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第2案【きっかけは単純でした】 前編
最初に声を掛けてくれたのは、井合課長だった。
『よう! お前が四月から異動してきたクソ童貞だな?』
初めは戸惑いしかなかったのを、今でも怖いくらい鮮明に憶えている。
少年のように愛らしく、天使のような見た目をしているその人が発した言葉は、あまりにも口汚く最低。且つ下劣で、品が無かった。
異動したての俺はなんとなくそれが許容できなくて、上司だというのは分かっていながら、無視をしてしまったほどだ。
なにも言い返さない俺を見て、井合課長は距離を詰めてきた。
『なんだ? 精通もまだなガキじゃあるまいし、返事くらいしろよな!』
『俺の名前は鳴戸怜雄です』
井合課長の目が、丸くなる。
当時、井合課長が課内の職員全員を『クソ童貞』と呼んでいると知らなかった俺は腹が立ってしまい、そんな面白味の無い返答をした。それに対して、井合課長は驚いたのだと思う。
ジッと目を見て返事をした俺に、井合課長は腹を抱えて笑い出す。
『ハーッハッハッハ! 結局、お前がクソ童貞なことに変わりないだろ、バーカ!』
『だから俺は──』
『お前の名前なんて、些事だ! そんなこと、いちいちわざわざ気にしてられるかよ!』
笑いすぎたせいか、涙の出た目元を乱暴にこすった井合課長は、椅子に座っている俺を見下ろした。
そして、口元をニヤリと歪ませて質問を投げ掛ける。
『お前、面白い男だな? 顔に【左遷されました】って書いてあるぞ? そんなに悔しいのか? んんっ?』
営業課に所属してから、俺が結べた契約件数は両手の指で数えられるほどだ。この異動は、仕方のないことだとは思っている。
けれど、心から『悔しい』とは僅かばかりも思っていなかったつもりだ。
『いいえ。悔しいなんて、とんでもないです。この異動は、当然の結果だと思っていますから』
『そうだよな? 業績最下層。上司からは要らない奴扱いされて、当然だよな?』
『……そう、ですね』
『分かってんじゃねーか、クソ童貞!』
なんでわざわざ、そんなことを口に出すのか。井合課長の考えは、分からない。
けれど、反論はできなかった。なぜなら全くもって、その通りなのだから。
業績はいつだって、最下位。営業課でも特別親しい職員がいなかった俺は、包み隠さず言えば【邪魔者】だったと思う。
俺は井合課長を見上げていたが、すぐに小さく頭を下げた。
『ここでは、そうならないように努力いたします』
きっと、この人は俺のことを罵るのだろう。『もう既に邪魔者だ』とか『左遷された奴に期待なんてしてねーよ』とか。……そう、言いそうなイメージだったのだから。
──しかし、実際は違った。
頭を上げた先にあった井合課長の表情は……まさかの【困惑】だ。
『──ハァ? お前は、王様が国民のことを要らない奴だと思う。……そう、本気で考えてるのか?』
『王、様。……はいっ?』
井合課長の言葉は、あまりにも予想外のものだった。
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