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第2話

「頼んでた書類持ってきてくれた?」  レイは素っ気なく言うと、挑戦的な目付きでリチャードを見る。リチャードは手にしていた封筒を彼に渡した。 「思ってたより早かったね。リチャードが作ったの?」 「いや、俺は別件で忙しいからパトリックに頼んだんだけど……」 「大丈夫? 僕、基本的にリチャードとセーラしか信用してないんだけど」  セーラというのはAACUのメンバーの一人、セーラ・ホプキンス巡査部長の事であり、彼女はリチャードの直属の部下で、ヘンドン時代からの親しい友人だった。 「俺が目を通したから大丈夫だと思う」 「リチャードとセーラ以外のスタッフはみんな無能な奴らばっかりだろ」  天使のような顔のレイは恐ろしく口が悪かった。  そのまま封筒から数枚の書類を取り出すと、さっと目を通す。 「うん、大丈夫そう。これしばらく借りてていいかな?」 「ああ、構わないよ。ところで今日はローリーさんは?」  ローリー・メイヤーはレイの6歳年上の従兄弟で、このギャラリーのアシスタントディレクターをしている。普段の業務は主に彼が受け持っていて、レイは彼を頼りにしているが、その反面いつもレイは皮肉めいた態度を取るので、端から見ると仲が悪いのかと思ってしまう。だが二人は幼少時から家庭の都合で一緒に育ったので、口では簡単に説明しきれない絆の強さがあるのだった。 「お使いに行って貰ってる。もう少ししたら戻ってくると思うけど。彼に何か用?」 「いや、別に。何となく気になっただけだから」 「ふうん。リチャードさ、本当はローリーに気があるんじゃないの?」 「は!? レイ、何言ってるんだよ!」 「それよりさ……」  レイは慌てふためくリチャードを上目遣いに見る。今までの天使のような顔が、一瞬にして小悪魔に変わった。 「今度のオフ、明後日だったよね? 明日、勤務シフト終わったら迎えに来てよ。メイフェアに出来た新しいフレンチレストランに行かない?」  リチャードは1ヶ月半前に付き合い始めたばかりの恋人の顔を見つめる。レイは黙ってリチャードの返答を待っていた。リチャードはレイの視線に耐えられなくなり、思わず顔を逸らしながら答える。 「ああ、いいよ。予約した方がいいだろう? 後で店の名前を携帯に送っておいて」  リチャードはレイと付き合う以前は、女性としか関係を持ったことがなかったが、それなりに経験はあるつもりだった。だがレイと付き合い始めてからは、彼に振り回されてばかりだ。時折リチャードはどうレイを扱ったらいいのか分からず戸惑ってしまう。そんなリチャードの戸惑いをレイは楽しんでいる風でもあった。 「もしかしてフレンチ嫌い?」  レイは顔を逸らしたリチャードを、真っ直ぐに見つめると鋭い声でそう尋ねる。 「どうして? フレンチは嫌いじゃないけど……?」 「全然気乗りしない顔でそう言われても信憑性ゼロなんだけど」 「いや、本当にフレンチは嫌いじゃないよ」 「じゃあ、なに? 僕と一緒に行くのが嫌な訳?」 「そんなことないよ。どうしてそうなるんだよ?」 「リチャード、何か言いたいことあるならはっきり言ってよ。僕との関係を隠さなきゃいけないのが苦痛?」  そうなのだった。現職の警察官が警視総監の甥と付き合っているだなんて、周囲に知れようものなら、スキャンダルもいいところだ。世間一般のみならず、MET内でも彼らの関係をいい顔をして受け入れる人間はまずいないだろう。同性同士の結婚が合法化された英国では、同性のパートナーを持つことは日常の普通になりつつあるが、警察組織という保守的な環境は、世間の流れに逆らってむしろ拒む空気の方が強かった。  それより何より、警視総監本人に知られるのが一番まずい。何しろ総監が目に入れても痛くないくらい、猫かわいがりしている甥を、横からかっさらったなんてばれようものなら、リチャードのクビが飛びかねない。そんな訳で二人の間柄は、ひたすら公には隠さなければならない秘密なのだった。 「違うよ。レイとの関係を秘密にしなきゃいけないのは、付き合うって決めた時から覚悟してた。今更そんなことを苦痛に思う訳ないだろう?」 「じゃあどうして、そんな顔してるの? ……もしかしてここに来る前にスペンサー警部と話した内容が関係してる?」  アンディ・スペンサー警部はリチャードの上司であり、AACUのチーフだ。勘の良いレイにはもう理由が分かっているようだった。 「……実はクライブが逮捕されたんだ」 「は?」  レイは驚いて、リチャードの顔を穴が開くかと思うほどじっと見つめる。 「どういう事?」  クライブ・ジョンソン巡査はAACUのスタッフの一人だった。警察官が逮捕されるなんて、ただ事じゃない。しかもリチャードの部下となれば尚更だ。 「傷害事件の容疑者で拘留されてる。捜査は特別犯罪捜査部が受け持った」  リチャードは苦々しい表情でそう言う。 「特捜の担当は誰?」 「ハワードだ。それだけが救いかな」  特別犯罪捜査部のハワード・フォークナー巡査部長は、リチャードの特捜時代の一番親しい同僚であり友人だった。同い年という気安さもあり、同部在籍時代にはよく二人で羽目を外したものだった。 「ああ、僕の事ナンパしてきた、あのチャラい人か」  レイは思い切り顔を顰める。  リチャードがAACUに異動になって初めて手がけた『薔薇の宴』事件で、特捜の担当官となったのがハワードだった。その際に彼は初めてレイに会ったのだが、しきりに「可愛い子ちゃん」と呼んだのが気に障り、レイが露骨に嫌っていた事を、リチャードは思い出した。  ちなみにハワードはゲイではない。ただ単に人をからかうのが好きなだけなのだが、その辺りをレイに見破られて余計に嫌われていたらしい。 「チャラいって、それはあんまりじゃ……」 「本当の事だろう? 僕可愛い子ちゃん、って呼ばれるのすごく嫌だったんだから」  ものすごく不満げな顔をするレイを見て、リチャードは思わず可愛いな、と思ってしまったが、そっと心の中にしまっておいた。そんなことを口にしたら、またどんな毒舌が飛んでくるか分からない。 「とりあえず話聞くよ。長くなりそうなら座ったら?」  レイに言われて、リチャードは手近にあった白いプラスティック製の椅子を引き寄せる。 「あ、それ展示物。売り物だから座らないで」 「これが?」 「そう、アーティストの作品なんだ。一脚2500ポンド(日本円約375,000円)するから壊されると困るんだけど」 「ええっ?」  座り掛けていたリチャードは驚いて立ち上がる。どう見てもただのプラスティック製の何の変哲もない椅子だった。 「このIKEAに売ってるみたいな椅子が、2500ポンド?」 「失礼だな。それ作ってるアーティスト、世界的に有名なんだよ。長いこと交渉して、やっとうちで扱わせて貰えたのに」 「これが、2500ポンド……俺のフラットの家賃より高いんだけど」 「リチャード、AACUにいるんだから、もっとアートについて勉強してよ。明後日のオフ、映画デートって言ってたけど変更してテイトモダンに現代アート見に行こう」  レイは真面目な顔でそう言う。彼は仕事とアートに関しては、常に真摯な態度を崩さない。 「アートの事が分からないのは仕方ないだろう? 大学時代は法律勉強してたし、アートとは全く無縁の世界にずっといたんだから」 「何それ、僕のこと遠回しに責めてるの? 僕が叔父さんにリチャードをAACUに異動させるように言ったから」 「レイ、もうその問題は蒸し返す必要はないよ。俺は納得してAACUにいるんだから。自分の意思でこの部署で働いてる。きっかけは確かにきみが総監に進言したからかもしれないが、今はこの仕事にやりがいを感じてるんだ。責めるつもりなんて全然ないよ」 「そう。じゃ、明後日テイトモダン決定ね」  やられた、とリチャードは天を仰いだ。この手を何度も使われているのに、いまだに引っ掛かるのはどうしてなのだろう。自分に学習能力はないのか、と突っ込みたかった。 「あ、ねえリチャード。今さ、じゃあ映画は一人で今日仕事終わったら観に行くか、とか思わなかった?」 「え?」  リチャードはレイの顔をまじまじと見つめる。どうして自分の考えが筒抜けなのだろう? 「僕もその映画観たいから、今日行くんだったら一緒に行こうよ」 「……」 「どうして分かったんだ、って顔してるけど、リチャードってば考えてる事が表情に出過ぎなんだよね」  リチャードは思わず顔に手をやる。そんなに表情に出てるなんて、仕事柄よくないんじゃないのか? と密かに思う。 「あ、大丈夫だよ。そんなの気付くの僕だけだから。心配しなくても、他の人は鈍感だから分からないよ。リチャードの今日のシフト何時まで? 仕事終わったら直接ソーホーの映画館に行っていいよ。あそこ入ってすぐのところに、カフェがあるだろう? そこで待ち合わせにしようよ。あそこのラテ美味しくて僕好きなんだよね」  レイはそう言うと、にっこりと笑う。  本当に振り回されっぱなしだ、とリチャードはその笑顔を見ながら溜息をついた。それでも彼がこの目の前の小悪魔を簡単に許してしまうのは、抗いがたい魅力があるからだ。何度も同じような目に遭う度、正直なところ彼への気持ちが募るような気すらする。もしかすると、それはどこか麻薬めいた中毒性があるのかもしれない。リチャードはそう思っていた。

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