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EATER

「肉は要らない。野菜しか食べない」 そう言って出した夕食を押し返された。かつて育ち盛りの息子が山盛りの白飯を片手に掻っ込むようにして食べていた定番の豚肉の生姜焼きは、冷めきった食卓の間でまだ湯気をあげている。 「そうか…」 萎れた返事しか返せなかった。 自分の目の前に置いた箸に自然と視線が落ちていく。きっとまたそんな私の様子を目の前の男は可笑しそうに見つめているのだろう。息子によく似た顔で。 最愛の一人息子を失ってもう七年も経つ。 産後の肥立ちが悪く息子を産んですぐに亡くなった妻の代わりに何とか育て上げた大切な大切な息子だった。不器用な父子家庭に文句を言うこともなく、健やかで明るく心優しい息子に育った。 学校からの帰り道、ほんの一瞬の不運で息子は亡くなった。交通事故だった。あれから七年、何をどうして暮らしてきたのかぼんやりと霞んでいてはっきりと覚えていない。未だに息子の部屋や遺品はそのままで、毎朝弁当を二人分作る習慣も抜けない。 会社から帰宅して二人分の夕飯を作る。そして食べられることの無かった料理を処分する時に息子の居ない現実を味わう。夕飯の始末の後は毎晩酒を飲む。そうしないといつまでも寝付けない。妻も息子も写真立ての薄いガラス越しにしかこちらに微笑みかけてはくれない。私はいつになったらそのガラスの向こうに行けるのか、全く検討がつかないでいる。行こうとしたこともあった。けれどその度に今際の際で息子と私の事を案じてたくさんの涙を流した妻が脳裏から蘇るのだった。妻と息子は一緒にいるのだろうか…遠い世界の二人のことを思うと息苦しいほど痛く切ないものだ。けれど、私はまだ呼ばれていない。だからこうしてズルズルと朝が来る。 息子は妻によく似ていた。ふんわりとした柔らかい髪の毛、凛々しくも美しい眼差し、すっと通った鼻筋、笑うと途端に幼くなる。正に忘れ形見そのものだった。 元気で明るい息子はその日も「行ってくる!」と私に向かって眩しく微笑んで玄関を抜けていった。 行き交う車のライトが水の溜まった路面に反射してチラチラと視界を煩わす。雨雲と降りしきる強い雨のせいでとても暗い夜だ。当たる雨の勢いで傘が鳴いてうるさい。 私は交差点の傍らにしゃがみ込んだ。例え嵐のように荒れた日でもここには来なくてはならない。 息子は七年前のこの時間に、ここで息絶えた。 在り来りな弔い方だと思う。こんなやり方をしていても、七年もの月日が経過してもなんの気も晴れない。なぜ事故に巻き込まれたのが私の息子だったのか、受け入れる事も許すことも出来ないまま私はその場に花を手向ける。花を包むフィルムにあっという間に雨粒が滴る。いつもなんとも言えない感傷に満ちて長居することは出来ない。雨に打たれてすぐに花が弱るのを見るのはきっと嫌だろうと、私はさしていた傘を花に預けた。 こんな土砂降りの日に傘を刺さずに街を歩くのは私だけだ。なかなか抜けていかない感傷を抱えて急ぐことも出来ずに歩く。 家の近くの駅の前に差し掛かると、私と同じように傘を持たずに雨の中で立ち尽くす青年を見た。 薄着のままずぶ濡れの彼は急ぐ様子も慌てる様子もなく、雨を楽しんでいるように見えた。傘をさし屈むようにして足早に歩く人々の中で、ゆっくりと雨に打たれるお互いの姿はよく目に付いた。彼もじっとこちらを見つめている。 私はその瞬間驚愕し過ぎて完全に固まっていたのだ。その眼差し、鼻筋、何度も見た。この七年、何度も何度も眺めた遺影の中の息子。そんなはずはないと分かっている。けれど目を離すことは出来ない。亡くなった時と年の頃は全く違うというのに、漂わす面影は息子そのもののようだ。動くことの出来ない私に彼は少し警戒気味に近付いてくる。 「アンタ、男に興味あんの?」 愕然とした。その一言でなぜ彼が駅の入口に佇んでいたのかを理解した。まるで息子のような姿で彼は身売りの客を探している。それは許せる事ではなかった。まったくの赤の他人だと理解しているのに、息子に、妻に、似た眼差しを見るといても立ってもいられなくなってしまっていた。 財布の中にある紙幣を全て彼に握らせた。強引に腕を引き、連れて来た場所は自宅だった。何を考えているのか、自分でも呆れてしまう。あまり多くを語らずに濡れて冷えた体を温めるため、風呂に入れる。その間に懐かしさに満ちながら夕食を作る。二人分並べた食卓に息子の遺した服を身に着けた彼を招くと、意図せずに涙が溢れた。 彼は終始薄気味悪がった表情を浮かべ、食事には口を付けずに煙草を吸う。私はそれでも構わずに一人、黙々と食事を済ませた。疑似的な息子の顔を眺めながら。 「意味分かんねぇけど…まさかこんだけでヤラねぇつもりか?」 手を付けられずに終わった皿を片付けながら、背後で彼がボヤく。仕方の無いことだ。頭がおかしいのだと思われても仕方ない。そんな事をしている。 「あぁ…ありがとう。久々に寂しくない食事を味わえた。無理矢理連れてきてしまって済まない」 「アンタ一人?他は?奥さんと別れた?」 ズケズケと直接的な事を問うてくる彼を振り返ると、ダイニングの棚に飾っていた息子と妻の写真を手にしていた。 「…死んだんだ」 灰が長くなった煙草を取り上げてシンクで揉み消す。互いの表情を見ぬように皿洗いに戻る。しかし彼は思いもよらぬ行動で揺さぶってきた。 首元に熱を感じる。予想以上に強い力で後ろから抱き竦められた。彼の手はあらぬ所を弄っている。 「寂しいなら、回りくどい事しなくていいんじゃね?」 思わず私は彼を突き飛ばしてしまった。息子では無い。妻でも無い。他人の男だ。分かっているのに。 跳ね除けられても彼は怒るでもなく、私に向けて嘲笑した。 「泣いてんじゃん、可哀想」 煙草のヤニの嫌な匂いの舌が私の頬を辿る。 「ごちそうさん、また呼んで。パパ」 ヒラリと手を翳して彼は帰っていく。息子の服を着たまま、私の傘をさして、彼はまた雨の街に戻って行った。 次の月の息子の命日にまた彼は駅に立っていた。会釈して通り過ぎようとする私に当たり前のように彼はついてくる。私が出す食事は口にしない。ただじっと彼の顔を見ながら食事をする私を、彼は煙草の煙越しに見つめている。皿洗いの時間にまた、彼は誘いをかけてくる。私はそれに応じない。帰り際の玄関先で、私は彼にいくらかの現金を手渡す。そうして帰っていく。次の月も、その次の月も。体の良い小遣い稼ぎだと思われたのだろう。それでも私はその時間に縋ってしまうほど、情けなく過ごしていた。 彼との会話は噛み合わない。彼は嫌な客の愚痴を私に零す。私はひたすらに彼をマトモな仕事へと諭す。きっと彼にとってはうざったいことこの上ないだろう。彼にとっては面白味など皆無であろう私の事を、予想通りにひどく冷めた眼差しで見つめている。けれど、彼は私の言う事を否定はしない。拒絶するのは食事だけだ。何を出しても箸をつけない。野菜しか食べない、と聞いて少し凝ったサラダを振る舞ったことがある。然し、彼は盛られた皿を回しじっとそれの全体を眺めただけで口にはしなかった。スマートフォンでサラダの写真を撮り、馬鹿にしたように鼻で笑っていた。その日の食器洗いには下着の中に手を入れてきた。私は思わず彼の腕が少し赤らむほどに叩いて払ってしまった。 その日は、息子の命日では無かった。しかし彼を駅で見かけた。顔の左半分が目元から真っ青に腫れ上がり痛々しかった。呆然として入り口に立ち尽くす彼の姿を、駅から出てくる人々がチラチラと見ては訝しげにしてそそくさと離れていく。雨が降っていた。ずぶ濡れの彼を自分の傘に入れて、私は彼を連れ帰った。 彼を風呂に入れて食事を作る。服は息子の物を用意する。冷蔵庫には豚肉しかない。馬鹿の一つ覚えのように息子の好物を作った。頭にタオルを被ったまま、彼は風呂から出てくる。その姿もひどく懐かしい。まだ雫が垂れるほど濡れている髪をワシャワシャと拭いてやる。彼と私は全く言葉を交わさずにいる。彼の顔の酷い痣に、私は湿布を貼った。今日は彼の前に置いた灰皿に、煙草の吸殻が落とされない。 食事を始める私の姿をじっと見つめていた彼が 、突然手掴みで豚の生姜焼きを口に運んだ。食事とは言えない、食卓を荒らす勢いで彼は食べ物を貪っていく。その表情は怒りだった。これまで見た事のない感情を顕にして、彼は食事を詰め込んでいく。荒々しい手付きで味噌汁にまで手を突っ込む。熱さを感じていないのか、味噌汁の具まで手掴みで頬張っていく。私は思わず彼の腕を掴んだ。真っ赤になった彼の掌を冷やす為にシンクに引き寄せる。然し彼は食卓に縋り付くように藻掻き、食べ物を掴もうとして腕を彷徨わせる。 「一体どうしたんだ、落ち着きなさい!」 彼を押さえ込もうとして腕を引くと、彼が手を掛けていたガラスのサラダボウルがテーブルから床に落ちる。ガシャン!と激しい音がしてガラスは砕け散ってしまった。 「俺の…!!」 割れたガラスと散ったサラダを追う彼を引き摺り、強引にシンクで火傷の手当をする。流水を当てて少しすると気が落ち着いてきたのか、彼は暴れるのを止めた。 「俺の親父は、俺を殺そうとしてた」 深く項垂れた彼がボソボソと口を開き始める。 「アンタと違って、俺の親父は甚振るばっかで、クソだった。思い付く限りの暴力は散々受けたし、飯はいつも床に撒き散らされてた。灰皿の中身をぶっ掛けられながら食った。おまけに舌を焼かれて、何にも味がしなくなった。親父は気紛れに俺を飼って、飢えて弱ってく俺を見ていつも笑ってた。俺が、俺が絶対殺すはずだったのに…」 彼の凄惨な過去の告白に私は驚きに満ちていて、どうして良いものか考え倦ねていた。薬を塗り包帯を巻いた彼の掌を撫で下ろし、甚振られるかつての少年に、自分の息子の姿を重ね、想像を絶する苦痛や絶望を味わったのだと思うと涙が止まらなくなっていた。 「あのクソは勝手に死んだ!!!」 吼えるように彼は込み上げた憎しみを吐露する。涼やかに冷めたいつもの眼差しではなく、獣のような荒れ狂った瞳で私を睨む。 「すまない、すまなかった…」 自然とその言葉が出た。約束した訳でもないのに毎月この家に来ていた彼の心を、私は踏み躙っていたのかもしれない。そう思えた。私が出す食事を、二人で囲んだ食卓を、彼はどんな気持ちで見ていたのだろうか。彼の事を何も知らず、勝手に自分の悲しみに浸って息子の姿を重ね、私はただただ彼を傷付けていたのではないだろうか。自分勝手過ぎたのだ。遅過ぎる後悔に襲われながら、彼に対して謝罪を繰り返す事しか出来なかった。 「アンタは、何なんだよ…何なんだ…」 私に呼応するような涙を流す彼を、私は抱き締める。驚く程に息子と同じ匂いがした。 「俺は、アンタの息子じゃない…」 「あぁ、そうだな…私も、君の父親では無い…」 彼は私の首に掛けた手を決して締めることはなかった。 買い物をする時、つい二人分買い込んでしまう。弁当用と夕食用と。先ずは豚肉をニパックと、レタスを一玉。今夜は息子が好きだったカレーライスにしようと思い立って、買い物袋が重くなるのも考えずに材料を買い込んでしまった。 いそいそと食卓の支度をする。早めに仕込んでいたおかげで抜群のカレールーが出来上がった。タオルを頭に被ったままの彼が風呂場から出てくる。濡れた髪を拭いてやるのも定番になってしまった。駅で待ち伏せていた彼と、買い物袋を半分持ち合って帰宅する。月命日の月一回の訪問は、いつの間にか週一回に増えていた。金曜日の夜に、彼は駅の入り口で私を待っている。食卓に上がったカレーライスを彼は思いっきり頬張る。まるで部活から帰ってきた息子のようだ。頬にパンパンに食べ物を詰めて、会話もなく黙々とかっ込む。あれ以来、彼は本当に良く飯を食う。今夜のカレーライスも、山盛り三杯も平らげた。食卓に毎回サラダは欠かせなくなった。あの後すぐに、立派なサラダボウルを手にして彼は私を待っていた。彼は、私のサラダに異様に固執している。彼にとって、自分の希望が叶った初めての手料理だったのだと言うのだ。私が作ったあのサラダの画像をスマートフォンの待ち受けにまでしているのだから、責任を感じてしまう。 食器洗いの最中は、相変わらず彼が密着してくる。手元が塞がり無防備な私に彼が抱き着いて、下世話に弄ってくる。 「いい加減それはやめないか…」 呆れて言う私に、彼は大人びた冷めた笑いを鼻から零す。 「…アンタに俺が抱けたら、アンタは俺のパパじゃ無くなるだろう?俺もアンタの息子じゃなくなる」 誘いの口づけを頬に浴びながら私はサラダボウルを洗ってふきんで磨く。 「そうしたらアンタの言うとおりに、客を取るのはやめる…」 息子の顔をした彼は、後ろからまた私の首に手を掛けながら私の項に齧り付いた。まるで食い足りないと言わんばかりに、私の首の皮膚を、彼の歯列がゆっくりと挟み込んでいく。 「アンタは、塩っぱい…」 EATER END

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