5 / 7

【5】

 二人が案内された場所は木目を基調にしたインテリアで纏められた、落ち着いた雰囲気の応接室だった。  そこにはY商事の営業部長である水谷(みずたに)と人事部長が顔を揃えていた。  話し合いが良い方に転がって、匡人がY商事に来るということになった場合、即手続きを済ませられるように待機させていることは明確だった。おそらく、上層部にはもう話はついているのだろう。  営業部長の一存で――というには完璧とも言える受け入れ体制だ。社内ではかなりの権力を持つ存在なのだということが分かる。  五十代と思しき水谷は見るからに威厳と風格を持ち合わせた大柄な男だ。社長だと言っても十分に通用するであろうその貫禄にも戸恒は怯むことがなかった。  簡単な挨拶と名刺交換から始まった話し合いだが、水谷はもう匡人を手に入れた気持ちで話を進めていく。賃金の上乗せや昇格の話をちらつかせ、匡人の興味を惹こうと相手に話す隙を与えることなく矢継ぎ早に進めていく。  それを真剣な表情で聞く戸恒は、まるで抗争を前にした若頭のような畏怖を纏っていた。隣に座る匡人さえも『怖い』と感じるほどの緊迫感だ。  長い脚を組み、レザーのソファに背中を預けたまま水谷の話を聞いていた戸恒が動いたのは、水谷が自身のコーヒーカップに手を伸ばした時だった。 「――お話はすべて聞かせていただきました。つまり……あなたはこの有能な平坂を金で買いたいと?」 「それが戸恒さんの希望であれば、領収書のない金を用意してもいいですよ。今、当営業部が最も欲する人材――それが彼なんですよ」  戸恒は、話にならないと言わんばかりに大きなため息をつきながら、正面に座る水谷を睨み付けた。 「彼の才能は金で買えるもんじゃない……。彼自身が築いた経験値から成り立っている才能は金以上の価値があるんですよ」 「――金以外というのであれば何をお望みですか?」 「何も望みませんよ。あなたがたのように金で何でも解決しようとする腹黒野郎に俺の婚約者を預けられる訳がないでしょう?」 「は?」 「ふ、ふぁ?」  水谷の声と、匡人の間の抜けた声が重なった。 「私は用心深い性格でしてね。本当に信用のおける者しかそばに置かない。生涯を共にすると誓った相手――これ以上信用出来る者が他にいますか?」 「ちょ、ちょっと待ってください! 平坂くんは男……」 「モチロン分かってますよ。この会社はそういうセクシャル・マイノリティーに対しての理解度がないのかな?じゃあ、余計に平坂は渡せない。彼はゲイだから……。この時代、人事においても社内環境においても重要視しなければならない事柄ではないのかな……」  バツが悪そうに俯いたままの人事部長を小馬鹿にしたような目で見つめた戸恒は、衝撃でポカンと口を開けたままの匡人の手をそっと握りしめた。 「将来の妻が活躍する場所に相応しいフィールドかどうか見に来たが、どうやら話にはならないようだな。匡人……お前はどう思った?」  艶のある流し目で見据えられ、匡人は大きく心臓が跳ねた。  耳元で囁かれただけで腰が砕けそうな低音ボイスは反則にもほどがある。嫌でもうっとりとした顔になってしまった匡人は戸恒に賛同し「話にならない」としか言えない。 「――ビジネスの場に私情を挟んで申し訳ないと思っているが、これだけは大切なことなのでね。水谷部長、この話はなかったこと……で、いいですね?」  猛禽類のような鋭い瞳が水谷に「有無は言わせない」と言わんばかりに向けられる。今にも襲いかからん迫力で見つめられた水谷は息を呑んだままゆっくりと首を縦に振った。 「今後も、お互いに良きライバルとして活躍を期待しております。では……」  早々に、しかも一方的に話を切り上げた戸恒は、握ったままの匡人の手を離すことなく立ち上がると、形だけの挨拶をして応接室を出た。  匡人は何が起こったのか分からなかった。想像を遥かに超越した展開に頭がついていかない。  受付カウンターの女性の挨拶にも応えることなく終始無言でエントランスを出た戸恒は、歩道で片手をあげてタクシーを止めると、匡人を後部座席に押し込むように乗せ、逃げ場を塞ぐかのごとく自身も素早く乗り込んだ。 「とりあえずM駅前までいってくれ。そのあとは案内する」 「分かりました」  運転手がアクセルを踏み込むと同時に匡人は目を見開いたまま、隣で優雅に脚を組む戸恒をまじまじと見つめた。 「――一体どこにいくつもりですかっ。会社に戻らないんですかっ?」 「今日は終日外出にしてある。帰社する必要はない」 「課長がそんなことしたらダメでしょう! とにかく一度戻って……っうぐ!」  焦る匡人の口元を塞いだのは戸恒の掌だった。恐怖に慄きながら視線をゆっくりと向けると、彼は意地悪げな笑みを浮かべていた。手に入れた獲物をどう弄んでやろうかと思案する野獣のそれに、今度は背筋に冷たいものが流れた。 「――戻ってどうする? 会議室で……するか?」 「な、何を……れすか?」  顔を引き攣らせたまま問うた匡人の唇を親指でなぞりながら手を離した戸恒は、匡人との距離を詰めると耳元に唇を寄せた。 「セックスに決まってるだろ。それとも……そういうシチュエーションの方が好きなのか?」 「セ……セックス?!」  ずっと抑え込んでいた想いを爆発させたのは間違いなく匡人の方だった。それはそれで後悔はしていない。  しかし……。まだ戸恒のハッキリした返事を聞けていない今、いきなり仕事をサボってセックスするという展開はどうなのだろう。  さっき水谷に断言したことがその答えだとしたら――いや、それにしても何事には順序というものがあるはずだ。 「あの……。ちなみにどちらへ向かっているんですか?」 「俺のマンションだが? 不満か?」 「いえ……。あ、そうじゃなくてっ」 「ホテルにするか?」 「いや……。あぁ……えっと」  匡人の頭の中でいろんなことが渦巻いていた。ここのところ自慰以外の性行為を全くしていない。準備は慣れているとはいえ、あの巨根をすんなり受け入れることが出来るか不安しかない。  しかも相手はドSな戸恒だ。明日の業務に差し支えるどころか、寝かせて貰える可能性は限りなく低い。  それよりも! 何より一番重要なことを聞いておかなければならない。 「あの……課長。男と……セッ……クスしたこと、あるんですか?」  戸恒が盛り上がっている時にこんなことを聞くのは、空気が読めない奴の典型だと分かっている。しかし、匡人にとってはかなり重要なことだった。  匡人の見解ではノンケであるはずの戸恒。男の体を知らない者がゲイである匡人を抱けるのだろうか。  また彼の顔色を窺いながら盗み見るように隣に視線を動かすと、戸恒は別段動揺する様子もなく、むしろ余裕でもあるかのように口元に笑みを湛えている。 「――安心しろ。俺は男しか抱けない」 「ええ――っ!」  匡人の驚きの声が狭い車内に響き渡り、運転手がビクッと肩を震わせながらルームミラーで後ろの様子を気にしている。  慌てて自身の口を両手で押さえた匡人は「嘘だ……」と何度も小刻みに首を横に振りながら呟いた。  女性との噂は何度も耳にした。ゲイの気配など微塵も感じさせない日々の振舞い。  何人もの女性を泣かせてきたプレイボーイ的なイメージが崩壊すると共に、あの逞しい体で抱かれた男に嫉妬さえ覚え始めた。  戸恒の腕に抱かれて、あの巨根で激しく突き上げられて……。 「あり得ない……絶対に、あり得ないっ」 「何があり得ないんだ?」 「課長が……男を抱いてたなんて……信じない。俺は……信じたくないっ」 「じゃあ、女なら良かったのか?」  試すような目で匡人を覗き込んだ戸恒は、運転手の視線から逃れた場所で匡人の膝をやんわりと撫でた。  咄嗟に閉じた股の間に容赦なく手を差し入れて来る戸恒の妙に手慣れた動きに、また匡人の中の嫉妬心が暴れ出した。 「どっちも……ヤダ」  ムスッとした顔を見られないように背けながら呟いた匡人に、戸恒の表情は一変した。 「――堪らないっ」  それまで険しい表情で時に不敵な笑みを浮かべるコワモテであった彼が、今にも涎を垂らしそうなほどに顔を緩ませ匡人の頬に自身の頬を擦り寄せて来た。  ふわりと香る香水が彼の汗と混じり合い、何とも言えない芳しい香りへと変化していく。 「お前でも嫉妬するのか?」 「するに決まってるでしょっ! 俺がどんだけ……課長のことを好きだと思ってるんですかっ」  嫉妬心に駆られ、勢いのままに言い終えてから匡人はハッと我に返り息を呑んだ。  ブレることなく匡人を見つめる焦げ茶色の瞳と視線がぶつかる。その熱量に圧倒されながらも逸らすことが出来ない。 (キス……される!) そう思った瞬間、運転手の抑揚のない声が二人の甘い空気を揺るがした。 「――まもなくM駅前に着きますが」 「チッ……。駅前の信号を右。そこから二つ目の信号を左。突き当たりを左折だ」  イラつきを隠せないというように舌打ちして答えた戸恒は、我慢出来ないというように匡人をシートに押し倒した。  重なった唇が熱い……。  カチカチと一定のリズムを刻むウィンカーの音を聞きながら、匡人は舌を絡めながら目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!