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第3話
「そっちの椅子は座っていいから、それ使って」
レイが指さした方向を見ると、アート作品だ、と言われたのとよく似た椅子が置いてあった。リチャードには正直二つの椅子の違いが分からなかったが、使っていいと言われた方の椅子をデスク前まで持ってきて座る。
「それで? あのおっさん、何やらかしたの?」
「おっさんって……」
「おっさんだろ? 僕、間違ってないと思うけど?」
レイはあからさまに眉を顰めてしかめ面を作る。
リチャードが配属される以前、レイとAACUの連絡係を務めていたのがクライブ・ジョンソン巡査だった。彼は常にレイに対して上から目線の態度を取り、嫌がらせまがいの事までしていたらしい。そのせいでレイからは蛇蝎のごとく嫌われていた。レイに言わせれば、クライブはあの年になるまで平の巡査だなんて能なしの証、なのだそうだ。
レイは自分の容姿が実年齢よりも若く見えるのが原因で、クライブから馬鹿にされて冷たくあしらわれている、と言っていたが、もしかすると彼が総監の甥であり、若くしてロンドンの一等地にギャラリーを構えられるだけの財力を持った家の出身である故に、嫉妬されていたのかもしれない、とリチャードは思っていた。そう思うと、どこか不憫な気もしてクライブを責める事は出来なかった。しかも、リチャードにとってクライブは部下だ。一緒に仕事をする仲間に、彼はそこまでネガティブな感情を持てなかった。
だが一方で、レイの気持ちも分からなくもない。レイは5年間冷たい態度を取られて自分が傷ついても、じっと我慢し続けてきたのだ。叔父が警視総監なだけに、クライブに対して反抗的な態度を取ることは出来ない。総監の甥の立場を利用していると、周囲に無意味な誤解を受けるような行動は避けなければならないのだ。リチャードはそんなレイの気持ちを思うと、いたたまれなくなって代わりに謝りたくなる。
「事件が起きたのは、今日の午前中だ」
リチャードは気を取り直して、事件のあらましを語り始める。
「クライブはブルームズベリーにあるギャラリーに情報を集めに行ってた。レイはトム・ディーキンと言う名前に聞き覚えは?」
「知ってるよ。強突く張りのじじいだろ?」
レイにかかると、誰も彼もとんでもなく人間性が悪くなるようだ……とリチャードは独りごちた。
「そんな顔しないでよ。一応ちゃんと知ってるんだから。アート業界って意外と狭いんだ。僕だけじゃなくて、業界の他の人間に聞いたって、同じような答えが返ってくると思うよ? ディーキンは金になるなら、業界内のしきたりとかマナーとか関係なしにビジネスするような奴だから、嫌われてたんだ。何度か他のギャラリーのオープニングパーティに呼ばれて行った時、見かけた事があるよ。僕は好んで近寄りたいとは思わないから、話したことはないけどね。それでディーキンがどうしたの?」
「クライブはディーキンから、今扱っている事件の情報を聞き取りに行っていた。だが肝心な話は何一つせず、のらりくらりとかわされて、頭にきた彼はつい怒鳴ってしまって口論になったそうだ」
「つい、じゃないと思うけど? 彼はいつも僕に怒鳴ってたよ」
リチャードは苦笑する。多分レイが言う通りだったのだろう。
「……その後、彼は話にならないとすぐに店を出たそうだ。そのまま店の前に停めていた警察車輌で署へ戻った、と言っている」
「だけど、事実は違った訳だ。ディーキンは暴行を受けて、それでどうしたの? 訴えてきたの?」
「いや、ディーキンは殴られて店の中で倒れていた。発見者が隣の店に駆け込んで発覚したんだ。彼はすぐに病院に運ばれたが、今も意識不明だ」
流石レイだな、とリチャードは思った。自分が傷害事件だ、と最初に言った事をきちんと把握していたので、すぐに被害者がディーキンで暴行を受けていた事まで、すんなりと理解して今までの話を聞いていたのだ。一を聞いて十を知るレイの能力の高さを、警視総監が買っているのも良く分かる。単なる身内のえこひいきではないのだ。
「隣の店?」
「ディーキンのギャラリーの隣にあるアンティーク店のオーナーが999コール(英国における警察・救急 緊急要請番号)をしてきたんだ。店の中でディーキンが殴られて倒れてるって」
「それで、どうしてクライブが逮捕されたの? それだけじゃ全然証拠も何もないじゃない」
「目撃者がいたんだ。クライブがディーキンと口論して、暴行を加えるところを見たらしい」
「…らしい、って何? そんなあやふやな証言で警察官を逮捕したの? 第一、誰がそれを見てたの?」
「電話会社の技師だ。ディーキンの店の前に交換機があって、丁度クライブが店を訪れていた時間にそこで故障修理をしていたらしい。だから店の前にクライブが警察車輌を停めたところも見ていたし、口論していたのも店の中から漏れ聞こえてきたんだそうだ。様子がおかしいので外から中を覗いたら、クライブがディーキンを殴っているところだった、と言っている。その後慌てた様子でクライブが店から出てきて車で立ち去った。殴られた人物が気になったので店に入ったら、ディーキンが意識を失って床に倒れていたと証言している」
「ふうん…なるほどね」
レイは口の端に薄笑いを浮かべる。この話だけで、もう何か分かったらしい。
「それで? 当の本人は何て言ってるの? 自分が殴りました、って白状したの?」
「クライブは否定している。確かに口論はしたが、暴力はふるっていない、と」
「だよねえ。仮にも警察官が、自分が気に入らない態度を相手が取ったから殴りました、なんてあり得ないよね」
「俺は、クライブはやってないと思う」
リチャードは視線を落とす。警察官として自分の主観を優先させるのは、目を曇らせる行為だ。本来であれば事実と証拠だけで、客観的に判断しなければならない。だがリチャードはこの状況でその選択をする事は、仲間を売る行為のように思えて居心地が悪かった。
「ねえ、リチャードは今まで話した内容に、矛盾があった事に気付いてる?」
「矛盾?」
レイの問いに、リチャードは自分が話した内容を、もう一度脳内で再生してみる。
「いや……特に思い当たらないんだけど」
「あいつ、いけ好かない奴だけど、犯罪を犯すような度胸のあるタイプじゃないよね」
レイは突然話題を変える。リチャードは呆気にとられて彼の顔を見つめた。レイはリチャードの視線を受けると苦笑する。
「僕があいつのこと嫌いなの、リチャードもよく知ってるだろ?」
「ああ、もちろん。その件はよく分かってるよ」
レイが何を言わんとしているのか、リチャードは先の言葉が読めずに黙り込む。
「リチャードやMETの人間はクライブが仲間だから、彼を庇いたい気持ちと同時に、警察官としてそれはしてはいけないことだっていう意識で事件を見てしまう。そのせいで、こんな単純な事が見えないんだ。僕は彼が嫌いだから、最初からただの傍観者の立場で事件の概要を聞くことに終始してた。だからすぐに分かったんだよ」
「単純な事…?」
「この事件の証言をしたのは誰?」
いたずらっ子のような表情で、レイがリチャードに尋ねる。
「電話会社の技師だろう?」
「そうだよね。じゃあ警察に通報したのは誰?」
「隣のアンティーク店のオーナー……ああ、そうか!」
「やっとリチャードも分かってくれた?」
レイはくすっと笑うと、嬉しそうな顔をする。まるで出来の悪い生徒が、やっと正解の答えを出した事を喜ぶ教師のような表情だった。
「なんで、電話会社の技師は自分で999コールをしなかったんだ?」
リチャードは、どうしてそんな簡単な事が今まで分からなかったんだ、と言わんばかりの悔しそうな顔をした。
「そう。仮にも電話会社の技師なんだから、携帯電話くらい持ってて当たり前でしょう? って言うか、今時携帯電話持ってない人間なんていないよ。それなのに、どうしてわざわざ隣の店に駆け込む必要があったのか。それは自分が無関係の第三者であることを印象づける為に決まってるじゃないか。ちなみにバッテリーが切れてたから、って言い訳するかもしれないけど、電話会社の技師なんだから、バッテリーの充電には常に気を遣うだろうし、会社から貸与されている携帯とプライベートの携帯の二台持ちの筈。両方バッテリーが切れてたなんて言い訳はあり得ないと思うよ」
「どうしてもっと早く気付かなかったんだ」
「リチャードは当事者みたいなものだから、仕方ないよ」
レイは両肩をちょっと上げて、冷めた口調でそう言う。
「とにかく、今すぐハワードに連絡しないと。あ、俺もう行くけど、映画館のカフェに何時に行けばいい?」
リチャードは慌てて立ち上がると、早口でまくし立てる。
「6時、OK?」
「分かった。それじゃ後で」
ジャケットの内ポケットから携帯を出しながら、急ぎ足でギャラリーを出て行くリチャードの後ろ姿を見つめ、レイは小声で「リチャード、可愛い」と呟く。その淫靡な表情はどこか堕天使を思わせた。
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