2 / 3

第2話

 高級リムジンの配車サービスXVは富裕層をターゲットとした配車サービスで、予約後1時間以内に高級リムジンが希望の場所へ配車される、として有名だ。  運転手は、性別・年齢・容姿まで指定できるので、リムジンをタクシー代わりに活用する年配者の他にも、外観やシチュエーションにこだわりたい若者や女性ユーザーもリピーターになっている。  料金は高いが、配車サービスXVを自家用車代わりに使っている富裕層も多く、XVは雲の上の生活を送る者達と密接な関係を持っていた。  そんなXVの社長は浅井 隆雅、34歳。若くして父から会社を託され、順調に規模を拡大している。  浅井社長を支えるのが秘書の黒美 紡だ。  寝る間を惜しみ、時には会社に泊まり込んだり、浅井社長に貼り付いたまま言葉通り仕事漬けの日々を送っていた。  浅井社長に全幅の信頼を寄せられている紡は、黒塗りのリムジンの脇に立って小さな溜め息を吐きながらチラリと時計を見た。 「遅いですね。出発予定時間を3分過ぎています」  苛立っているというより、呆れた様子で紡は呟いた。まぁ、浅井社長が時間にルーズなのは解りきっている。それも計算した上でスケジュールを組んでいるから焦ることはない。  しかし、今日の問題はそれだけではなかった。 「浅井社長はいつものこととしても……運転手が来ないというのはどういうことでしょうね?」  予想外です、と紡は眉間に皺を寄せながらぼやいた。  社長用リムジンの運転手はメインの担当者が3名いる。他にも新入社員が研修で運転することがあった。  前社長は研修で運転していた新人運転数名をお気に入りとして自分専属の運転手にしたこともある。新人にとって、飛び級のような昇進を果たすチャンスでもあるのだ。  今日は研修生が来るはずだった。  紡はiPadを取り出して予定を確認する。研修生の名前と所属を確認してから内線に電話を入れようとした時だった。 「あ~、そうだな。あぁ。ハハハ」  地下駐車場に周囲を憚らない笑い声が響いた。紡がiPadから顔を上げて声がした方を見ると、思った通りの男が見えた。浅井社長だ。  上下黒スーツにシルバーのシャツ、赤いネクタイという姿で、銀の髪をライオンのたてがみのように逆立てた浅井社長は、イヤホンマイクで誰かと電話中だった。  いつも口角を僅かに吊り上げたような笑みを浮かべているように見える、自信に満ちた表情が紡は好きだった。生まれ持ったリーダーとしての資質が全身から滲み出ていて、付き従っているだけで安心感が与えられる。  頼れる社長であることは間違いないが、秘書を悩ませる困ったクセがあった。  紡は静かにたたずんで待っていたが、内心、嫌な予感がしていた。  仕事関係の相手とは、大抵、紡がやり取りする。浅井社長が直接電話でやり取りする相手は、仕事よりもプライベートな話が多い。 「あぁ、行く行く! 待ってろ! じゃぁな」  上機嫌で話を終えた浅井社長は、一番機嫌が良いときの笑顔で車の傍までやってきた。 「よぉ、紡! ひとつ頼みがあるんだ」  頼みというより、命令という言葉がピッタリ当てはまる口調で浅井社長が言った。  あぁ、やっぱり。  そんな気持ちになりながらも紡は表情を変えずに、浅井社長の顔を見た。 「なんなりと仰ってください、社長」  軽く会釈しながら紡は答えた。頭の中はスケジュールの組み直し準備がスタートしていた。 「お前のその返事、大好き! 海外出張の帰り、四国へ飛んで温泉入りながら工場の社長と一杯飲む……あ、いや、打ち合わせだ」  下心丸見えの命令だった。  さっきの電話の相手は、リムジンの部品を作っている小さな町工場の社長と思われた。四国在住の酒と温泉好きと言えば杯社長だろうか。 「かしこまりました。フライトスケジュールと、到着後のスケジュールを調整いたします。四国は1泊ですね? 杯社長のお好きなものは……」  即答する紡の脳はフル回転していた。  これから空港へ向かうリムジンの中で予定を組み直し、会社に連絡して空港との調整をさせなければならない。  帰国後の予定は少なめにしてあったはずだ。帰国時間を少し早めれば1泊くらいはなんとかなるだろう。  迎えのリムジンの手配はどうするか。持参する土産の選定も大切だ。紡の脳に杯社長や夫人の人柄や性格、趣向のデータが浮かび上がる。この機に、工場が抱える問題点などの洗い出しもソッとしておくべきだろう。  紡が今後の予定を脳内で組み直していると、パタパタという足音が聞こえた。小柄な者が駆けてくる足音だ。浅井社長も気付き、顔をあげた。 「なんだ? あのガキは?」 「……あ!」  車に向かって駆けて来た青年を見た紡は僅かな驚きの声を漏らした。  黒いスーツに白いシャツ、XVのロゴ入りネクタイを締めたリムジンの運転手姿をしているが、まだまだ見た目は若く「青い」という表現がピッタリだ。その顔は、ついさっき紡がトイレで見た顔と同じだった。 「遅れて申し訳ございません! 本日、運転手を勤める横井です! よろしくお願いします!」  大急ぎで着替えて来たという様子の横井はペコリと頭をさげると、慌てた様子で手袋をはめ直し、リムジンの後ろのドアを開けた。 「おう。しっかり頼むぞ」  浅井社長は運転手が変わったことも、遅れて来たことも特に気にした様子もなく、咎めもせずにリムジンに乗り込んだ。この辺り、浅井社長は大らかだ。  社員の指導は所属する上司が担当すること。  そして、社長のスケジュールをトラブルなく遂行するのは秘書:紡の仕事だ。  社長の役割は悪い結果を最低限のダメージで抑え、責任を負うこと。  浅井社長はそう割り切っているから余計な所に首を突っ込んだり、口うるさく言ったりしないのだ。  紡も浅井社長に続いてリムジンに乗り込んだ。その際、紡は横井の目を見た。  彼は照れたような表情で、だが、しっかりとした顔付きで小さく頷いた。大丈夫、といっているようだった。  言葉を交わさず紡が乗り込むと横井は静かにドアを閉めて運転席に入った。リムジンが静かに発車する。  紡は運転席の方をチラリと見た後、優雅に足を組んで座り、備え付けのシャンパンとブドウを口に運ぶ浅井社長に向かって口を開いた。 「これよりN空港へ向かいます。プライベートジェットで香港へ飛び、その後……」  iPadを操りながら紡は淀みなく今後の予定を読み上げた。その予定は3分間止まることなく続いた。  延々と続く予定を聞いていた浅井社長はグラスを傾ける手を止めて、ゲンナリとした表情で紡の顔を見た。 「お前は『鬼』だ」  浅井社長は余りの過密スケジュールに心底、ウンザリだという表情だった。ピタリと言葉を止めた紡は、シレッと言葉を返した。 「お父様から継承された会社を発展させている貴方様のために全力を尽くしている私に対する、最高の褒め言葉として受け取っておきます」  暫く二人は顔を見合わせ、お互いの出方を窺うように視線を交わしていた。  しばらくの沈黙の後、先に折れたのは浅井社長だった。 「ま、鬼じゃねぇと俺の相手は勤まらねぇよな。お前はいい秘書だ。でも、睡眠時間をもうちょっとくれよ……脳味噌休めてやらねぇと仕事にならねぇ」  わざとらしく欠伸をする浅井社長に向かって、紡はメガネのズレを直す仕草をしながらiPadのスケジュール帳をチェックして冷静に返事をした。 「毎日3時間の睡眠は確保しており、仮眠時間も適宜作っています。今日は移動時間が多いですし、比較的緩いスケジュールです」  言い終えると紡はリムジンの中のモニターに複数の資料を表示した。 「こちらの資料に目を通してからお休みください。空港到着まで約20分あります」  時計をチェックした後で紡は帰国後の予定を組み直すべく、iPadのスケジュール帳を訂正し始めた。  しかし――。 「!」  ゾクッと背筋が寒くなった。そうかと思えば、腹の奥がカーッと熱くなる。体の中で明らかな変化が起こっていた。  紡の表情が強ばった。  心拍数が上がっていくのを感じた。浅井社長に悟られないよう、息を潜めながら深呼吸を繰り返すが心臓の拍動は治まらない。  間違いなくヒート期の前兆だ。  紡は全身の血が音を立てて引いていくのを感じた。このままでは空港に辿り着く前に倒れそうだ。  いつも薬で抑えているせいか、ヒート期の前兆が現れると紡はどんなに遅くても3時間以内には動けなくなる。早ければ30分と理性が持たない。  いつもなら、ここで抑制剤を飲む。しかし、今、ここにそれはない。そして空港に行けばプライベートジェットで海外へ飛ぶ。  あの抑制剤は特別な医師に処方してもらうSクラスの処方薬だ。簡単に手に入るものではない。 「なぁ、紡?」  タッチパネルを操作する手の動きが止まった紡の腰に浅井社長が腕を回してきた。 「は、はい!」  浅井社長の太く逞しい腕の感触が異様な魅力として体に伝わる。  浅井社長がアルファなのを紡は知っていた。彼はヒート期を迎えたオメガを嗅ぎ分ける能力を持ち、オメガはアルファを強力に誘惑する能力を持つ。  この閉鎖空間で体を寄せ合うなど、言語道断の行為だ。  だが、逃れられない。この状況自体がこの上ない恐怖だった。  浅井社長は時折、戯れに男女の関係を迫ってくることがあった。社長と秘書のイケナイ関係はお約束だろう? と笑いながら悪びれた様子もなく迫ってくる。そんな戯れが間の悪いことに、今、始まった。  腰を抱き寄せられ、逞しい胸元に顔を埋める姿勢を取らされた。いつもなら、浅井社長の口付けだけを受け入れ、サッと身を引く。  だが、今、それをされると違いなく悟られる。それだけでなく、自分の衝動も抑えられなくなる。最悪の状況だ。 「なぁ、紡。俺の睡眠時間は確保していても、お前自身はどうなんだ? ちゃんと休んでるのか?」  給料は高いが金で買える健康には限りがある。浅井社長はそう言っていた。  浅井社長の手が紡の頭をポンポンと撫でてくる。このまま、その手が滑り落ちて頬を撫で、顎を掴むと口付けに繋がる。 「だ、大丈夫です」  冷静さを装って答えた紡だったが、声が震えていることに自分でも気付いた。  スーツの下に潜む肌の熱、優しく髪を撫でる浅井社長の手に、いつも押し殺している感情がわき上がってくる。息が上がり、浅井社長の熱に体が過敏に反応する。腹の奥底から、ゾクゾクと全身に広がっていく感覚……。  それが情欲であると気付いた紡はギリッと唇を噛んだ。 (治まれ……治まって!)  この体質には怒りすら覚える。  男であるのに子供を宿す能力を持ち、定期的にヒート期という繁殖能力が突出して高くなる時期を持つオメガ。  繁殖という能力では他を圧倒する優秀さを持つ体は、動物として考えれば価値あるものだろう。しかし人間社会で社会ルールの中で生活する上では、この能力は恨めしく思う。  今のように、これまで10年以上かけて築き上げてきた自分の地位、名誉、職、全てを一瞬で破壊する能力なんて、邪魔なだけだ。 「紡?」  浅井社長の言葉が遠くで聞こえた。  全身の力が抜けた。同時に、相手を誘う強烈な色香が濃密な霧となって広がっていく。  顔を覗き込んでくる浅井社長の顔を見上げた紡は、その目が鮮烈な蒼に輝くのを見た。  アルファがオメガの誘いに反応した証だ。  働き続けられないオメガとして、醜態を晒した――  紡の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

ともだちにシェアしよう!