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Blood way
一人の魔女が雷に撃たれて死んだ。激しい落雷でほとんど跡形も無く消えた。何故死んだのかは誰も分からない。自害だったのか事故だったのか、ただ亡くなった女がとても美しく力のある魔女だったと言う事だけが密やかに語られ、そしていつしか風化した。
「可愛がってくれるなら、どうやってもいいよ」
真っ黒な外套のフードから、長く伸ばされた金色の髪が覗く。陰気で怪しい闇市の路地裏で子供のように小柄な黒フードは、体格のいい男に声を掛けていた。数人の男達がつるんで闊歩している。その一人の腕をするりと掴んでそんなことを囁いた。
下品な笑いを浮かべる男は、フードの影に潜んでいた顔を確認すると更にいやらしく笑いを漏らす。仲間たちと連れ立って、黒フードが逃げられぬようにと囲みながら路地裏の更に奥の袋小路へ入り込んでいく。
荒々しく無骨な男達は獲物を壁に押し付けると、手荒く外套の裾を捲り上げる。中に着ていたローブも邪魔くさそうにたくし上げて、隠されていた白く細い下肢が顕になると待ちかねているうに足を割った。男達の一人がまだ隠れている股間を弄ると、ふわりと柔らかく滑らかな感触の奥にとろりとした湿り気を指先から感じ取った。
「お前、とんでもねぇ淫売だな」
ゲラゲラと不愉快な笑い方で嘲られても、黒フードは服の裾を自ら抱えたまま動かない。
「…まだ?」
フードの影の口元が誘いの舌なめずりをすると、誰ともなく男達は覆い被さってきた。先を争ってあちこちから、グイグイと固い芯を押し付けられる。誰かが頼りない白い足を持ち上げ抱え上げた。
その瞬間に急に「ギャッ」と悲鳴が上がる。男達の背後に、いつの間にか程度の良い鎧を身に着けた見知らぬ男が紛れており、折れたモップの柄で男達の一人の脇腹を真横に強く薙いでいた。衝撃と痛みで地面に転がり藻掻く男を挟んで、男達と鎧の男が対峙する。ものの五分程度であっさり決着がついてしまった。鎧の男は明らかに手練で、棒切れ一本でも見事な立ち回りを見せた。
「大丈夫か?」
抱えていた裾を腕から払われて鎧の男に服を直されると、黒フードは鎧越しの腹部に押し払うような蹴りを入れる。
「余計な事をするな、別に襲われていたわけじゃない」
「然し…、」
言い澱む鎧の男の前で、黒フードはフードを外してみせる。生え際からすっかり透けるような天然の金色の髪はとても珍しかった。その髪の毛の上に様々な飾りが散りばめられたサークレットが乗っている。これは魔術を生業としている者が身に着ける法具だ。魔術に使う力を制御したり増幅したりする為のものだと聞いたことがある。魔術師の間では、その実力に比例するように力のあるものは見事な宝具を身に着けているという。フードの下から現れたその宝具は額の辺りに見たことの無い白い宝石が揺れていて、それは白鳥の形に象られていた。動く度に白鳥は七色に輝く。若いと言うよりはまだ幼く見えるこの魔術師はなかなかの実力者なのだということが伺える。魔術師は、見た目の印象は全くアテにならないのだ。鎧の男は人生経験の上でそれを知っていた。サークレットから視線を下に向けると、薄い色の瞳が鎧の男をじっと睨んでいた。魔女、なのか魔導士なのか全く見当がつかない顔をしているが、声は若い男性のものだった。
「食事を摂りそこねた。どうしてくれる」
若い魔術師は言いながら指先を軽く動かす。たったそれだけの動作で鎧の男が手にしていたモップの柄が砕けてしまった。
「…それは申し訳ない事をした。俺が代わりに何かご馳走しよう」
少し不条理を感じたが、鎧の男は懐の財布を漁る。路銀を確かめようと目線を外した瞬間にグルグルと一瞬景色が回る。視界と思考がはたりと状況を認識するまでの極数秒の間に、何もかもが変化していた。
袋小路に居たはずが屋内におり、向かい合って立っていたはずがベッドに押し倒されて先程の魔術師が身体の上に跨っている。鎧の男が狼狽えている間にパサリと外套が脱ぎ落とされる。薄いローブをも取り去り白い裸が浮き彫りになると、至るところに法具が巻かれているのが目に入った。身を動かすたびにシャラシャラと美しい装飾の鎖が鳴る。すぐ間近で揺れる金の髪の毛と宝石と、白過ぎる肌に目を奪われていると、体温と柔らかさと得も言われぬ快感に包まれて、鎧の男はあっという間に飲み込まれていった。この行為の意味を惑いながらも、煽られた本能の欲に抗えずに鎧の男は身を包んでいた重装備を外し床に下ろす。身体の上の白い生き物は降りる気もなく、鎧の男が裸になるのを待ち侘びて腰をくねらせていた。高級な香木を燻したような芳しく上品な香りがする。鎧の男はそんな事を思いながら、白い肌に顔を寄せた。細い腰を抱え込んで鎧の男が本格的に欲を打ち込み始めると、あれほど妖しく揺らめいていたはずの魔術師は感覚に従順になり艶かしく啼き始める。鎧の男の腰の動きに合わせて法具が踊り、魔術師は悦に染まって身悶えては抑えもせずに声を漏らす。暫く重なったままそうして快感を擦り合っていた。力が抜けてしまった魔術師と天地を入れ替わり、ベッドの上でも何度も揺さぶる。ガクガクと痙攣しながらついに魔術師は降参した。乱れて惚けた顔は益々は美しく、鎧の男は口付けがしたかった。魔術師は手を翳してそれを拒絶した。
「アンタ、何者?」
事後そのままで転がりながら魔術師は露骨に尋ねてくる。鎧の男は床に投げ出した衣服を拾い集めていた。
「ただの旅の者だ」
「…かなり生気を吸い取ったのに、なんで平気なんだ」
食事、というのはそういう事か、と鎧の男はようやく合点がいく。確かに魔術師は血色も良くなり満ち足りたように見えるが、自らの身体は何の変化もないように思う。欲を発散してやや解放的になっているくらいだろうか。
「吸い取られるとどうにかなるものなのか?」
「これだけ吸われたら本当なら半日は動けないはずだ」
鎧の男の不思議そうな顔を、身を乗り出した魔術師は両手で包んでじっと目の奥を覗き込む。
「………アンタ、何かの加護を受けている。かなり強力なやつだ。…知り合いに相当な魔道士か、魔女がいるだろう」
「あぁ…乳母が、魔女だった」
鎧の男は素直に答える。身なりが良いのもそのはず、鎧の男の実はそれなりの名家の出であり、王族に仕えていた事があった。貴族や王族の横暴に嫌気が差し、自ら辞して気儘な旅暮らしとなった。父の跡に家を継ぐその時までの期限付きで自由を満喫していたのだ。そんな身の上話を魔術師は終始つまらなそうに聞いていた。
「放蕩息子に興味は無いけど、アンタにかけられた呪い(まじない)には興味ある。あんたの乳母の魔女がかけた呪いのおかげでアンタは生気が溢れんばかりに満ちている。俺が目一杯吸っても全く切れないほどに」
魔術師の魂胆は呆れるほどに分かりやすかった。鎧の男は特に返事もせずに身支度を整え、見知らぬ部屋を後にする。あの路地裏の袋小路からさほど離れた場所では無かった。すっかり夜が更けていたが、鎧の男は先を急ぐことにした。その街を出て、次の中継地の村を目指す。荒野の片隅で野営をして朝を待つ。
朝を迎えるといつの間にか傍らに黒い外套が添い寝をしていた。どうやって追ってきたのかは分からない。その日から、鎧の男は何処に逃げても魔術師に追われる事になった。隙あらば魔術師の糧にされる。そんな日々を繰り返す。鎧の男は名を「ケイウス」といった。魔術師は「マリシア」という。それは女の名であった。魔術師は名を呼ばれるのを極端に嫌がっていたが術を使うには名が必要であり、ケイウスを容易に束縛する為に名を明かした。ケイウスの旅には目的は無かった。ただ世界の彼方此方を見て回りたい、それだけだった。しかしマリシアには明確な目的があった。マリシアは産まれながらにかけられた呪い(のろい)があった。根深くかけられたその呪いを解呪する方法をずっと探している。共に過ごすようになると、ケイウスはその探索に巻き込まれる事も増えてきた。大きな街に着くと図書館に同行させられたり、有名な術師に会いに行ったこともある。時には怪しい連中と関わったりもした。季節が変わり始める頃にはすっかり絆されてしまっていて、ケイウス自ら解呪の情報を集め始める始末だった。マリシアはあまり多くを語らず、一線を引いたまま踏み込んでは来ない。確かに何かしらの絆は生まれているものの、距離を縮めようとはせずむしろ維持しようとしている。食事という名目ながら、心の距離があるというのに床を共にしている矛盾が生真面目な性格のケイウスを悩ませ始めていた。
その国随一と言われるほど、美しい女がいた。その女はとても力の強い魔女でもあった。名をイザベラといった。イザベラは王族に近い血筋の名族に仕えていた。家の厄を祓い、富をもたらすために貴族には屋敷に魔女を雇い入れる習わしがあったのだ。雇われた家に尽くすうちに、いつしかイザベラは若くして当主となった名族の長男と恋に落ちた。二人はとても仲睦まじく、それはそれは強く結ばれていた。然し、身内の些細な失敗から王族に睨まれ、その家は打撃を受けてしまった。何を思ったのか、家の者たちはその責をイザベラに押し付け始めた。家を守護しなかった役立たずの魔女であるとイザベラを誹り、無理矢理屋敷を追い出した。そして当主とイザベラの絆を引き裂くため、更に家の復権のため強引に王族の娘と当主の婚姻を結ばせてしまったのだった。イザベラは王族も見守る盛大で豪奢な結婚式で、結びの祝福のまじないをかける魔女として招かれた。明らかな嫌がらせであった。遠く手の届かない場所に担ぎ上げられて、見知らぬ女と誓いを交わし合う当主の姿を見つめながら、見せつけられながら、イザベラはそれでも多幸のまじないをかけた。
イザベラがおかしくなったのはそれから半年程した頃だった。屋敷を追い出されてから郊外の森の奥の見すぼらしい小屋にイザベラは暮らしていた。それまでは盈々としていた筈が、すっかり落ちぶれて有らぬ姿へと成り果てていた。後にわかった事であったが、イザベラはその小屋でひとり、ひっそりと子を産み落としていた。そして誰も寄り付かぬ閉鎖的な環境で、子供を育てていた。その子供が六歳になった年、イザベラは街に現れた。以前の姿とは似ても似つかぬ老け込んだ魔女が、子供の手を引き覚束ない足取りで歩いていく。異様な光景に街の者たちは皆イザベラと子供を避けた。広場を抜けその先の大きな屋敷を目指してイザベラは進んでいく。いつの間にか子供の手を離し、イザベラは一人になっていた。そして屋敷に辿り着くと門の格子に手を掛けて、暫く中の様子をじっと見つめていた。屋敷の者が気付いてイザベラを門から引き剥がすのを何人かの民が見ていた。その後、どうやって入り込んだのか…イザベラは屋敷の中庭にある薔薇園にて、雷に打たれて亡くなった。イザベラの亡骸は跡形も無く粉砕してしまっており、たくさんの薔薇の中に散っていたそうだ。不思議な事に打ち砕かれ燃えたのはイザベラの身体だけで、薔薇には傷一つ付いていなかったという。その薔薇園こそ、かつて若い当主が心から愛した美しい魔女に愛の誓いとして贈ったものだった。イザベラが連れていた子供の行方は誰も知る事なく、霞のように消えていた。
振り返れば、若い頃から何も思い通りにはならなかった。今もなお、あてがわれた椅子に座り、立って動こうにも肩を押さえ付けられて思わぬ方向に向かわされている。もうかなりの歳月が経ち、若かった当主も年を取った。呪われた家の重責を担い、心の通わぬ家族と偽りの営みを繰り返している。淡々と季節だけが巡っていく。今年もまた、窓の外の薔薇園が美しく咲き乱れている。それを眺めている時だけが、当主にとってかけがえの無い大切な思い出に気を馳せられる大事な時間だった。
じっと思いを巡らせていると、部屋にノック音が響く。来客がある事を伝えられると気のない溜息が漏れた。今日は一体どんなくだらない自慢を聞かされるのか…王族と何かしらの縁をつなげようと躍起になっている貴族達の訪問は日々尽きることが無く、当主を度々疲弊させていた。この日もまたそんな来客だと思っていたが、すっかり予想を裏切られた。薄汚れた鎧の男と、真っ黒な外套を纏ったものが屋敷のエントランスに立ったまま待たせられていた。付き人がそっと素性を耳打ちする。それはそれは珍しい客であった。
「まさか、かのエンドワーズ家のご子息がこのような場所に立ち寄ってくださるとは…王宮での貴方のご活躍はよくお聞きしております。退かれた後は旅に出たとは伺っておりましたが…」
ケイウスと強く握手を交わした当主は、挨拶もさながらにケイウスの隣の出で立ちについつい視線を奪われてしまう。
「そちらの方は…」
当主が尋ねるなり、マリシアは被っていたフードをゆっくりと取り払う。マリシアの顔が顕になった瞬間に当主は破顔した。
「…、イザベラ……?そんな、まさか…生きて…」
取り縋るように当主はマリシアの肩を掴むとその場に酷く泣き崩れてしまった。当主が落ち着くまで少し時間を要し、落ち着いて話ができる頃には夜が更けていた。当主が見間違うのも仕方がない。マリシアはイザベラがあの小屋で産み落とした子供だった。マリシアは偶然にもケイウスと出会い、身分の壁を仲介してもらう事によってやっと実の父と対面をはたした。マリシアは父に会えば身に降り掛かった呪いが解けるかもしれない、と期待していたのだった。
マリシアに呪いをかけたのは、実の母であるイザベラだった。愛しい男と引き裂かれ心を壊したイザベラは我が子を育てながらもどんどん狂っていった。男に恋い焦がれ思いを募らせれば募らせるほど、それと同じくらい憎悪や悲しみが増幅していく。愛しい男との間の子供を何よりも愛し慈しみながら、自分を捨て踏み躙った男の面影を投影し憎悪し呪っていった。マリシアにかけられた呪いは複雑な念が入り乱れ、グチャグチャにこんがらがった深刻なものだった。イザベラの呪いの根源となった相手、それが父親であるこの屋敷の当主であり、その人物に会いさえすれば解呪の糸口が見つかるはずだとマリシアは信じて止まなかったのである。深刻な表情のまま、マリシアは父親と対面した。
「何故、イザベラを…」
マリシアは問う。当主はずっと止まらぬ涙を拭う事もしなくなった。
「脅されていたんだ…。彼女を遠ざけなければ、魔女を捉えて火炙りに処すと…」
そう告白しながらイザベラの忘れ形見の手を、当主は大事そうに取った。服の袖から覗く白い腕にジワジワと黒い筋が滲んでくる。浮かび上がった黒は生き物や稲妻のように皮膚の上を巡り、その痕からすーっと鮮血が溢れた。マリシアは痛みに顔を歪ませる。当主はとても驚いて、高級そうな刺繍の入ったスカーフが血で染まるのも構わずにマリシアの手の傷を押さえた。
これがマリシアの身にかけられた呪いだった。はっきりとした呪いの発生要因はマリシア自身にも自覚出来ないが、心が揺らいだ時その振れ幅に伴って身体に黒紋が表れ皮膚が裂かれてしまう。その心の揺らめきはどんな感情の場合であっても呪いの発生は同じだった。そのため、マリシアはあらゆる事柄において、常に感情を押し殺して心を起伏させぬように生きてきた。食事も身に着けるものも何事も必要最低限に抑え、人との関わりも空疎だった。生きる術は母から教わった魔術しか知らず、母の遺した形見はあの白鳥の飾りの法具のみだった。マリシアは男児として産まれながら、イザベラに魔女として育てられたのだ。それもまたイザベラの壊れた心のせいなのかも知れない。人から吸い取った生気を魔術使用のための力に変換するやり方は、マリシア自身が生きていく上で行き着いた方法だった。それはマリシア自身の心の空虚を埋めるための事でもあった。人と関わる事が難しい。それでも人の世を断ち切らぬために人肌を求めた。ケイウスはそんなマリシアの心の内を少しずつ知り、理解していった。
当主の屋敷で三日三晩を過ごした。訪れた時に比べると、当主は憑き物が落ちたかのように晴れやかになっていて、マリシアに対して甲斐甲斐しく振る舞うようになっていた。一方、マリシアは隠してはいたが全身に大分傷を負っていた。解呪するどころか、父親の側に居れば居るほど呪いによって体を切り刻まれる回数が増えていく。悪化しているのは目に見えて分かった。唯一の希望であった父親の存在は呪いに対して逆効果であり、マリシアは完全に解呪の見当を失った。身体に痛みの走る頻度は格段に増えて、溢れた血液が床に滴るほどになってしまった。ケイウスは余談を許さぬ状況を感じ取り、当主にイザベラの呪いの話を打ち明ける。然し、当主にはイザベラと繋がる物もイザベラの遺した物も一切を取り上げられており、唯一あるものが薔薇園だけだった。呪いの手掛かりになるかと思えたイザベラの薔薇園も、マリシアが近付くと明らかに雰囲気を変え、棘を鋭くしては身を傷つけようとしてくる。マリシアはイザベラ自身に拒絶されているのだと改めて突き付けられただけだった。
屋敷を出る。マリシアは絶望に満ちていた。屋敷を離れ父の元を離れても、心の動きに更に敏感になった黒紋が多少の事でも皮膚の上を渦巻く。体中がズキズキと傷んで、夜眠るのも辛くなった。
ケイウスは今晩もマリシアを床に誘う。マリシアが吸った生気で密かに傷を癒やしていた事をケイウスは知っていたからだ。出会って間もなく、マリシアが呪いの効果で傷ついた所をケイウスは見ていた。その傷を吸ったばかりのケイウスの生気で癒やし、マリシアは平静を装っていた。共に過ごす間何度も、マリシアがそうして誤魔化し誤魔化し側にいたことをケイウスはもう知っていた。
しかし、マリシアは父の屋敷を離れた日からケイウスを拒絶するようになった。マリシアの側に寄るケイウスの肩を押し戻し、決して目を合わせようとしない。
「…同情か?もう呪いなんて解けないのが分かってしまったからな…確かにアンタの枯れない生気があれば無限に傷は回復できる訳だし、何とかなるかもな…けど、それはごめんだ。そもそも言ったが、俺はアンタに興味がない。寧ろ軽蔑するね。貴族の放蕩息子なんて禄なもんじゃない。そんなアンタとこの先も一緒に居るなんて冗談じゃないからな…分かってるだろう?俺がアンタと寝たのは食事の為だ。今はそれももう意味が無い…。アンタだけじゃない、俺は男は皆嫌いだ」
深い嘲笑を浮かべ悪態をつくマリシアの座る地面に小さな血溜まりが出来ている。
「分かった、もういい。これは単なる食事だ。せめて腹を満たせばいい。ただそれだけだ」
ケイウスは諦めずに言う。掴んだマリシアの腕から、ケイウスの指に温かい雫が伝うのが分かる。ケイウスは焦っていた。マリシアは血を流し過ぎている。
「嫌だ。離せ、否人(イネプト)め!」
否人とは、魔力や特殊な能力を持った者がそうでない者に対して使う差別用語だった。これまで共に過ごしてきて、マリシアの口からこの単語を聞いたのは初めてだ。確かにマリシアは、魔術師として類稀ない才能を持っている。母親の素質を強く引き継ぎ、巧みな魔術を使いこなす。旅をしながらもどこからともなく風に乗ってきた評判のおかげで、マリシアヘ直接、希少な術師としての純粋な仕事が舞い込んでくる事も少なくなかった。厄介な傷や病の治療、解呪、厄払い、時には人ならざるものの祓いをする事もあった。魔術師には一般の人間とは違う次元が見えており、それ故に独自の社会を持っている。普通手に終えないことへ介入し解決してしまう為、頼られる事の多い魔術師が非能力者と一線を引くようになるのは珍しくない。マリシアと同行し、実際に魔術師の仕事を手伝う上でそんな線引きも仕方の無いことなのだろうとケイウスは思った。特に他人との溝の深いマリシアは、どんな状況でも事務的で冷ややかに人々をあしらっていたため、ケイウスは初めの頃、マリシアも非能力者を見下しているのだとばかり思っていた。しかし、マリシアが差別的に他人を謗ることは一度も無かった。だと言うのに、今は口汚くケイウスを罵っている。
「早く消え去れ!否人!!穢らわしい!」
両腕を掴んで抵抗を阻み、荒々しいマリシアの唇に口付けをする。拒絶を押し開いて深くまで繋がろうとしても、マリシアは受け入れない。
「マリシア!吸え!!いいから、生気を吸え!」
「嫌だ、お前なんか、嫌いだ」
血の気が失せて青くなった顔の頬にも傷が刻まれた。結局マリシアは一つの傷も癒やすことなく気を失った。ケイウスは眠るマリシアの体の傷の手当をする。もう包帯が切れてしまった。来ていたローブは乾いた血液でカピカピになっている。一つ一つが深い傷ではなくとも、これだけ無数に負うとなると体へのダメージはとても大きいだろう。赤く汚れた部分を濡らした手ぬぐいで拭き取りながら、弱ったマリシアをケイウスは見守ることしか出来なかった。
「まだ居たのか、否人」
夜が明けていつの間にか目覚めたマリシアが視線だけを向けて冷たく言い放つ。
「あぁ、お前が傷を癒やしたらすぐに去る。だから、」
「…本当だな」
言い終える前にマリシアは応じ、横たえていた身を起こした。痛々しい身体を持ち上げ、介助しようとするケイウスの腕を払い除けて覆い被さってくる。ケイウスはされるがままに身を任せた。のしかかられてマリシアの顔を見上げていると、出会った頃を思い出して少し懐かしくなる。しかし記憶の中の面影と今は違い、顔の傷が目に付いて離れなかった。薬は塗ったが、ガーゼが足りずに裂傷が剥き出しのままになった頬を手で撫で下ろす。パタパタとまたマリシアの体から温かい雫が落ちてくる。
「…、無理だ、出来ない」
新たにマリシアの顔に傷ができる。滲んだ血液はたくさんの大粒の涙で薄まって、ケイウスの顔に次から次へと降り注ぐ。ケイウスはそれを拭わずに、マリシアに口付けた。マリシアはケイウスの唇を受け入れ、掻き抱くケイウスの腕にマリシアは収まった。身体を蝕み引き裂かれる痛みに身を固くして、マリシアは最早ひたすらに耐え忍ぶしかなかった。
マリシアの身体の傷は日々耐えない。ケイウスと心を通わせれば通わせる程傷が増える一方で、成す術はなかった。弱る姿に日々焦るのはケイウスばかりで、当のマリシアは穏やかになった。すっかり抗うことを止め、静かに受け入れている。これ程心は落ち着いているのに、ケイウスと触れ合うたびに体は傷を負った。イザベラの呪いの意味が二人にはよく分かった。痛みは絶えず体を巡り、不足した血の気のせいで立つことすら難しい。ケイウスは衰弱を見届ける事しかできず、マリシアはただただ苦痛に身を浸していた。
中央に立派な時計塔のある街がある。この街にもよく旅人が訪れていた。少し東に向かうと王都がある。その中継地として皆この街に立ち寄っていた。
使い込まれた革の鎧に身を包んだ男もその街に辿り着いた。男は背に黒い服の怪我人を背負い、先を急いでいた。市場で包帯を買い込んで広場の片隅に座り手当をしている姿が見られた。その様子はとても仲睦まじく穏やかで、一つの林檎を分け合って食べていたそうだ。ただ、二人が通り過ぎた道には点々と滴った血液が地面を染めていたという。
王都を跨いだ先の街は、鎧の男の生まれ故郷であった。
Blood way
END
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