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第1話

 科学技術の進化は生活を豊かにする反面、人間を不幸にする。    たとえばダイナマイト。    誰だってみんな人の役に立ちたい。人から喜んでもらいたい。そう思って行動する。結果として望まないことになったとしても誰かのために何かをするという、その時の気持ちはきっと輝いていて美しいものだ。    ノーベル賞の時期になるたびにノーベルさんがどんな気持ちで兵器として使われるダイナマイトを見つめていたのかを考えて胸が苦しくなる。科学者はいつだって世紀の発見に狂喜する。あたらしいことを知るのは楽しい。子供の頃はみんなそうだったんじゃないだろうか。学問を究めすぎている人はどこか、子供のように純粋で無邪気なことが多い。知的好奇心を満たしたいという気持ちに支配されているからだ。知りたいという欲求から逃れられずに追及してしまう。    けれど、人の心がないわけじゃない。誰だって特定の誰かを不幸にするために行動を起こそうとはしない。科学は人を幸せにするための力だ。そう信じているからこそ、真理を追究する旅に出るのだ。世界の神秘を解き明かす、その先により良い未来があると誰もが信じている。きっと建前以外の部分でも。   『かわいそうにね。わたしたちの世代なら捨てられることもなかったのに』      その施設が雇った住み込みの保育士はほぼ毎日、俺たちβにそう告げた。  今にして思えば、自分は違うというニュアンスを持ちながらもβである彼女が幸福でなかったことは明らかだ。自分よりも俺たちがかわいそうだと彼女は口にし続けた。    子供心に彼女の言葉は俺たちに嫌な形で響いて、毎日のように気分を落ち込ませてく原因になった。  俺たちがくすんでいったのは、親に捨てられて施設で暮らしていることよりも、彼女の言動に理由がある。けれど、きっと彼女にも彼女をくすませた誰かがいたのだ。何もわからず施設の世話になっていた俺たちは、彼女のストレスの捌け口にされた。    妊娠した子供がαであるのか、βであるのか、Ωであるのか、昔は分からかなかったのだという。俺が生まれるころには出産前に性別診断をするのが普通で、そこまで費用も掛からず規制もなく男か女かαかβかΩかを教えてもらえる。    昔は第二次成長期と呼ばれる年齢に育つまで子供のバース性はわからなかった。  優秀な子だからαに違いないと期待していた子がβだったなんてことはよくある話。  αを望んでいた親だって育てれば愛着がわく。  昔はβと診断をもらった子でも変わらず愛していたと聞く。  だが、βを哀れんでいたβの彼女を見ていると昔の人間が幸せだったとも一概に言えない。  悲しみや苦しみはどこにでも転がっていて、人の手によって大きくなったり小さくなる。    科学技術の発展や医学の進歩は必要だったのだろうかと、ワールドワイドな思考をめぐらせるぐらいにβの保育士の存在は俺の人生で大きい。    自分がβであるということが苦しみの原因だとしても、それは切っ掛けでしかない。βだったとしても自分の納得できる形の幸せを見つけなければならない。生きていくのはそういうものだと幼いながらに感じた。保育士の意見に反発したかったのかもしれない。    出産前にバース性がわかることにより、αを産んで成功者になりたかった一部の人間によるβの堕胎が激増して社会問題にまでなった。    お腹の中にいる段階で性別が分かるので、αを望んでいた親はβだったら外れとして仮に産んでもどこかに捨てる。    αは勝ち組、Ωは金の卵を産むかもしれない、βは育てるのは無駄。そういった意識が世間にあふれていた。もちろん、子供は授かりものであり、カプセルトイのように中を見て当たり外れとやるものじゃないという常識は根強い。それでも、αが優遇されるこの世界でβへの外れというレッテル貼りは消えない。経済が発展して物質的に豊かになった国はどうしても非常識で心のない人間が目立ってくる。きっと、合理性という魔物に憑りつかれているのだ。

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