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3、ゆらめく煙のスクリーン
「何も無い家だが、さあどうぞ」
夕食を終え、片岡は甥を連れて家へと戻ってきた。
大して新しくも広くもない1LDKの小さなマンションが片岡の城だった。
甥のふたりは、礼儀正しく、おじゃましますと靴を脱ぎ部屋へと入る。
リビングを見回して夏樹がひとこと。
「ここがおじさんの家かー。なんていうか……サッパリした部屋っすね」
ふたりを通したリビングは、無趣味の片岡を象徴したような部屋だった。
あるのは小さなテーブルとテレビだけ。そして、ほのかに残るタバコの香り。
「お前たちが楽しめるものが何も無くて悪いな」
「いえ、急にお邪魔した僕たちを泊めていただけるだけで十分ですよ。あ、そうだ。これ、父からです」
春人がリュックから取り出したのは、有名な和菓子屋の菓子折りだった。
面倒を見る代わりに、ということであろう。
「身内でそんな気を使わなくてもいいんだけどな。まあ、せっかくの兄の好意だ。ありがたく頂くよ。……というわけで、夏樹、食べていいぞ」
「え!?」
「ははは。これを見たときから目が輝いてたからな。甘いのが好きなのは昔のままだな」
「ありがとうおじさん! じゃ、さっそく……」
「夏樹! それはあくまでもおじさんへのお土産なんだから、おじさんを差し置いて開けるんじゃない」
「いや、いいんだ春人。実は俺は甘いものが少し苦手でな。それはお前たちで食べてくれ。俺は、代わりと言っちゃなんだが、コレを嗜むよ」
と言いながら片岡は、ポケットから取り出したタバコをふたりに見せた。
「あれ? おじさんってタバコ吸ってましたっけ?」
「そういえば、最後に実家に帰ったときは、まだ吸ってなかったかな」
片岡がタバコを吸い始めたのはここ数年。キッカケは『発情』だった。
発情で火照る身体を紛らわすために、アルファと触れ合えぬくちびるの寂しさを慰めるためにと吸い始めたのが、そのまま習慣化していった結果だ。
「キッチンで吸ってくるから、テレビでも見ながらゆっくり食べてればいいよ」
換気扇の下、小さな火が燃え、タバコが赤く色付いた。
深く息を吸い込んだ片岡が、換気扇に向かって白い息を吐く。白い軌跡は換気扇へと吸い込まれ、空気に霧散し色を無くす。
「しっかし……あのふたりも昔と変わらないな……」
ゆらめく煙に映るのは、まだ甥たちが小学生だった頃の光景。
元気に走り回る夏樹と、まじめで行儀正しい春人。正反対の双子の姿。
そして、まだ未来に希望を抱いていた頃の自分の姿。
「……いつから俺は……」
片岡の口から、その言葉の続きが零れることは無かった。
奥底へと沈めた想いが重い枷となり、吐き出すことを許さないのだ。
片岡には、すぐ隣から聞こえる甥たちの声でさえ、どこか遠い世界のように思え。孤独の中で、ただゆらゆらと昇って消え行く煙だけを見ていた。
「あ! おじさん灰落ちるよ!」
不意にかけられた声に片岡がビクッと身体を震わせると、伸びた灰が、ぽとりとフローリングへと落下する。
「あーあ。やっちゃった」
「……ははは。まあ、あとで片付けておくよ。ところで、俺に何か用か?」
「ああ、そうだ。おじさん、俺の髪の毛どう思う?」
「キレイに染まった金髪だと思うけど」
「だよね! カッコいいよね! この日のためにオシャレして染めたのに、春人のヤツ『ひと昔前のヤンキーみたいでカッコ悪い』なんて言うから、おじさんの意見を聞きたくてさ」
「感性は人それぞれだからね。そういう受け取り方をする人もいるってことさ」
夏樹の頭をぽんぽんと撫でて、吸殻を灰皿に押し付けたところで――。
片岡の身体に異変が起きた。
心臓がドクドクと高鳴り、身体の奥底からマグマのような火照りが沸き上がってくる。
足がガクガクと震え、立っていられなくなった片岡は、その場に尻餅を付いてしまった。
「ちょっとおじさん、なにやってんだよ」
笑いながら問いかける夏樹の声は、片岡に届かない。
正確に言えば、片岡には夏樹の言葉を気にしている余裕は無かった。
『まさか……こんなときに……そんなバカな……!?』
片岡は知っていた。理解していた。今、自分に起こっている現象のことを。
それはもはや片岡の日常の一部とも言えるが、片岡の経験からして、今日ではなく数日後に起こるはずの現象だったのだ。
『……発情……して、しまった……』
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