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 戸恒への恋心に気づき、そして『諦め』という形で匡人が自己完結した日からまもなく、Y商事から直々に匡人のもとに打診があった。  もちろん引き抜きの件はきっぱりと断ったが、叶わない恋を抱えたまま戸恒のそばにいつまでいることが出来るか、自身の忍耐力の限界にも不安があった。  夜、一人になれば自然と彼のことを考え、気がつけば端正な顔立ちと愛用の香水の香りを思い出しながらの自慰に耽っていた。  それでも社内では何食わぬ顔で、いつも通りに戸恒と接する自分。  あり得ないと分かっていても、女性との噂話を耳にするたびに惨めさは加速する。  重要な会議の前や大事な商談の前に儀式のように行われる啓発魔法。  戸恒の頭を抱き寄せて耳元で囁く暗示。 「俺のことを好きになる……」  何度もそう言いたくなって、ふっと口を塞ぐ。  もしも、本当に魔法が使えたら――。自分のキャラに存在するはずのない乙女のような妄想に呆れ、ため息をつく毎日。  そんなある日の夜、匡人をさらに貶める残酷な仕打ちが待ち受けていた。  終業時刻ギリギリに入ったクライアントからの急ぎの依頼に対応し、疲れた表情を隠すことなく帰社したのは午後十時を回った頃だった。  誰もいるはずのない営業部のフロアを寂しさからか早々にあとにして、自宅マンションへ向かうべく最寄りの地下鉄の駅の階段を下りかけた時だった。  上着のポケットの中でスマートフォンが振動し「こんな時間に誰だ?」と訝りながら画面を確認すると、そこには戸恒の名前が表示されていた。  行きかう人々の通行の邪魔にならないように壁際に移動しながら通話ボタンを押し、耳に押し当てると低い声が匡人の鼓膜を震わせた。  この時間、仕事終わりの疲弊した体には少し刺激が強すぎる声ではあるが、その掠れ具合に匡人はすぐ『もう一人の戸恒』であることに気づいた。 「もしもし……? 課長?」 『――今、どこにいる?』 「会社の近くですが……。課長、どうかしましたか?」  しばらくの沈黙が続き、匡人の心にも不安が広がっていく。会社では何度も不安症に陥る彼の姿を見ている。しかし、帰宅した彼からこういう形で電話が来ることは初めてだったからだ。 「何かあったんですか?」  緊張した声で問うと、戸恒はグスッと鼻を啜りあげた。 (まさか……泣いてる、のか?)  彼の声を聞き逃さないようにと、周囲の音を遮断するように通路に背中を向けた匡人に戸恒はボソボソと話し始めた。 『俺、どうしていいか分からない。やっぱり、お前を守れる自信……ない』 「戸恒課長? 一体何があったんですか?」 『――明日、Y商事の営業部長に会うことになった。そこで……お前のこと、話さなきゃならない。俺は渡したくない……でも怖くて言い出せない。もしも、俺が……相手にうまく言いくるめられたらって思うと……。大切な部下一人も守れないダメ上司……だよな』  だんだん弱々しくなっていく戸恒の声に、匡人の胸はギリギリと締め付けられていった。  好きな男に面と向かって「そばにいる」と言ったのに、こんな場所で戸惑っている自分が許せなかった。もし、これが妹や弟だったとしたら自分は何をするだろう。どう行動し、どんな言葉をかけるだろう。  疲れきっているはずの頭が自然と動き始める。匡人は乱れた前髪をかきあげながら、伏せていた視線をゆっくりとあげた。 「――課長。ご自宅の場所、教えてください! 俺、これから伺います」 『平坂……』 「大丈夫です。たーたんのそばにいるって約束しただろ? 俺はいつでも、どこでも……たーたんのそばにいてあげる。だから……っ」  この時、周囲の人通りを気にすることなく声を張り上げていたことにも気づかなかった。それほど電話の向こう側にいる戸恒のことだけを考えていた。  一人、マンションの部屋で不安に打ちのめされている彼を放っておくことは出来ない。  その一心で匡人は叫んでいた。 「たーたんのこと、好きだから……。俺、たーたんを守るからっ!」  その匡人の声に、普段の彼からは想像出来ないような小さな声が重なった。 『――会いたい、よぉ』  戸恒の一言に匡人は耳を澄まし、そして息を呑んだ。不安症を発症した彼から今まで一度も発せられたことのない言葉に、また胸の奥がギュッと締め付けられる。その痛みに眉を顰めながら、匡人は出来るだけ動揺を悟られないよう落ち着いた声音で答えた。 「――会いに行きます。待っていてください」  戸恒から自宅マンションの場所を聞いた匡人の行動は早かった。下りかけていた階段を一気にかけあがり、息を切らしたまま通りかかったタクシーを止めると、素早く乗り込んで行き先を告げた。 「M駅前まで。急いでくださいっ」  この時間なら道路もさほど混んではいないだろう。順調にいけば十五分程でたどり着けるはずだ。  スマートフォンの地図アプリを立ち上げて詳細な位置を表示させると、匡人は後部座席のシートに背中を預けて小さく息をついた。  *****  会社からも比較的近く、利便性のある場所に建つタワーマンションの十二階の角部屋に戸恒は一人で住んでいる。  家柄もよく財力もある彼にふさわしい高級マンションの入口には二十四時間体制でコンシェルジュが常駐し、エントランスのドアも住人の許可が下りるまで絶対に開かない。  ロビーの一角には住人が自由に使えるカフェとコミュニティースペースが設けられ、最上階にはフィットネスジムとラウンジもある。セキュリティーは万全で、迂闊に部外者の侵入を許すこともない。  匡人は緊張した面持ちで戸恒に教えられた通りにコンシェルジュのカウンターに向かうと、運転免許証を提示した。すると、待っていましたと言わんばかりの笑顔で対応され、エレベーターのロックを解除してくれた。 「すぐに行く」とは言ったものの、部屋に近づくにつれて後悔の念に駆られていた。  戸恒を助けるためという大義名分で訪れたはいいが、下心が全くないわけではない。でも、それを知られれば間違いなく警戒され、下手をすればそばにいることも叶わなくなる可能性は高い。  それだけは絶対に避けなければならないと、自身の欲望をグッと抑え込んだ。  部屋の前に立ち、チャイムを鳴らすとオートロックが解除される。豪奢なドアハンドルを握る手が自然と汗ばんでいたが、匡人は思いきってドアを開けた。  淡い光を放つダウンライトの下に立っていたのは、スウェットパンツにTシャツという実にラフな格好の戸恒だった。誰にも媚を売らず、妖しい色気を放ちながらも禁欲的な印象を与えるスーツ姿とは違う、自然体の彼がそこにいた。 「――お疲れ様です。あの……大丈夫ですか?」  戸恒は匡人の顔を見た瞬間、心なしか安心したように目尻を少しだけ下げた。 「大丈夫じゃ……ない」 「あの……俺は何をすれば?」  彼の顔色を窺いながら上目使いで問いかけた匡人だったが、不意に二の腕を掴まれて廊下に引っ張られた。 「課長! 靴……っ! 靴、脱がせてくださいっ」 「そんなもの、適当に脱げ!」 「え……でもっ! 廊下に傷がっ」  半ば引き摺られるように廊下を歩き出した戸恒に抵抗しながら、匡人は靴を片方ずつ玄関のタイルに放り投げるように脱いだ。  手にしていた鞄も手から離れ、廊下に無惨に転がった。  廊下の突き当たりにあるリビングとおぼしきガラス戸に向かっていると思いきや、その途中にある木製のドアを勢いよく開いた戸恒は、匡人をその部屋に連れ込むと素早く鍵をかけた。 「か、課長……。一体、なんの真似ですかっ」  肩で息をしながら顔をあげた匡人の目に飛び込んできたのは、一人で眠るには十分すぎる広さのベッドだった。  匡人がここに来るまで微睡んでいたのだろうか、シーツは乱れ、毛布も足元にくしゃりと丸まっている。  まるで情事のあとを連想させる状況に、匡人はゴクリと唾を飲み込んだ。 「課長……?」  緊張で声を掠れさせながらゆっくりと振り返った匡人は、風呂上がりの乱れ髪を両手でぐしゃりとかきむしりながら俯いている戸恒の様子に息を呑んだ。 「――眠れないんだ。目を閉じると……専務の声が耳で何度も繰り返される」  肩を上下させ、極度のストレスのためか少し過呼吸ぎみになっている彼に気づいた匡人は、着ていた上着を脱ぎ捨てると、ネクタイを勢いよく引き抜いた。  そして、見えない何かから庇うかのように戸恒をそっと抱き寄せた。 「俺はここにいますよ……。もう怖くない……」  震える背中を何度も擦りながらベッドまでたどり着くと、マットレスの縁に戸恒を座らせて、目線を合わせるように少しだけ腰を低くした。  目尻にたまった滴は、戸恒が泣いていたことを意味していた。  それを指先で優しく拭いながら、匡人は一度だけ深呼吸すると腹を括った。そして、自分より背の高い戸恒を押し倒すようにベッドに一緒に倒れ込んだ。  驚いて目を見開いた彼を諭すように、耳元に唇を寄せて囁いた。 「課長……。俺はあなたのことが大好きです。だから……好きな人が苦しむ姿は見たくない。あなたが眠るまでそばにいます。このベッドで隣に寄り添うことを許してくれますか?」 「平坂……」 「嫌ならハッキリ言ってください」  戸恒は上から見下ろす匡人をじっと見つめていたが、それに答えるかのようにゆっくりと瞬きした。 「――よかった。たーたんのことが心配なんだよ。たーたんは本当はすごく強くて、優しくて……誰もが羨む理想的な上司だ。そんな上司を独り占めしてる俺に、いつかバチが当たるかも知れない……。その時は……たーたんが助けてね」  足元の毛布を手繰り寄せ、戸恒の大きな体にかけてやる。羽枕に頬を埋めた彼が、怖い夢を見てしまった幼い弟に見えて、匡人はフッと口許を綻ばせた。  まだ湿り気の残る黒髪を優しくゆったりとした動作で撫でると、戸恒の呼吸も穏やかなものへと変わっていった。 「平坂……。明日、大丈夫だろうか」 「俺も課長と一緒に同行しますから安心してください。先方からの打診はきっぱりお断りしましたから」 「――お前は、それでいいのか?」  眉をきつく寄せたまま向けられたこげ茶色の瞳が匡人を捉える。  戸恒の横に体を横たえ、片肘で体を支えるように半身を起こしていた匡人は不思議そうに首を傾けた。 「なんのことですか?」  困ったような顔で言葉を選ぶために言い淀んだ戸恒は、上目使いで匡人を見上げると、何かを試すように問うた。 「――こんな上司に振り回されて、嫌じゃないのか? 平坂……お前は、自身が思っている以上にデキる男だ。もっと貪欲に、上のフィールドを……」 「バカなこと言わないでください! 俺がいなくなって困るのは課長の方でしょ? そうじゃなかったら、俺……ここには来ていない」 「平坂……」 「一日中走り回って、無茶ブリするクライアントに対応して……心も体もクタクタになった挙げ句に、臆病風を吹かせる上司の呼び出し。部下ってだけの感情で動いている訳じゃないんですよ……。あなたのこと、放っておけないから。目が離せないから……っ」  匡人は抑え込んでいた感情が溢れてしまいそうになっていることに気づき、慌てて息を呑んで口を噤んだ。  これ以上言葉を発したら、戸恒への想いが決壊したダムのようにとめどなく流れ出てしまう。そうなったら今の関係を続けていくことは出来なくなる。  上司であり、男であり、恋心を抱く、一方的でありながらいつ壊れてもおかしくない危うい関係。  それがなくなってしまうくらいなら、一生この想いを封じ込めたまま生きていきたい。 (――あなたのそばにいたいから)  匡人は、それ以上何も言うことなく静かに目を閉じた戸恒の髪の感触を記憶させるかのように、その指先に何度も絡ませた。  清潔なソープの香りに、汗臭い自身がひどく穢れた存在のように思えて、ゆったりとした呼吸を繰り返す彼からスッと目を逸らした。  そして、静かに体を反転させて戸恒に背を向けた時だった。  力強い両手が匡人の体を拘束するかのように後ろから抱き締めた。  反射的に体を強張らせた匡人だったが、その視線の先に無造作に床に転がっている大きなウサギのぬいぐるみの姿を見つけ、戸恒がギュッと力強く抱き締めた理由が分かった気がした。 お世辞でも綺麗とは言えないそのウサギはおそらく、戸恒が抱き枕代わりに使っているものなのだろう。かなり使い込んでいる様子を見れば、ほぼ毎晩のように抱き締めているようだ。 (――俺はウサギの代わりかよ)  幼い頃から愛用しているものであれば、大人になってからもその愛着は変わることはない。むしろ、それがなければ眠れないという者もいる。  それなのに戸恒はウサギを放置して匡人を呼び出した。それほど追い詰められ、半ばパニック状態に陥っていたことが考えられる。  彼の大きな手が匡人の腰に絡み付く。ワイシャツ越しに背中に押し付けられた額からじわりと熱が広がっていく。  膝を少しだけ曲げ、匡人と重なるように横になった戸恒から規則正しい寝息が聞こえ始めた。  ドSでコワモテの戸恒が、意外にもすぐに眠りに落ちるタイプだと初めて知った。そして、匡人の存在がどれほど戸恒にとって偉大なのかを目の当たりにした。 「マジかよ……」  愛用のウサギを凌駕する匡人の安心感。それは戸恒本人しか知り得ない。  小さくため息をついた匡人は臀部に硬い感触を覚え、ゆっくりと瞠目した。彼の薄いスウェット生地越しに確かに感じる硬さと熱さ。それだけではない。匡人の尻の割れ目に食い込むかのようにフィットする大きさに、しばし息をすることを忘れていた。  戸恒の巨根説は度々社内でも話題に上がる。眠っている状態でこの質量ということは、最大勃起時には一体どうなるのだろう。  匡人は緊張と興奮で次々と口内に溢れてくる唾液を何度も嚥下し、高鳴る胸元を掌で押さえ込んだ。  この凶器のようなぺニスで、今まで何人の女性を昇天させた? 中を擦りあげる愉悦に何度、女性を泣かせた? 口内に収まり切らない先端を突き込んで、どれくらいその精を放った?  トクン、トクン……。  男であれば自然と想像してしまうシチュエーションに、匡人は次第にその女性に対して嫉妬にも似た憎悪を抱くようになっていた。  おそらくノンケである戸恒が女性と一夜を共にしたところで、不思議に思う者はいない。  むしろ、匡人と関係を持つ方がイレギュラーなことなのだ。  でも――。  それが匡人の中でうまく処理出来ずにいる。白く細い体をくねらせる女性を逞しい体で組み敷き、大きく広げられた脚の間で一心不乱に腰を振る戸恒の姿を想像することが出来ない。  いや、正確には匡人の中で拒絶反応を起こし、想像出来ないように働いている。  我ながら実に都合のいい脳ミソだと思った匡人だったが、戸恒がわずかに身じろぐたびに尻の割れ目に食い込む男塊が気になって仕方がない。  まるで匡人を誘うかのように――また、理性の限界を試すかのようにそこを密着させてくる戸恒に殺意さえ覚えた。 (もしかして、タヌキ寝入りで楽しんでる?)  そう思いたくなるほど、戸恒の腰がグイグイと押し付けられる。  匡人は恐る恐る肩越しに振り返って彼の様子を窺った。ばっちり目が合ってしまったらどうしようという不安を抱きながら……。  しかし、戸恒は心地よさそうな寝息を立てて熟睡している。これも匡人が初めて知ったことだが、彼の睫毛が意外にも長く、寝顔はとてつもなく愛らしい。 「――どんだけ誘ってんだよ」  ボソリと呟いた匡人だったが、自身の下肢に先程から感じている違和感に、この状態を長く保っていられる余裕がないことに気付く。  スラックスの生地を持ち上げる節操なしの愚息の暴走に呆れたようなため息を吐くと、腰に絡みついた戸恒の腕をゆっくりと剥がすように退かした。  その途中、何度か抗議にも似た呻き声を発したが、無事にベッドから離れることが出来ると、床に落ちていたウサギのぬいぐるみを彼の腕に抱かせた。  毎晩のように抱いているであろう相棒を手にした戸恒はギュッとそれを抱き込むと、わずかに口元を綻ばせた。 「どんだけウサギちゃんラブなんだよ……。俺、完全に敗北してるじゃん」  幸せそうな寝顔を見せる戸恒に、匡人は頬に一筋の滴が伝っていることにハッとした。  慌てて指でそれを拭うが、熱い滴は次々に溢れてくる。  恋する男の幸せそうな寝顔と、ウサギへの強烈な嫉妬、そして自分の存在意義の虚しさに自然と溢れ出した涙だった。 「俺が……いなくても、いいじゃん。課長……俺って、あなたの何なの?」  それまで忘れていた疲労感がどっと匡人を襲った。  床に落としたままの上着とネクタイを拾い上げると、掛けられていたドアの鍵を開錠し、部屋の照明のスイッチをオフにした。  暗闇に眠る戸恒をもう一度振り返って、匡人は小さく愚痴った。 「ホントに……ズルい。どこまでドSなんですか……あなたって人は」  乱暴に涙を拭って寝室をあとにした匡人は、腕時計に一度だけ視線を落としてから鞄を拾い、重い足取りで玄関へと向かった。

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