキの皿を戻しながら宍戸は微笑む。背筋がゾワリと悪寒に震えた。俺を脅すつもりなのだと思ったのだ。
「か、金は…やれない…」
「金が必要だから稼いでるんだろ?分かってるよ」
掴めない、噛み合わない。
焦りを感じる俺とキョトンとしながら肉を食べ始める宍戸と、俺にとっては息苦しい食卓になった。
「気にしないで食えよ、奢る」
俺は少し考えた。今日で何もかも終えるものを、なにも先の脅しに怯えることはない。もう少し自由を味わってみたかったが、自分の人生などこんなものなのだろう。決別するために必要ならば仕方がない。ゆっくりと深呼吸をして、ポケットの中の紙幣を全てテーブルの上に差し出した。
「これが全部だ…」
肉を頬に詰めながら、宍戸は少し皺になった金と俺の顔を見やる。
「何を勘違いしてるか知らねぇけど、金は要らない。飯は奢る。ただそれだけだ。別に、俺は羽多野がどんな稼ぎ方してようが気にしねぇし、もしヤバイ事してるとしても、俺はそれを咎めたり脅したり出来るようなクリーンな奴じゃない。寧ろ俺の方が汚れてるから羽多野に叩かれたら困る。俺はただ、クラスメイトと普通に飯が食いたいだけの寂しい奴、な?さ、食お」
出された金を押し戻すと宍戸は無邪気におどけて笑ってみせた。それが本心かは分からない。なのに不思議と懐に入り込んでくる。これが宍戸の武器なのだろう。肉を口に運び始めると、宍戸が他愛もないような先々週のテストの話を振ってくる。普通の高校生同士の連れ合いになる。初めは分からなかった肉の味も、次第に久々に味わった肉の旨味を感じるようになっていた。
宣言通り支払いは宍戸が済ませる。ファミレスの入り口で礼を告げると、行き場を決めていない俺は宍戸が去るのを見送ろうと動かずに居た。
「羽多野、帰らねぇの?」
宍戸も一向に動こうとしない。こちらを探るように見ている。
「…帰る、よ」
これから死のうとしているなんて言えるわけがない。当たり前のようにそう告げて笑った。
「もし、帰りたくないなら…一緒に行かねぇ?」
そう言いながら宍戸はこちらに手を伸ばしてきた。その時は、宍戸が俺を何に誘っているのか分からなかった。だから怖くなかったといえば嘘になる。色々なことをまた目まぐるしく考えながら、一夜だけでも羽目を外したい俺は迷いを纏いながら宍戸の誘いの手を受けた。宍戸が俺のテーブルについた時から、もう拒めないマジックに掛かっていた様な気がする。
「羽多野、帰ろ」
今日も宍戸がホームルーム後すぐに俺を捕まえに来る。どんな心境の変化なのかみんな不思議に思った事だろう。あの夜から宍戸はずっと俺にベッタリだ。下衆な噂は更に酷くなった。宍戸が俺を金で買ったとあちこちで囁かれた。嫌がらせの手紙や黒板への悪質な書き込みもあった。宍戸も不穏な状況に気づいているはずなのに、微塵も気にする素振りは無い。
結局あの日は一晩宍戸に付き合って、俺は死ぬタイミングを見失った。宍戸の住むアパートに連れられ、ずっと話をした。宍戸が俺と同じように一人暮らしをしている事にも驚いたし、聞かされた身の上話にもとても驚いた。
宍戸の家はとにかく厳しく、子供でも多くを強いられる家庭だった。親や祖父母の言いなりに高みのレールに乗ったままやってきたが、一度の些細な失敗から家庭内での立場が急激に悪化し追い出されたのだと宍戸は言う。
その失敗というのも、体調不良で挑んだ試験の点数が普段より少々低かったというだけの事だった。これまで宍戸に課せられてきた重しは妹に移り、元々が優秀だった妹は上手くやりこなしているとの事で、宍戸は宍戸の息子とは名ばかりの厄介者に成り果て、金だけで飼われているのだと笑った。環境が満ち足りているのだとばかり思っていた宍戸の真実は、大して俺と変わらず過酷で息苦しかった。
俺の身の上についても宍戸に全て話した。宍戸は静かに聞いてくれていた。
宍戸の金や立場を利用するために近付いてきた悪い仲間を、そうと知りながら宍戸はあえて関係している。家への反発と復讐なのだろう。そうしてしまう宍戸の深い寂しさが俺には痛いほど分かる。俺も親に捨てられた。しかし俺は反発したくても、復讐したくても親の行方が分からなかった。それ故、死ぬ事でそれを遂げようとしていた。
俺はあの夜、死のうとしていた事も正直に宍戸に告白した。
あれから一週間、俺は宍戸と良いも悪いも関係無しに遊びを満喫した。今を謳歌するように色んなことを試した。酒も煙草も味わったし、クラブで一晩を過ごした。年をごまかして入った店もあるし、学校を抜け出してカラオケにボーリングにゲームセンターに、行ける範囲を生き尽くした。宍戸は、ドラッグと女だけはどんなに勧められても避けていて、俺もそれに従った。宍戸はとにかく遊び方が上手い、そう思った。あの日以来俺は家に帰らず、ずっと宍戸のアパートに身を寄せ、遊びに遊び歩いて疲れて眠るを繰り返していた。
七日目の明け方、宍戸はなかなか寝付かずに夜明けを眺めていた。煙草を吸う宍戸の横顔は大人びていて格好いいと、俺はそう思って横になったまま見上げていた。
「もう寝た?」
「…いいや」
「何を渡したら、お前のこと買える?」
何を聞かれたのか理解するのに時間がかかる。
「買うって?」
「金を渡すのは嫌なんだよな…なんか違うもので売ってくれねぇ?お前の身体」
売買の対象が自分の身体であると言われて、急に宍戸の意図を知る。
「身体を買うって、俺とヤリたいって事か?」
「そうだ」
いつもより淡々とした口調の宍戸の様子に俺は何となく察しがついた。宍戸が俺に対して何を求めているか…きっとそれは俺と宍戸にしか分からない。そして、それは俺しか与えられない。自惚れかもしれない、けれど俺はそう思った。
「……そうだな…、なら…お前が遺せる物全部、かな」
宍戸は笑っていた。
穏やかに何度も笑って、俺はそんな宍戸ととてもぎこちないセックスをした。金で繋がった身を投げ出したような交わりでは無い、正面から他人と向き合うような関わり合い方は初めてで、互いにどうしていいか分からずに不慣れなまま抱き合った。
この行為の意味はわからない。俺にも宍戸にも説明は出来ない。俺と宍戸との関係も、はっきりと何であるのかは言い表せない。ベッドから離れて二人でシャワーを浴びながら、宍戸はキッチンにあった果物ナイフで俺の掌にあの指輪の文字を刻んだ。ひどい痛みはあったのに辛くはなかった。同じ文字が宍戸の腕に、煙草の火を押し当てた火傷の痕で刻まれていた。
「じゃ、行くわ…またな、羽多野」
宍戸の住むアパートを出てすぐ、俺は宍戸を見送った。何処へ行くつもりなのかは分からないし聞かない。
「またな…宍戸」
別れ際に電柱の影に隠れてキスをした。その時に宍戸は付けていた指輪を俺の指に嵌めていった。眩しい西日の向こうに消えていく姿を最後までは見守らずに俺は家に帰った。
宍戸の葬式はそれから三日後だった。どうやって彼が旅立ったのか、俺は誰の口からも聞かなかった。しめやかな状況で見上げる遺影になった宍戸はまるで別人だった。たくさんの人とたくさんの花に囲まれて宍戸は亡き者になった。
葬式の後に配られた仏花の小さな束を抱えて、俺は夜の学校に忍び込む。屋上までの階段に張り巡らされた立入禁止のテープをカッターナイフで破り去る。屋上のドアに付けられていた鍵は宣言通りに宍戸が先にぶち壊してくれていた。扉を開けるとその夜は少し風が強くて開放感が凄かった。コンクリートの床に青いスプレーで矢印が引かれ、その終着点にあの指輪のエンブレムが描かれている。
「何が呪いの指輪だよ…バーカ」
俺は宍戸の言葉を思い出して少しおかしくなった。宍戸が通った道を俺も辿る。あのアパートで宍戸と繋がりながら約束をした。互いにRESETして、またRESTARTしよう。必ずまた同じステージからRESTARTしよう。そんな約束をしたのがなぜ俺だったのか、俺は宍戸に尋ねなくてはならない。
柵をよじ登る時、掌の痛みがやや障害になった。包帯を外すと血液で湿った傷が風でヒヤリとした。指輪をしっかりと指に嵌めて、ずっと意味もなく持っていた花束を放り投げる。ついでにポケットに突っ込んできた幾らかの金の束も強風に乗せて撒き散らす。何の未練も躊躇もなくなった。もうなんの準備も要らない。俺は宍戸が通った道をただ辿るだけ。屋上の足場の切れた向こう側に俺は宍戸を追って駆け出して、差し出された手に身を委ねた。
掌に刻まれた文字の羅列を思い返す。
"Pignus amoris"
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