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「遅い……。遅すぎる!」  腕時計に何度も目をやりながら少し苛立ちを含んだ声で呟いたのは、あと数十分後に大事な新規事業提案に関するプレゼンを控えた平坂(ひらさか)匡人(まさと)だった。  会場となる会議室の前のロビーには最終選考まで残った企業の担当者が、自分のプレゼンが採用されるに決まっていると自信ありげな表情で、不安を見せる匡人を嘲笑うかのような視線を投げ掛けていた。  匡人が勤務する総合商社W開発の社運を賭けた一大プロジェクト。それを任されたのは入社四年目にして開発営業部主任となった匡人と、その上司であり開発営業部課長の戸恒(とつね)貴英(たかひで)だった。  土地の売買や不動産、有効活用から新規事業の提案まで幅広く手掛ける部署で短期間に昇格することは難しい。しかし、匡人はもって生まれた強運と人知れず重ねた努力の結果、大きなプロジェクトに参加することを許されたのだった。  そんな匡人が人待ち顔で腕時計と周囲を交互に見ては何度目かも分からなくなったため息をついた。 「まさか、逃げた……か?」  二十分ほど前に「トイレに行く」と告げたまま戻ってこない上司に、匡人は意を決したように行動に出た。  ロビーを横切るように足早に歩いていく。向かった先は男子トイレだ。  彼が匡人を騙すとは思えないが、もし他の場所に逃亡したとなれば悠長なことはしていられない。  とりあえず彼の言うことを信じてそこに向かうと『ただいま清掃中』の黄色い看板が入口に置かれていた。しかし、清掃スタッフの姿は見当たらない。 「姑息な真似を……」  匡人は呆れたように大きなため息を一つ吐いてから、個室が並ぶ奥へと足を進めた。  そこには一つだけ施錠された扉があり、中から小さな声でブツブツと何かを呟く声が聞こえた。  ドアに耳を押し当てて、それが彼の声であることを確信した匡人は、スッと息を吸い込んでから思いきり目の前のドアを叩いた。 「戸恒課長! どんだけ長いトイレですかっ」 「ヒ……ッ」  喉を締め上げられたような声がして、すぐに沈黙が訪れる。  人払いをし個室の中に籠城していたのは、プレゼンに同行した上司――戸恒貴英だった。  匡人は怒りと呆れが混在した複雑な思いを押さえ込んで、出来るだけ穏やかな声で話しかけた。 「そろそろ出てきてもらえませんか? プレゼンの最終打ち合わせをしたいので……」 「――腹の調子が……ちょっと」 「嘘つかないでください! さっき、日替わりランチをガッツリ食べてたじゃないですかっ」  間髪入れずに入れた突っ込みに、個室内から諦めにも似たため息が聞こえた。 「平坂は緊張しないのか? もしも失敗したら……とか考えない? 俺は無理だ。そもそも、こんな大きなプロジェクトを俺に任せる方が間違ってる! 部長がやればいいじゃないか……」 「子供じゃないんですから……毎回、同じこと言って逃げ腰になるのやめてもらえます? ってか、課長のヴィジュアルでそんなふうに甘えても説得力ないどころか、むしろドン引きです」 「平坂は強いな……」 「強くならないとあなたの部下は務まりませんから。――早く出てきてください」  匡人はスーツの上着のポケットに手を入れて中を探りながら言った。 「ここから出ても俺だけ帰社することは出来ないんだろ?」 「プレゼンが終わったら帰れますよ。タクシーで一緒に帰った方が楽でしょう?」  大事なプレゼンを前に帰ることしか考えていない戸恒に苛立ちを覚えながらも、匡人はポケットの中の物をギュッと握りしめた。  わずかな衣擦れのあとでゆっくりとロックを解除する音が聞こえ、扉が細く開かれると待っていましたと言わんばかりに匡人が革靴の先を隙間に差し入れた。 「あ……平坂っ」 「もう逃がしませんよっ! さあ、いつものように魔法をかけてあげますから出てきてください!」  その言葉に渋々といった表情で顔を覗かせた戸恒は一八三センチの長身を申し訳なさそうに丸めながら匡人の前に立った。 「――ホントに怖くない?」  上目使いでおどおどとした目を向けた戸恒を睨むように匡人は目を細めると、ポケットの中からジェリービーンズの小袋を取り出して封を開けた。 「俺の魔法がいまだかつて効かなかったことがありましたか?」 「――ない」  ドヤ顔で小袋に指先を突っ込んでジェリービーンズを取り出した匡人は、戸恒の薄い唇にそれを押し当てた。それを合図にうっすらと唇を開いた彼はジェリービーンズを口に含むとゆっくりと咀嚼した。 「美味しい?」 「うん……」 「じゃあ、魔法をかけますね」  そう言うなり、匡人は戸恒の首に両腕を絡ませて引き寄せると耳元で囁いた。  それは鳥の囀りのように愛らしく、そして誰もの心を穏やかにする声だった。 「たーたんには怖いものなんかない。たーたんは大丈夫。絶対に失敗なんてしない……」  三十五歳になったばかりの上司に向かって言う言葉ではないことは重々承知だ。だが、これは直属の部下であり『課長のお世話係』と称される匡人にしか使えない啓発魔法なのだ。  戸恒の整えられた黒髪が揺れ、ワイシャツの襟元から愛用の香水がふわりと香る。  しばらく身動きひとつしなかった戸恒がゆっくりと顔をあげる。  それまで丸めていた背筋をピンと伸ばし、端正な顔立ちに猛禽類のような鋭い眼光を湛えた焦げ茶色の瞳を眩しそうに細めて匡人を見下ろす。  口元にはうっすらと笑みを湛え、緩んだネクタイのノットを締め上げる長い指先は活力に満ちていた。 「課長……今日も素敵ですっ!」 「当たり前だ。俺を誰だと思っている?」  フンッと鼻を鳴らしてドヤ顔をして見せる彼に安堵した匡人は強張っていた肩の力を抜いた。 「効かなかったことはない」とは言うものの、ある種の暗示であることには違いない。弱気で、やることなすこと及び腰の戸恒に「絶対出来る!」と言い聞かせることは賭けのようなものだ。  母子家庭で五人兄弟の長男として生まれた匡人は父親の代わりも努めなければならなかった。「跳び箱が飛べない」「鉄棒が嫌い」という幼い弟や妹に「やれば出来る」という暗示をかけていたことがきっかけだった。  子供は騙せても、大の大人が安易にかかるような暗示ではない。だが、幼い頃から両親にそう言って育てられた戸恒には有効な手段だった。  そして、彼の大好物であるジェリービーンズを与えることで暗示は完璧なモノへと変わる。 「平坂。失敗は許されないプレゼンだ。自分のクビが掛かっていると覚悟して挑め」  つい数分前までトイレの中で震えていた男と同一人物とは思えない、畏怖を纏い男気に溢れた戸恒がいる。  洗面カウンターで手を洗いながら鏡に映った自分をうっとりと見つめ、ニヤリと唇の端を片方だけあげた。  長身の筋肉質でがっしり体型、スリーピースがよく似合うモデル顔負けの美丈夫。だが、鋭い眼光と誰も寄せ付けない独特のオーラはインテリヤクザにも見えなくはない。その見た目にさらに追い討ちをかけるのは超がつくオレ様口調で、性格もドがつくS――これが戸恒貴英の本来の姿なのだ。 「――聞いているのか? 平坂っ」 「は、はい! この平坂、命をかけてプレゼンさせていただきますっ」 「いい心がけだ。さすが俺の右腕だけのことはある。頼んだぞ……」 「任せてください!」 「しくじりは許さない。分かっているな?」  鏡越しに睨まれ、匡人はいつもの事だと分かっていても背筋に冷たいモノが流れるのを感じた。  トイレを出た二人を待っていたのは、先程まで自信に溢れた顔で談笑していた企業の担当者たちだった。  戸恒の姿を見るなり、ただならぬ緊張感がロビーを支配する。 「あれが噂のW開発の営業課長か……」 「黒い噂もあるって聞いたぞ……」 「あの舎弟もなかなかのキレ者らしい」  どこからそんな噂が湧き出るのかというほど、担当者たちが口々に囁く声は嫌でも耳に届く。確かに戸恒の風体は匡人も認めるほどヤクザ寄りだ。  しかし彼の家は代々続く旧家で、両親も古典芸能に精通している上にいくつもの企業を傘下に持つセレブ経営者だ。戸恒自身も一流大学を卒業し、日本舞踊の師範代の資格を持っている。幼い頃からビビりだったという彼だが、持ち前の記憶力と周囲を巻き込み自分に有利に動かすことが出来る天然パワーで今まで幾多の困難を乗り越えてきたという。  匡人もまた、その天然パワーに巻き込まれた一人だ。  放っておけない、目が離せない。  コワモテでありながらも、どこか庇護欲を掻き立てる戸恒のそばにいたいと自ら志願し直属の部下となった。 (さっきまで俺のことを嘲笑ってたのはどこのどいつだよ!)  内心で周囲の者たちに毒づきながらも、匡人の前を歩く戸恒の逞しさに安心感を覚えながら、各企業の社運を賭けた戦場ともいうべき会議室へ意気揚々と乗り込んでいった。

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