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【2】
社運を賭けたプレゼンを無事に終え、W開発の営業部は活気に満ち溢れていた。
匡人もまた経験値を上げ、次の仕事に意欲を燃やしていた。
この日も出社前に取引先に寄り、通常の出勤時刻よりも遅れて営業部のフロアに足を踏み入れると、いつもならスタッフの談笑が聞こえる明るい職場がただならぬ雰囲気に包まれていた。
その元凶と思われる窓際の席に目を向けると、そこには唇をきつく引き結び、ただでさえ迫力のある相貌をより険しくし、一点を見つめたまま微動だにしない戸恒の姿があった。
近くにいた同じ開発部の寺田 の腕を掴んで引き寄せると、匡人は小声で問うた。
「朝からどうしたっていうんだよ。課長、なにを怒ってるんだ?」
「今朝、早々に専務に呼び出されて……。戻ってきたと思ったらずっとあのまま動かない」
「専務? 誰かが何かやらかしたのか?」
寺田は心当たりがないと首を捻るばかりで、戸恒が不機嫌な理由がはっきりしない。
表情からして大きなプレッシャーに怯えている訳ではなさそうで、今は通常のドSモード継続中のようだ。
「平坂……お前が怒らせるようなことをしたんじゃないのか? 戸恒課長とまともにやり合えるのは、この部署の中――いや、社内でもお前ぐらいだからな」
「全く心当たりがない……。そもそも常にコワモテだから、正直なところ俺だって機嫌の良し悪しなんて分からないんだよ」
「今日はむやみに近づかない方がいいな……。何か頼むときはお前に委ねるから」
「マジかよっ」
寺田は大袈裟に体を震わせながら自分のデスクに戻っていった。
手にしていた茶封筒と鞄を握りしめ、匡人は恐る恐る戸恒のデスクに近づいた。
匡人の気配を感じ取ったのか、猛禽類のような鋭い視線がゆっくりと向けられる。
「――おはようございます。あの……出勤前に取引先に寄ってきました」
顔色を窺いながら言葉を選ぶように言った匡人をギロリと睨んだ戸恒は、ゆっくりと椅子から立ち上がるなりクイッと顎をしゃくって見せた。
「え?」
「――話がある。来いっ」
フロア中の視線が匡人に集中する。それまで不動の姿勢を貫いていた戸恒が匡人の出現によってその腰をあげたのだから、誰もが『やっぱり原因はあいつか』と満場一致で思ったに違いない。
匡人は戸惑いを隠せないという顔で、少し俯き加減のまま戸恒のあとを追った。
いつ見ても隙なく完璧にスーツを着こなし、スタイリッシュに振る舞う戸恒には常に女性との噂が絶えなかった。しかし、特定の相手がいるという話は本人からも聞いたことがなかった。
それに、耳にする噂もイマイチ信憑性に欠けるものばかりで、女性とベッドにいるところをそっちの筋の男に襲われそうになったとか、いざセックスをするという段階で彼のイチモツが大きすぎるばかりに女性の秘所に入らなかった……とか。
戸恒はコワモテではあるがその筋の人間ではない。だから襲われる理由はないし、そんなことはまずあり得ない。
後者の方は、あの顔ならもしかして……と想像力を掻き立てられる話ではあるが、実際彼のイチモツを目にした者は誰もいない。
そうなると、一番近くにいて彼に信頼されている匡人ならそのイチモツを拝める可能性はゼロではなくなる。
公言はしていないが、匡人はゲイであり自他ともに認めるバリネコだ。
戸恒にそういった性癖があるかどうかは疑問だが、一度お手合わせ願いたいと思う下心を今までに何度か浮上させている。
しかし、戸恒は匡人の何気ない誘惑に全く興味を示さなかった。それ故に匡人の中で『上司と部下』以上の感情は持たないと線引きされていた。
ぼんやりと歩いていた匡人の目の前に戸恒の広い背中が突然迫り、ハッと息を呑んでぶつかる寸でのところで踏みとどまった。
「――平坂、急ぎの業務はあるか?」
「いえ……特には」
彼の問いかけに、長引きそうな話なのだと容易に察した。
ミーティングルームと呼ばれるテーブルと数脚の椅子、正面にはホワイトボードが用意された小ぢんまりとした部屋に入った戸恒は、柔らかな日差しが差し込むブラインドを、まるで光に怯える魔物のように苛立たしげに下ろすと薄暗くなった部屋に照明を灯した。
あまりにも重苦しい沈黙に耐えかねて匡人は椅子を引き寄せながら問うた。
「課長、話ってなんですか? この前のプレゼンで何かトラブルでも?」
「トラブル……ねぇ」
何かを含んだように呟き、椅子に腰かけて長い脚を組んだ戸恒はテーブルを挟んで正面に座る匡人を見据えた。
そして――。
「お前――俺のことが嫌いか?」
「ふ……ふぇっ?」
思わず出てしまった変な声に慌てて口元を押さえた匡人は、目を大きく見開いたまま「冗談だ」と笑うでもなく真剣そのものの戸恒を凝視した。
「好きなのかと聞いている……」
匡人の頭の中は真っ白になっていた。
三十五歳独身貴族、コワモテではあるがイケメンでスタイルもいい。何より仕事が出来る理想的な男……。
そんな男が自分の恋人だったなら……と思ったことは何度もあったが、匡人の中で一度線引きした感情を再び掘り起こすのは憚られた。
誰も知らない戸恒の別の顔を知っているのは匡人だけだ。それだけでも優越感を感じているというのに、抑え込んでいた別の感情を揺さぶられているようで視線が泳ぐ。
「好き……と言えば、す……き、かなぁ」
「好きなんだな?」
畳み掛けられるように迫力のある低い声で言われれば、誰しも反射的に「はい」と答えるだろう。匡人も然り……だった。
「はいっ! 俺は戸恒課長がす……好き、です!」
匡人の返事に満足したのか、それまできつく引き結んでいた唇をふわりと綻ばせた戸恒は、目を細めて嬉しそうに笑った。
その笑みがあまりにも妖艶で、抑え続けている匡人の恋心を激しく刺激した。
「――じゃあ、話は早いな。お前は誰にも渡さん。俺のそばにいればいい」
遠回しの愛の告白めいた言葉を放つ戸恒に、匡人の顔がだんだんと熱くなっていく。
女性にしか興味がないノンケだと思っていた戸恒が自分と同じセクシャル・マイノリティーであったという事実に、今まで以上の親近感を抱いた。
「課長、こんな場所でそんなこと……。今じゃなくてもいいじゃないですか?」
「今じゃなければダメだ。俺はお前の率直な意志を確認したかった」
「意志……ですか? それはちょっと大袈裟過ぎるんじゃ……」
少し真面目な顔をしようと試みるのだが、嬉しさと気恥ずかしさに口元が自然と緩んでしまう。こんなだらしない顔を戸恒に見られていると思うだけで匡人の心臓は高鳴るばかりだ。
「お前を失うことは死活問題だ! これで俺の決意は固まった。あんなロクでもない奴らなんかに平坂は渡さんっ」
匡人はその言葉に、自身の思いと彼の話に食い違いが生じているような気がして違和感を感じ始めた。一体誰が匡人を欲しがっているというのだろう。恋人となる前にどうしてそんな障害が起こりうるのだろう……と。
「あの……課長? 奴らってちなみにどちら様のことなんでしょう?」
匡人が何気なく口にした疑問が彼の琴線に触れたのか「なに?」と唸るように呟いて勢いよく立ち上がると、靴音をたてて匡人のもとに歩み寄った。
そして、大きな手で匡人の襟元を掴み上げると、端正な顔をグッと近づけて地の底から響くような低音で言った。
「お前の完璧とも言える攻め姿勢なプレゼンを見たY商事の営業部長が、お前を欲しいと言ってきているらしい。いわゆる『引き抜き』だ。お前も知っているだろうが、うちとY商事は互いにライバル視している、いわば犬猿の仲だ。そんな会社に俺の右腕であるお前を渡すわけにはいかない。特に開発部で扱っている案件には口外出来ない内容も多い。お前を信用していない訳じゃないが、当社の機密事項を安易に漏らされるのも困る。――何より、持病である俺の不安症を癒せるのはお前しかいない」
襟元を掴んだ手から不意に力が抜け、戸恒は匡人の肩に頭を預けるように俯いた。
「課長……?」
「――怖いんだよ。お前がいなくなったら、俺……どうやって生きていけばいい? 専務から話を聞いた時、震えが止まらなかった。怖くて怖くて……どうしようもなくて。俺のこと嫌いだって見切られたらどうしようとか、Y商事で俺の敵になったお前と争うなんて……絶対に出来ない。今だって本当は信じられないんだよ。――お願い。俺のそばにいて」
本人曰く『持病』である不安症は、部下の手前表に出ることはなかったが、水面下では戸恒の心を暗く閉ざし、絶望的な気持ちにさせていたのだろう。
事実、匡人の腕を掴む長い指先が小刻みに震えている。声も先程までの張りはなく、今にも泣き出しそうな嗚咽を含んでいた。
匡人は咄嗟に上着のポケットの上に掌を押し当て、そこにジェリービーンズの小袋が入っていることを確認すると、恐る恐る戸恒の黒髪を撫でた。
傷を負った野獣を手懐けるように優しく頭を撫でてやると、戸恒の指先の震えが止まった。
「――大丈夫。俺はどこにもいったりしない。たーたんのそばにいるから安心して。もう怖くないだろ? 俺はここにいるんだから……」
そう言いながら小袋を取り出した匡人は指先でピンク色のジェリービーンズを摘まむと、目をわずかに潤ませたまま顔をあげた戸恒の唇にそっと押し当てた。
薄い唇の中に吸い込まれていくビーンズを見つめながら、戸恒の首に腕を絡ませる。
「俺、課長のこと好きですから。だから……そばにいさせてください」
まるで独り言のように、そして心の奥底に沈めていた封印を解いてしまったことを少しだけ悔やみながら、匡人は優しい声音で囁いた。
一度は諦めたはずの想いを再び胸の奥に沈めるのは、なかなか出来ることではない。
戸恒に匡人に対して恋愛感情がないと分かった今、それを気づかれないように接していかなければならない。
(これからの方が大変だな……)
本来の戸恒に戻る前に……と、匡人は彼の耳朶に軽く唇を寄せた。
キスというには一瞬で儚い接触。でも、今はそれだけで満たされる自分がいた。
「――課長、戻ってきてください」
匡人の言葉を合図に戸恒がのそりと顔をあげる。
その野性的な瞳には闘志のようなもの漲り、いつも以上に妖しく輝いていた。
「相手がどうしてもというのなら、真っ向から受けて立つ。お前を守るためなら俺が直々に話をつけてやるから安心しろ」
戸恒の傲岸ドSが発動したところで、匡人は静かに腕をほどいた。
少しでも彼から離れようと一歩後退した時、まだ戸恒の手が自身の腕を掴んでいることに気づいた。
「課長……?」
「――いつも悪いな。お前には助けられてばかりだ」
普段は絶対に口にすることのない労いの言葉。それをなんのてらいもなくサラッと口にした戸恒に驚き、匡人は瞠目した。そして、それが匡人を傷つけていくことを知らない彼に対し、わずかな怒りさえ感じていた。
(優しい言葉なんかいらない。期待させるようなことばっかり……)
その気がない戸恒に悪気はないと分かっていても一線を越えた感情を持ってしまった匡人にとって、これほど苦しい仕打ちはなかった。
「気にしないでください。俺は課長の『お世話係』ですから……」
頑張って出した声に不自然なところはないだろうか。ちゃんと笑えてる?
上着の生地越しに彼の体温を感じるたびに、胸の奥に刺さった棘がチクリと痛むのだった。
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