1 / 3
第1話
紡は、抑制剤を自分が飲むか、目の前に倒れている新入社員に飲ませるか迷っていた。
状況はこうだ。
紡は今から秘書として社長と共に2泊3日の海外出張に出掛ける。社長に出発時間を伝えてから、所用を済ませるためにトイレに入った。
紡は周囲に隠しているがオメガだ。
ヒート期を迎えると繁殖行為以外なにもできなくなるので、回避するために抑制剤を常に持ち歩いている。
紡のヒート期は3か月毎に訪れる。
そろそろ時期なので、抑制剤を飲んでから出張に出るつもりだった。
だが――。
普段は秘書の紡以外ほとんど使わない、事務所から遠く離れたこのトイレの個室に、新入社員が倒れていた。
入社式の時に見た顔だ。確か、横井という青年だったと思う。
彼は、今、まさにヒート期を迎えようとしていた。
瞳が潤み、全身から匂い立つような色気が滲み出ている。蠱惑的で淫猥な空気を纏った彼は、逃げるようにしてここへ転がり込んだのだろう。
「薬を持っていますか?」
紡は静かな声で尋ねた。
彼は力なく首を左右に振った。突然のヒートだったのかもしれない。
ヒートを起こすホルモンの分泌量はストレスや睡眠不足などで簡単に変化する。仕事の忙しさや環境変化でヒートの周期が乱れることは珍しくない。彼のような新入社員ならなおさらだ。しかし、このままヒート期に入ると少なくとも一週間は仕事ができなくなる。
この会社は「働き続けることができるなら属性は問わない」という方針だ。
ほとんどの会社が
「オメガはトラブルのもと」
「オメガは定期的に使い物にならなくなる」
「ヒートだ、妊娠だ、出産だ、と頻繁に休む者は雇えない」
こう言って入社試験の前に就職希望者の血液検査を行い、書類選考の段階でオメガをふるい落としている。
そうしたことをしないこの会社はオメガにとって人らしく生きる希望と言えた。
もし、このまま彼が一週間働けずに欠勤し続けたら間違いなくクビだ。働かない者を雇っておくほど、会社は甘くない。
この会社をクビになり「責任を持って仕事ができなかった」という汚点が付けば彼の将来は絶望的だ。可哀相だがオメガとして性を売る仕事以外、就く先はないだろう。
紡はスーツの内ポケットに入っている抑制剤を手に取った。
「1個――」
解っていたが、実際に目で確認すると悲しくなる。
紡は小さな溜め息を吐きながら抑制剤を見詰めた。
このところ余りに忙しすぎて医師の元へ薬をもらいに行けなかった。いや、効き目が強いという安心感も手伝い、油断していたかもしれない。
この1錠を彼が飲めば、入社直後にヒートでクビ、という悲惨な事態を免れる。
しかし、紡が出張中に社長の前でヒートを迎え、性欲の獣という姿を曝け出すことになる。キャリアはもちろん、秘書という仕事も将来も生きる希望さえも失うことになるのだ。
抑制剤を紡が飲むか、彼が飲むか。
「――」
紡は唇を噛みしめた。
彼のヒートはどんどん進んでいる。時間がない。
紡は決断した。最後の一錠を摘まむと口に放り込んだ。そう。彼の口に、だ。
彼は目を見開き、紡の顔を穴が開くほど凝視した。紡は柔らかな笑顔を浮かべた。
「これで大丈夫です。グレードSの抑制剤ですから初期段階のヒートも抑制してくれます」
不安がって泣く迷子を慰めるような優しい声で紡は言った。
「少し休んで体が鎮まってから仕事に戻りなさい。上司になにか言われたら、社長秘書にヤボ用を頼まれたと言うのです。それから、約3か月はヒートが来ませんから、この間に自分で抑制剤を調達しなさい。解りましたね?」
紡は言葉を続け、彼が頷くのを見てからその場を離れた。
トイレを出て秘書室に戻る。
もう出発の時間だ。
直ぐに駐車場に向かわなければ社長を待たせてしまう。
「きっと大丈夫。まだ、ヒートまで数日間あるはずです」
紡は自分に言い聞かせるように呟き、秘書室にあった荷物を引っ掴むと地下駐車場に繋がるエレベーターに乗り込んだ。
これは賭けだ。
エレベーターのドアが締まり、動き始めた。
「ん、うっ――!」
動き出したエレベーターの感覚に紡は酷いめまいを覚え、壁に背中をついた。
奈落の底へ落ちていくような感覚だった。
「大丈夫! 大丈夫!」
何度もそう小声で繰り返し、紡は自分の心を鎮めようとした。
冷や汗が溢れ出る。
不吉な予感を感じながら紡はエレベーターが止まるのを待った。
ともだちにシェアしよう!