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第1話
4月も半ばを過ぎると、ようやく英国にも春らしい陽射しを感じる日が増えてくる。長い冬の間、曇天ばかりで太陽を見る事すら少ないこの国の人間にとって、この春の訪れは待ちに待ったものだった。街中には季節の花が溢れ、心なしか空気すら甘く感じられる。重たいコートを脱ぎ捨て、身軽になった人々の表情は明るくなり、通りを歩く足取りすらうきうきとして見える。
ロンドン警視庁、通称MET(Metropolitan Police)のAACU(Art and Antiques Crime Unit/美術&アンティーク犯罪捜査課)所属の警部補リチャード・ジョーンズは慣れた手つきで車のギアを入れ変えると、混雑を避けすいすいとロンドンの街中を運転していく。すらりとした体躯に三つ揃いのスーツを嫌味無く着こなし、ブロンドの髪を綺麗に撫で付け、知的で整った顔と印象的なブルーアイズの持ち主は、言われなければ警察官とは到底思えない。むしろファッションモデルと言われた方が、すんなりと納得出来るであろう。若干28歳にしてすでに警部補にまで昇進した逸材であったが、1ヶ月半前5年間勤務していた花形部署である特別犯罪捜査部から、突然METのお荷物と呼ばれて署内では敬遠されているAACUへ転属させられてしまった。リチャードは、元々上司とそりが合わず事あるごとに衝突していたのだが、まさか異動させられるとは思っておらず、その事を知らされた時にはショックを受けた。一時はMETを辞する覚悟までしていた彼だったが、AACU転属後すぐに手がけた事件で思わぬ展開があり、新部署での勤務を継続する覚悟を決めたのだった。
ロンドン市内は一方通行が多く、慣れないと非常に運転がしにくい。道を知らないまま適当に運転していたら、気付くと堂々巡りしていただけだった、と言う事も往々にしてある。
その点リチャードはMET配属後の半年間は市内の巡回業務を受け持っていた関係で、ロンドン内の地図は細かい道まで頭の中に叩き込まれている。彼が普段運転している貸与車輌には、ナビゲーションシステムも装備されているが、普段はオフにして使っていない。機械的な声であれこれ指図されるのが好きではないのと、すでに彼にとっては分かりきった事なので、わざわざ使用する必要がないのだ。
METの庁舎から目的地、ホワイトキャッスルストリートまではそう遠くない。車であれば15分程度、と言ったところか。ただロンドン市内は渋滞が多く、普通に表通りを走ったのでは、その時間での到着は到底無理だ。リチャードは裏道を選んでなるべく渋滞に引っ掛からないように先を急いだ。面会時間の約束にすでに遅れている。
リチャードは歴史を感じさせるロンドンの街中を運転するのが好きだった。警察官になる夢を叶えるためにここへ来て6年ちょっと。ようやくこの街にも慣れ親しんで、愛着が湧いてきたところだ。
目的のホワイトキャッスルストリートは周囲に各国大使館や美術館、博物館、そして王室関係の施設がある瀟洒な一角にある長い通りである。
リチャードは目的の建物の前に駐車スペースが空いていることを確認して、車を停車させる。降車して後部座席からジャケットを取り上げて羽織ると、その下に無造作に置かれていた封筒を掴み、ドアを閉め電子キーで施錠した。ヴィクトリア期の白亜の建物の一階部分は、ほぼ全面が大きな曇りガラスの窓になっていて、洒落た文字で『ホワイトキャッスル・ギャラリー』と書かれている。リチャードは慣れた様子で、ガラス張りのドアの前に立つと、脇にあるドアベルを押した。押してすぐにガシャッと解錠する音がしたので、彼はドアを開けてギャラリーの中に入る。
ギャラリーの中は一面が白い世界だった。床も天井も壁も全て白一色で塗られている。中に置かれているインテリアの類いも全て白。目の錯覚で広く感じるが、落ち着いて見てみると実はそれほどギャラリーの中は広くない事が分かる。周囲の壁には大小様々なサイズの初期イタリアルネサンスの宗教画が掛けられており、どこか厳かな雰囲気が漂っていた。部屋の中央には低い台があり、その上には白い陶磁器製の大きな花瓶が置かれ、中には真っ白な花ばかりが選んで活けてある。むせかえるような花の香に惑わされるように、ふらりとリチャードはギャラリーの奥へ足を向ける。
ギャラリーの一番奥にはモダンなデザインの白いデスクが置かれており、その向こう側には……天使が座っていた。
華奢な体つき、明るい栗色の緩くカールした髪、真っ白な肌はまるで陶器のように滑らかで、無邪気そうな表情を浮かべるその顔には特徴的な榛色の瞳がきらきらと輝いていた。一見するとまるで少年のように見える彼は、リチャードの姿を認めると口の端に意地悪そうな笑みを浮かべて口を開く。
「遅かったね。どこ寄り道してたの? コーヒーのテイクアウェイでもしてくれた?」
「悪い、出がけにちょっとスペンサー警部に呼ばれて話し込んじゃって。テイクアウェイは頼まれてなかっただろう?」
「頼まれなくったって、気を利かせて買ってきてくれていいんだよ。それくらいたまにはしてくれてもバチは当たんないんじゃない?」
どう見てもリチャードより年下の彼は、これ以上ないくらい生意気な態度で遠慮無い物言いをする。
リチャードはそんな彼を窘めるでもなく、ただ優しげな笑みを浮かべて見つめる。
「レイ、次はコーヒー買ってくるようにするよ」
生意気な天使の名はレイモンド・ハーグリーブス。リチャードよりも4歳年下の彼は、このギャラリーのオーナーにしてAACUの外部コンサルタントを勤めるアートディラーだった。
AACUのスタッフは全員警察官としての訓練は受けているが、アート関連の事となるとまるきっりの門外漢だ。そこで外部にアートやアンティークに詳しいコンサルタントを契約している。
そもそもAACUが設立されたのは5年前、現在の警視総監ロバート・ハーグリーブスが就任した際のMETの改革の目玉としてだった。世界でも有数の芸術品やアンティークが集まる英国の首都ロンドンでは、それまでは事件が起きる度に、様々な部署がその都度捜査をしていたが、横の連携が上手くいかない事、アート関連の捜査のプロフェッショナルがいない事などから解決までに時間が掛かったり、捜査が上手くいかない事が多々あった。そこで新警視総監はアート関連の事件を一手に手がける部署を創設したのだった。
その創設の際のアドバイザーとなったのが、ロバートの甥でアートの専門家であるレイモンドだった。創設後もそのまま彼はコンサルタントとしてAACUの捜査にこの5年の間、関わり続けている。
リチャードがAACUに転属されたのも、レイモンドの意向が働いての事だった。
事の起こりは5年前、新総監としてロバートがヘンドン(METの警察学校の通称名)の卒業セレモニーにレイを伴って出席していた時まで遡る。そのセレモニーの最中、レイは参列していたユニフォーム姿のリチャードに一目惚れしたのだ。レイは叔父であるロバートにリチャードをAACUに配属するよう懇願するものの、すでにリチャードは特別犯罪捜査部への配属が決まっており、その願いは叶わなかった。そして切ない想いを抱えたまま、レイはその後の5年間ことあるごとに叔父に転属させるよう働きかけ続ける。彼の熱意がようやく届いたのは5年後、AACUがめぼしい成果を挙げる事が出来ず、署内から批難の槍玉に挙がるようになり、ロバートはとうとうレイの勧めるがまま、リチャードの能力を見込んでAACUの梃子入れの為、転属させたのだった。
リチャードは上司との口論という自らの落ち度で異動させられた、と思い込んでいたのだが、AACU配属後初の事件を手がけている間に、レイがうっかり漏らした一言から自分の異動の真実と彼の想いを知った。激怒したリチャードはレイと一時不仲となるものの、結局は警察を離れる事が出来ず、事件が解決した際にはAACUでの仕事を受け入れる事にした。そして時を同じくして、レイの長年の片思いも成就する事となったのだった。
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