4 / 7
【4】
翌朝、中途半端な興奮と複雑な気持ちのまま眠れない夜を過ごした匡人は、重い足を引き摺るように出社した。
そんな彼を待ち受けていたのは、これまたムスッと険しい表情をしたまま動かない戸恒だった。昨夜、無断で帰ったことは悪いと思っている。だが、あの状況で絶賛片想い中の相手を前に聖人君子を貫けというのは匡人にとって無理な話だ。
「課長、昨夜はすみませんでした!」
怒られる前に自分から謝ろうと、戸恒のデスクの前で深々と頭を下げた。
さすがの戸恒でも、他の社員がいる前で昨夜のことを公にすることはないだろう。
何も言わない戸恒を上目使いで盗み見ると、彼は手にしたボールペンを苛立たしげにノックしていた。
「――平坂。お前はやっぱり……俺が嫌いなのか?」
「ち、違います!」
慌てて声をあげた匡人を蔑むように見つめた戸恒は、抑揚のない声で言った。
「Y商事との話し合いは十時の約束だ。すぐに出られるように準備だけしておけ」
それだけ告げ、目を逸らした戸恒の態度に匡人はまた涙が溢れそうになった。
ハッキリ言いたい。でも、言えない……。
ジレンマを抱えながら欲望と戦う匡人の努力は、当の本人には理解されない。
恋とはそういうものだと分かっているはずなのに、今回はやけに涙脆くなってしまった自分の意気地のなさに匡人はほとほと呆れていた。
いっそのことY商会に行ってしまおうか……と悪いことばかりを考えてしまう。
戸恒と離れ、新しい環境で新しい恋を探せばいい――そう出来たらどれだけ楽だろう。
自身のデスクで、まるで死刑執行を待つ罪人のように項垂れた匡人は、立ち上げたPCの画面をろくに見ることなく腕時計ばかりを気にしていた。
「――平坂、出掛けるぞ」
戸恒の声に弾かれるように顔をあげた匡人は傍らに置いた鞄を掴むと、鉛のように重く感じる体に鞭打つように勢いよく立ち上がった。
*****
Y商会のロビーの奥にあるトイレから真っ青な顔で出てきた戸恒に気づいた匡人は、彼が不安症を発症していることに即座に気づいた。
慌てて駆け寄ると、戸恒の焦げ茶色の瞳が力なく匡人に向けられた。
「――やっぱり自信ない。平坂、ごめん」
弱々しく声を震わせる戸恒に、匡人は唇をきつく噛み締めた。
「――じゃあ、このまま帰りますか?」
冷たい言い方だととられてもおかしくないほど淡々とした声音で問うた匡人を、視線を何度も彷徨わせながら戸恒の目が責めた。
「その代わり……俺はもう、あなたの部下じゃなくなる。酷い言い方かもしれませんが、俺よりもっと優しい部下を探してください。課長がす……好きになるような、可愛いげのある……部下を」
匡人はすっと目を逸らしながら戸恒に背を向けた。
長いようで短い恋だった。こんなに誰かを好きになったことなんて高校生以来だろうか……。
寝ても覚めても戸恒のことしか考えられない日々。でも、そんな苦しい夜も今日で終わりだ。
退職願いを書いたら久しぶりにハッテン場に行って、メチャクチャにしてくれそうなバリタチでも探そう。それで体の相性が合ったらそのまま付き合ってもいい。
そもそもノンケを好きになった自身の負けなのだ。
「平坂……」
歩き出そうとした匡人の腕を掴んだ戸恒はそのままロビーを横切り、廊下の突き当たりにある階段室へと向かった。
非常灯が灯る薄暗い階段室はY商事の社員もあまり利用する者はいない。
人気のない静かな階段室のスチール製のドアを後ろ手に閉めた戸恒は、匡人の肩に両手をかけると懇願するように頭を下げた。
「こんなダメ上司だ……。お前にいつか見切られるのは覚悟してた。夕べだって……ワガママだって分かってた。パワハラだって言われても構わない……。でも――お前に会いたかった」
「課長……」
「――離れたくない。お前に魔法をかけてもらわないと……何も出来ないんだよ。こんなヘタレでも、お前は好きだと言ってくれた。嬉しかった……すごく」
きちんとセットされた前髪が崩れるほど、頭を下げ続けながら苦しそうに肩で息をする戸恒の姿は今までになく弱く小さく感じられた。
長身で筋肉質な体躯。威厳のある堂々とした態度。傲岸で自信に溢れた野性的な眼差し。
それはどこにも見つからない。今、匡人の前にいるのはウサギのぬいぐるみを大事そうに抱えた幼い少年だった。
目に涙を浮かべ、肩を震わせながら嗚咽を繰り返す戸恒の肩に手を伸ばしかけて、ふと躊躇う。今まで何度絆されて、自身の想いを我慢し続けて来たのだろう……と。
彼への想いを抑え込む度に匡人の心は悲鳴をあげる。
それが爆発したのは、昨夜自宅に帰ってからだった。
ベッドに倒れ込むなり形振り構わず泣き続けた。何度も戸恒の名を叫んだ。
でも――彼はそばにいてはくれない。
こんなに好きなのに、こんなに求めているのに……その声は聞こえない。
満たされない心と体を抱えた匡人はもう限界だった。
「魔法……なんて、まだ信じているんですか? あれはただの暗示ですよ。あなたは単純で、簡単に俺の暗示にかかってくれる。幼い妹や弟と同じですよ。本当は……俺にバカな真似をさせて、陰で笑っているんじゃないですか? 元来ドSなあなたが不安症とかあり得ないでしょ? もしも本当に困っているのであれば、ちゃんとした精神科医にでも相談した方がいいんじゃないですか?」
酷い言い方だと分かっている。分かっているけど一度口をついて出た言葉は取り消すことは出来ない。
土壇場で反旗を翻した部下を、彼はどう思っているだろう。
今日の話し合いだって、戸恒が困るからという理由で設定されたものだ。どちらの会社に籍をおいても匡人が困ることはない。
ただ――現状を維持すると決めれば、また自身を苦しめることになる。
「俺はどちらでも構いません。それでも課長が俺を必要とするなら、魔法なんてあてにしないで自力で話し合ってください。それが俺に対する『本気』じゃないですか?」
戸恒は瞠目したまま匡人を見つめた。匡人の言い分は十分すぎるほど伝わっているはずだ。
匡人の肩から滑り落ちるように手を離した戸恒は、小刻みに何度も頷いてから掠れた声で言った。
「――これで最後にする。お前の魔法を……俺にかけてくれ」
匡人は泣き出しそうになるのを必死に堪えながら「これが最後ですよ」と無理矢理笑って見せた。
上着のポケットに手を入れた匡人は、中にあるジェリービーンズの小袋をぐしゃりと握り潰した。そして、引き出した手を戸恒の頬に添えると、自身の唇をそっと重ねた。
驚きに目を見開いた戸恒だったが、唇の隙間から忍んだ匡人の舌先に自身の舌を絡ませた。
最初は触れるだけ。次第に深く重なっていく互いの唇が角度を変え、小さな水音を発する。
長いキスを終え、名残惜しそうに銀色の糸を纏った唇が離れていく。
匡人は真っ直ぐ戸恒を見つめて言った。
「俺はゲイです。でも、遊びでのキスはしない。本気で好きになった人にしかしない……。課長のことが好きで……目が離せなくて……ずっと言えなくて。これが俺の『本気』です。最後の魔法……効き目があるかどうかはご自分で確かめてください」
「平坂……」
「オフィス・ラブって響きはいいですけど、苦しくてツラくて……俺、もう限界だったから」
唇の端を無理矢理持ち上げて笑った匡人の頬を涙が伝った。
それを戸恒の長い指先が優しく拭った。
「――俺が求めていたのは甘いジェリービーンズでもウサギのぬいぐるみでもない。いつか貰える日を期待して、お前に甘えていた……」
「課長?」
「本当に欲しかったのは、お前のキス……。それが欲しくて、俺は不安症になったのかもしれないな」
「え……」
「たーたんって、頭を撫でてくれたのお前だけだけだから……」
家柄もよく、一人息子として大事に育てられて来たと思っていた戸恒だったが、実のところ多忙な両親の愛情を注がれることなく育ってしまった。
それを求め、匡人に与えられることを知った彼は、幼い頃からの持病である不安症を上手く利用したのだ。
事実、匡人の啓発魔法で何度も窮地を脱してきた。匡人の声や手の感触、そして戸恒に向けられる瞳の優しさに心が癒され、冷静になれたことは間違いない。
「たーたん……」
「俺も、お前のこと……」
ゴクリと匡人が唾を呑み込んだ時、戸恒のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
バツが悪そうに眉を顰めた戸恒が画面を見て、それがY商会の営業部長からだと告げる。
「――そろそろ行きましょうか?」
匡人がそう促すと、戸恒は小さく舌打ちしてネクタイを締め直した。
「絶対に渡さないからな。お前も……覚悟しておけよ」
ジェリービーンズは食べていない。それでも闘志を剥き出すようにドSモードに切り替わった戸恒は匡人を見つめて薄い唇をふっと綻ばせた。
「俺の本気……見せてやるから」
キスの魔法――その効力がどれ程のものなのか、匡人自身も予想が出来なかった。
Y商事の営業部長は業界内でもクセ者として知られている。それを承知で、相手が投げるどんな変化球でも真っ向から受け止めるのが戸恒のやり方だ。
「課長の本気……」
匡人は不思議と不安は感じなかった。それは匡人の手を握った戸恒の大きな掌と、そこから伝わる温度がそう思わせていた。
ともだちにシェアしよう!