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NO NAME

もう何年前のことだろうか…。 この世で最も親しく美しいと感じていた唯一の女がこの世から旅立ったのは。私の人生の中で最も華々しく、煌めいていた時間はもうとっくに思い出に代わっていた。移ろいで行く年数とは反比例して、綺麗な思い出は崇高に磨きがかかっていく。真新しく訪れては過ぎ去っていく、あらゆるものを受け流しながら私は生きていた。一々受け止める必要性など感じてはいなかったからだ。彼女がこの手の中からすり抜けていったその瞬間から私の時は止まっている。私の中にある彼女との思い出だけが私にとって価値あるものだと、そう思っていた。 最もたる生きがいを失ったというのに、人生とは誠に皮肉なものだ。沢山の欲求を放棄してもなぜか私の元には様々なものが舞い込んだ。 仕事 金 自由… だらだらと続く命の限りの暇つぶしには、一応役に立っている。その程度にしか受け止めていない。 それらを求めて必死に生きている人間からしたら、私のような男は嫌味そのものだろう。けれど、求めるものがまだ存在している彼らもまた、私からしたら嫌味そのものだ。キラキラとして日々充実したように生きるあらゆるものが目障りだった。いつまで経っても鬱屈とした気分を抱えている。拭い去れることはない。 その日もそんなぐずついた心持ちのままいつものバーへ酒を飲みに行った。喋らないバーテンとガランとした店内。薄暗く飾りっ気のないありきたりなバーが私には十分すぎる場所だった。何杯かバーボンを楽しんだところでやっと飽きた。 少し酔った後の深夜の街は少しだけ気分がよくなる。喧騒が止み何とも言えない陰鬱な闇に覆われていて、危なっかしい香りが私に合っている気がするからだった。少し肌寒くなってきた夜の湿気にあてられながら、眠るために静まり返った我が家を目指す。何をしてても結局は退屈だ。バーで飲んでも、家に帰っても。 ハプニングというのは、本当に何の心構えもしていない時に起こるものだ。バーの前でさっさとタクシーを拾えばよかったのだ。少し歩こうなどと考えなければ面倒事に巻き込まれることはなかった。自分の呑気な油断に嫌気がさす。 今、目の前に人が倒れている。 死んでいるのか生きているのか…確認することすら気が引ける。こんなに堂々と道端に倒れているとは、面倒事以外の何ものでもないだろう。  ここで此れを放置した場合もまた厄介な事になるのだと、最近のニュースで見た。まさかその時は、自分の身に降りかかる事柄だとは思っても居なかったが…。私は渋々靴先で目の前に突っ伏す人間を突っついた。  反応はない…。 …仕方がない。仕方がないのだ。言い聞かせながら嫌々横たわる体を適当に抱き起す。まだ若い男だった。 「おい……」 体に触れれば温かい。どうやら死体ではないようだ。苦しんでる様子もなく、一見では異常な様子は見られない。こんな時、他人をどう扱っていいかなど分からない。悩んだ上で、頬を軽く叩いてみればやっと目を開いた。なんて生気のない瞳だろうか。一瞬ゾッとするほどに据わった目だった。虚ろな眼差しで目覚めた行き倒れの男は意識が戻るなり頭を押さえて呻いた。 「怪我か?病気か?救急車を呼ぶ。さっさと答えろ」 スマートフォンを手に手短に問いかけた。さっさと他人事から解放されたい。人助けなど、そういう性分ではない。画面を操作していれば、途端に伸びてきた腕に強引に阻止された。 「…必要ない。ただの脳震盪だから。多分」 何度も頭部の具合を確かめて触れる彼の手元に赤い色がちらりと見えた。 私は舌打ちをする。これでもし万が一この小僧が死んだらどうなる? 「…黙って従え。お前はよくても私にとっては不利益になりかねない。」 イライラする。なんという夜なんだ。 私はもう自棄になったようにしてタクシーを捕まえ病院に向かった。死んだ目をした小僧を連れて。  それが三日前のことだ。結果を言えば厄介な出来事はその日のうちには片付かなかった。出くわした時点でもう運のつきだった。生気のない小僧には、本人曰くだが家も金もなく、身寄りもなかった。路頭に彷徨っていた所で自転車に追突されたらしい。頭を強打したが大事には至らず……今も私の家にいる。 この契約は彼から言い出した。 「俺には今何もない…死んでも構わないとも思ったけど、それすら上手くいかなかった。 あんたがここにいても構わないと言ってくれるのはありがたいが、対価が払えないものをただで受け取るわけにはいかない。だから……俺をあんたの好きに使ってほしい…どんなことでもいい…あんたが飽きるまで従う」 別に善行を始めた訳ではなかったが、放り出した場合の重責を考えるとやむを得なかっただけだった。だというのにこの小僧は何を言い出すのか。 正直イカレているとしか思わなかった。けれど夜の街の陰鬱な闇のように黒く曇った瞳は、重い悲壮さを物語っていて容易にあしらえない妙な説得力を持っていた。そして私は彼のそんな瞳がなんとなく気がかりで、気に入り始めてもいた。危なっかしい雰囲気が私に合っている。直感的にそんな風に思えたのだ。私も十分イカレているのだろう。 そして私は要求した。捨て損ねたその身体を。その他に任せられるような事も無かっただけだったが、暇つぶしには丁度良かった。悪趣味ながらに、彼自体もそんな可能性すらも想定していたのが悪い。顔の造作は特に趣味でもなかったが割と整った方だと思う。若いのに体は貧相だった。あんな発言をしておいて、意外にもいざ床を目の前にしたときの初心な反応はなかなか私好みではあった。 「生意気な事を言っていた割に堅苦しいな…初めてではないんだろう?」 「…こんなことは初めてだ……」 ここにきてずっと無感情そうだった瞳が唯一泳いだ。こんな状況に陥るほどに惑うとは、この男が何故こんなにも生き急いでいるのかは分からなかった。何が起きて何を失ったのかも…そして私はその事に興味もない。私は私自身を保持しているだけで精一杯なのだ。他人の事情に関われるほどの懐はとうに持ち合わせていない。 だからこそ、この行為は丁度いい。愛のない交わいなどは行為でしかない。敢えて肌を合わせ肉欲を交わすことで、行きずりの関係に重い禁忌感が生まれればいいと思った。互いに互いを何とも思わずに、ただ爛れた心の隙間を埋め合うだけの浅ましい欲の重ね合いになるようにと、若く穢れない若者には過剰過ぎる刺激になるように仕掛けたつもりだ。  そして、嫌気がさしたならさっさと去ってくれればいい。 ベッドの傍らで緊張している彼の衣服を無情にも全て乱暴に放り出す。素っ裸にされても言ったとおりに抵抗する様子はない。嫌がる様子もなければ逃げる様子もない。ただ黒い瞳が戸惑いにほんの少し揺れているだけだ。 私は彼の若いいちもつを握りこんだ。ムードもへったくれもあったもんじゃない。甘い口づけも愛の言葉もない。情愛自体が無い。優しい愛撫なんて必要ない。私は事務的に彼の男根を扱いている。試してみたかった。どこまでの覚悟でいるのかを。時間にして五分くらいだろうか、断続的に刺激していればやはり男性なら勃ち上がるものだ。彼は血の気の無かった顔を上気させて息を詰めている。 「男の手でも感じているのか?」  「………感じてる…」 返答に困った沈黙の挙句、消え入りそうながら素直に答えた。献身さと言うか、ぎこちない従順さに笑えて来てしまう。 「お前ばかりでは約束の意味がないな…ほら、私も楽しませろ」 着ていた衣服を床にばら撒いて彼の目の前で身体を解放する。年の離れた同性の体など本来ならばそうそう触れる事も無いだろう。触れたくもないはずだ。  じっと反応を伺えば彼は何を考えたのかゆらりと移動すると目の前で跪いた。表情は読み取れない。そして私の男性を口に含んだ。変な部分で生意気な小僧だ。抵抗など無さそうに吸い付いてきた彼からはやはり表情は読み取れなかったが、ぎこちなさが丸わかりだった。大分久しぶりの甘い感触ではあったが、正直下手糞すぎて核心を突くには物足りない。一生懸命なのは見下ろしていれば分かるが、どうも発散するまで至らずに疲れてきているのが見て取れた。 「もういい…もっと効果的なことをしよう」 揺れる彼の髪を掴んで引き剥がせば、のろのろとした動きで唾液にまみれた口元を拭う。両肩を押してベッドに転がすと私は大げさに彼の下肢を持ち上げて左右に開いた。羞恥の坩堝を暴き出せば、さすがのポーカーフェイスも仄かに染まっている。初めてだ、と言ったのは嘘ではないのだろう。晒された彼の陰部はそれは無垢だった。どうされるのかはなんとなく察しがついているのだろう。その姿勢のまま彼は動かない。膝を持てといえば膝裏を抱えて転がっている。滑稽ではあったが不思議な官能さもある。 「どんな感じがする?苦しいか…それとも気持ちがいいか?」  私は穢れの無いその窄まりに下世話なほどローションを塗りたくり中を探り出し始めた。誰にも耕されたことのない肉壁は狭く緊張していたが、ぬめりが抵抗を失くしてしまう。彼は甘く呻きながら自分の敏感さに驚いているようだ。何度もビクビクと窄まりが震えている。甘い痙攣に全身が引きずられてよく跳ねる。グリグリと躊躇なく指で熱い粘膜を犯していけば鼻にかかったような微かな声すら漏らす。反り返った彼の男根は脈打って透明な滴を垂らし始めた。 「…どっちも…」 すっかり悩ましげな表情を刻んで相変わらず聞こえるような聞こえないような声色で彼が応える。  官能さに塗れた。私は彼の余裕など一切顧みずに狭い蕾を開いてやることに専念した。摩擦を与えて煽りながら指で開いていく。次第にヒクヒクと麻痺したように口を緩め始めれば、彼自身すっかり出来上がっていた。知らずのうちに一度果てたようだ。腹部に白が散っていた。虚ろな瞳が欲に濡れるのはとても蠱惑的に思えた。意外だった。 こうなってようやく気付く。こんな事は間違いだったのかもしれないと。私は愚かな大人だ。こんな稀代な事態で起きうる事に、予測など出来たものではない。気づいた瞬間にはもう手遅れだった。 私は彼の身体を貫いた。渦巻く甘い欲望に任せて。彼はそれまでの静けさが何だったのかと思うほど、途端に耳元で甘く啼いた。情など不要だとあれ程言い聞かせたというのに、衝動に彷徨ってしがみ付いてくる彼の腕にあっさりと充てられてしまう。  それほど彼の身体は暖かかった。包まれてしまえば甘さしか湧かない。心地がいい。 律動する度に彼は頼りなく乱れる。痛むのか、快楽なのかは分からない。涙をにじませる彼の目にその時だけは光が差していた。こんな交わりはとても久しい。なぜ、会ったばかりの相手とこんな風に感じたのかは分からない。彼もまた揺らいでいるのかもしれない。眉根を寄せたその表情は今までになく人間らしい。なんと切ない顔をするのだろう。 「君の名前は……?」 甘ったる過ぎる抱擁の最中に彼の耳に問いかけた。 「……名前、は…失くした…」  彼の中で快楽に満ちると、若い体はまだ熱を持て余していた。彼がした様に唇で発散させてやると、まるで女の様に仰け反り艶かしく乱れて、彼は果てた。うねる身体の下腹部に傷痕が見える。縫い合わせた痕がくっきりと分かる手術痕だった。某れを指で辿ると、彼は私の手を掴んで制した。 「失くしたのか…」 つい、余計な事を尋ねてしまう。彼は黙って頷いた。   私はこんなに空虚な人間を見た事がない。何を与えても彼の瞳が息吹く事は無かった。食事に連れ出しても、着飾らせても、どんな贅沢を味わわせても闇が晴れる事はなく、ベッドの上で交わる時だけ、彼は息を吹き返す。二度、三度、四度…夜を繰り返す度に生きた眼差しと目が合う回数が増える。無様に嵌ってしまっているのは自覚していた。私は彼を夢中で貪り、彼は必死で私にしがみついていた。  わざわざ景色のいいホテルに部屋をとった日の朝、もう何度彼と過ごしたか日数を巡れるほどになった頃、彼は窓際で一人ポツリと呟いた。 「もう、やめた…」  彼は遂に大事に持っていた紙袋を私に手渡した。出会ったときから持っていた私物のバッグには、その紙袋しか入っていなかった。ズッシリとした紙袋の中には歪な黒い金属が、弾を込められた状態で入っている。安全装置は解除されていなかった。  その中身を手にして私が構える。窓際の男は裸で外の景色を見たまま、こめかみを狙われても反応しない。  私は彼との昨夜の情事を思い返していた。どう巡らせても、夜の私は十二分に満たされていた。  耳に痛い銃声の爆音が部屋中に響き渡った。少しの間何も聞こえなくなる。まるで事後の余韻の中に居るように、思い出して勃ち上がった疼きと耳鳴りとの中で私は、かつて全てを搾取した彼の名前をようやく思い出していた。   何も語らないバーテンの入れるバーボンを数杯飲んで、深夜の街を帰る。何かまた騙し討ちはないのかと、馬鹿げているのに少しワクワクして無駄に歩いて帰るのが日課になっている。  人を踏みにじる後ろ暗い仕事は尽きることなく、手を汚しながらの世に反した生き方は先も終わりもない。恨みや妬みと比例して、金と自由は何故か付いて回り、嫌というほど私に都合よく世の中は回る。   深夜の街は私に合っている気がする。いや、深夜の街しか私は歩けないのだ。あの日置き去りにしてきたあの陰った眼差しが、今夜こそまた待ち伏せしていないかと、私は待っている。  今度はどんなに分かり易い罠だったとしても騙され抜くつもりで、待っているのだ。まだあの紙袋は持っている。 NO NAME END 

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