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第4話

 リチャードは落ち着かない様子で、腕時計を見る。目の前のコーヒーカップはすでに空だ。時刻は6時5分前。約束の時間は6時だから、そろそろ来る頃だろう。楽しみにし過ぎて早く着いてしまった、と思われないだろうかと心配になる。あまり彼にはそう思われたくない。自分の方が彼を思い過ぎているように取られるのが癪だから、と言うか、常に自分が振り回されている立場なので、その部分だけは自分に分があると思いたい。  考えてみたら、元々はレイがリチャードに一目惚れしたのだ。それなのに、付き合い始めてからは、自分の方がいつも彼にしてやられてばかりだ。たまには逆の立場になれればいいのに、とテーブルの上の携帯電話の画面をぼんやりと見つめながらリチャードは思う。  風がふわり、と外から入ってくる気配がしたので、入り口に目をやる。  艶やか、と形容するのがぴったりの人物がガラス扉を押して入ってきた。  男性に対してそういう言葉を使うのが、正しいのかどうかは分からない。だがリチャードには、それしかぴったりくる言葉が思い当たらなかった。  外は少し風が強いせいか、明るい栗色のカールした髪が乱れている。だがその乱れすら、計算され尽くしたかのように美しい。小柄で華奢な体に、ベージュのトレンチコートを前を開けたままで軽く羽織り、その中は昼間ギャラリーで見た時と同じ、白いシンプルなシャツと黒いタイトなジーンズ。シャツはボタンを二つ外していて、彼の白く美しい首筋を引き立てている。足元はダークブラウンのチェルシーブーツで、ジーンズの裾を少し上げて折り曲げ、ブーツが見えるように履いている。まるでファッション誌から抜け出してきたような姿だ。  カフェの中はこれから映画を観るのに時間を潰している人、会社帰りに友人同士でお茶に来ている人、買い物を終えて帰宅する前に一服する人などで混雑していたが、レイが店内に入ると一瞬だけ時間が止まったかのような雰囲気になる。  リチャードには分かっていた。このカフェの中にいる全員がレイに見とれたのだ。彼には人を惹き付けるオーラがある。黙っていても自然と彼に目が行くのだ。  レイはそんなカフェの中の様子を気にするでもなく、足を止めると周囲をぐるりと見渡す。それを見て、リチャードは軽く手を上げて合図した。座っていたのが少し奥まった席だったので、レイには見えづらい位置だろう、と思ったのだ。  レイはリチャードを認めると、ぱっと華やかな笑顔を浮かべる。見た誰もが愛らしい、と思わず溜息をついてしまいたくなるような表情だった。  リチャードは周りの人間が、自分に注目している事に気付いていた。カフェの中にいる客達は、一体この青年がどんな人物と待ち合わせをしているのかが気になっていたのに違いない。リチャードは痛い程の視線を感じて、今すぐこの場から逃げ出したかった。 ――まさかレイが待ち合わせしているのが、自分みたいな男だったなんて、周りの人間はさぞがっかりしているだろうな。  ふと、そう思い知らず知らずのうちに苦笑してしまう。  きっと待ち合わせしている相手は、映画女優かモデルのような可愛い女性だろう、と周囲の客達は予想していたに違いないな、とリチャードは思ったが、口に出かかったその言葉を飲み込む。そんなことを言ったら、きっとまたレイが気にするだろうから。  レイは歩み寄ると「待った?」と言いながら耳からイヤフォンを外すとトレンチコートは着たままで、リチャードが座っているソファの隣に腰を下ろす。 「……」 「何?」  リチャードが無言のままどこかをじっと見ているのに気付いて、レイは尋ねる。  尋ねた後、レイはゆっくりとリチャードの視線の先を見た。リチャードが座っているソファの対面には、テーブルを挟んで空席になっている椅子があった。 「僕が隣に座るの嫌?」 「い、嫌じゃないよ」  リチャードは周りの客達が、興味津々で二人の会話を盗み聞きしているのが気になっていた。 「じゃあ何で? 僕はリチャードの隣に座りたいから、座ってるだけなんだけど。……迷惑ならそっち移った方がいい?」  レイは空いてる席の方へ視線を向けて、冷たい声でそう言う。明らかにその態度は機嫌を損ねていた。 「いや、いい、いい、ここでいい。頼むから怒らないでくれよ」 「リチャードが怒らせるような事言うからだろ」 「……周りの客がレイを見てるから気になって」  リチャードが小声で言うと、レイは驚いた顔をして小声で言い返す。 「何言ってるの? 周りの客が見てるのはリチャードだよ。こんなに男前で格好いい人、他にどこにもいないだろ?」  レイはどこか自慢気にそう言い切る。まるで自分の恋人はこんなに素敵なんだ、と周囲にわざと言いふらすかのような口調だった。  それを聞いたリチャードは思わず顔が火照ってしまい、堪らずに俯く。どうして彼はいつもこんなに真っ直ぐな物言いをするのだろう。たまには躊躇したりしないのだろうか? 「リチャード、顔赤いよ? 暑いんだったらジャケット脱げば?」  レイがリチャードの顔を覗き込んで言う。 「あ、ああ。そうだな」 「コーヒー買ってくる」  レイはそう言うと、すぐに立ち上がってカウンターへ向かった。ひらり、とレイのコートの裾が翻る。その彼の後ろ姿を客達の視線が追っている。彼の一挙一動を見逃すまい、とするかのように。  あまり恋人が目立つ人物だと困るな、とリチャードはカウンターでオーダーしている彼を見ながら思う。  特に知られて困る仲なら尚更だ。  どこで誰が見ているか分からない。自分とレイが勤務時間外に会っていたとしても、仕事上の同僚なのだから、別に不思議はないし気にする必要はないが、あまり親しい様子をおおっぴらにする訳にはいかない。その辺りの線引きをきちんとレイは考えているのだろうか?  たまにリチャードは、こんなに心配しているのは自分だけで、レイは何も考えずにやりたいように自由で勝手気ままにしているんじゃないか、と感じる時がある。自分だけがその彼の行動の割を食ってるんじゃないか、と。  だが賢いレイの事だ、その辺りは折り込み済みの上での行動なのだろう、とすぐに思い直す。  レイがトレイにカップを二つ載せて戻ってくる。 「随分待たせたみたいだから、コーヒーは僕の奢りにしておくよ」  そう言ってカップをリチャードの前に置く。 ――とっくにばれてたか。  目端が利くレイは、テーブルの上に載せられた空のコーヒーカップを見て、すでに状況を悟っていたらしい。  リチャードは、レイが買ってきてくれた新しいコーヒーを一口飲む。 「約束の時間よりも早く着いたの?」  レイはリチャードの隣に座ると尋ねた。 「ああ、少しね」  どれくらい早く着いたかは、あえて言わずにおく。 「30分」 「え?」 「30分ぐらい待ってたと思ったんだけど」 「……どうして分かった?」  時々リチャードは、隣に座る天使が実は人の心が読める悪魔なんじゃないか、と思う。 「店に入ってからコーヒー買って、どこの席にしようか決めて座った後、携帯チェックしながらコーヒー飲み終わるぐらいの時間は待ってたってところだろ?」  テーブルの上の空のコーヒーカップと載せたままだった携帯電話から、そこまで推理したのか、とリチャードは驚く。本当にこの天使はなんて能力の持ち主なんだろう。 「当たりだ」 「ふふ、こんなの初歩の初歩だよ。ねえ、リチャードご褒美は?」  リチャードの耳元でレイが囁く。リチャードは、ジャケットのポケットからチケットを二枚取り出した。 「ご褒美の映画チケット」 「ちぇ、つまらないの。もっといい物貰えるかと思ったのに」 「チケットじゃ不満そうだけど、何なら良かったんだ?」 「キス」  リチャードは思わず飲みかけたコーヒーを吹き出しかけて、慌ててとどまる。 「レイ……こんなところでキスはまずいだろう? 誰が見てるか分からないのに」 「冗談だよ。なに本気にしてるんだよ」  そう言いつつ、レイは映画のチケットじっと見る。 「なんだ、カップル用のソファ席じゃないの? リチャードってば気が利かないな」 「カップル席って……レイ、何言ってるんだよ」 「暗闇の中だったら、こっそりキスしてもバレないよ?」  レイはリチャードに寄り添うように近づくと、顔をじっと見つめて、小さな声で呟くように言った。その表情が何とも可愛くて、リチャードはこの場でなりふり構わず抱き締めてキスをしたら、一体レイはどんな反応をするのだろう? と思ってしまう。  だが、そんな事をしたところで、きっと彼は驚きもせずにけろりとして「リチャード、バレたらまずいんじゃないの? METクビになるよ? 僕は全然構わないけど?」ぐらいな事を言って終わりだろう。

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