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第8案【齟齬が生じましたね】 前編
時刻は夜の、八時過ぎ。……鳴戸怜雄は絶賛、残業中。
ついに明日が、提携審議会が行われる日だというのに……俺は、なにも打ち込まれていない真っ白な画面を、眺めていた。
悲しくて悔しくて恥ずかしいことに、俺はなにひとつとして、いい商品が思い付かなかったのだ。
焦りから『なにか考えなくては』と頭をフル回転させるも、空回り。井合課長が『いい物』と言って渡してくれた書類を眺めても、ゾッとはするがなにも思い付かない。
そうして気付けば、事務所には俺しか残っていなかった。パソコンから発せられる起動音だけが、寂しく虚しく響き渡る。
このまま、帰るわけにはいかない。
けれど、ここに残っていたっていい案なんて……っ。
八方塞がりな状況に、俺は頭を抱えた。
「コーヒーでも飲むか……」
頭をクリアにして、考え直そう。そう思い立った俺は、椅子から立ち上がる。
──そこで、人の気配に気付いた。
「「──うわっ!」」
いつの間にか背後に立っていた人物と、全く同じ驚き方をしてしまう。
「いっ、井合課長っ? いったい、いつからそこにっ?」
そう。背後に立っていたのは、井合課長だ。
驚いた俺を見上げて、井合課長は不機嫌そうに捲し立てる。
「いきなり勃ち上がるのは仕方ないにしても、立ち上がるときは気を遣え! 性欲に目覚めていないガキでもできることだぞ、クソ童貞め!」
あまりにも理不尽すぎる文句に、言葉を失う。
いつもなら『壊れるのではないか』ってくらい力任せに扉を開けるくせに、今日は無音でやってきたらしい。
俺は井合課長を見下ろして、ずり落ちかけた眼鏡を指で押し上げる。
「それは、失礼いたしました。……ところで、どうして事務所に?」
てっきり、もう帰ったものだと思っていた。突然の来訪に、驚くなと言う方が無理な話だろう。
よく見ると、井合課長の手にはコンビニのレジ袋が握られている。井合課長は袋の中に手を突っ込みそこからなにかを取り出した。
「お前の心と体がドロドロのぐっちょんぐっちょんに煮詰まっているかと思って、差し入れをだな……熟考して、買ってきた!」
「えっ? わざわざ、俺のために……ですか?」
「他に誰がいる? ほら、受け取れ!」
精神的に追い詰められていただけに、かなり嬉しい。俺は井合課長から手渡された物を受け取──。
【マムシとスッポン~二匹の出会いが貴方を変える~】
──ってから、丁重にお返しする。とんでもない名前の、栄養ドリンクだったからだ。
俺の動きが予想外だったのか、井合課長は驚きに目を見開いている。
「なぜだ! 色々と元気になるぞ! それによく見ろ! 無色透明だ! イマドキはコーヒーや紅茶ですら事務職に適した無色透明化をしていて、ついに時代は栄養ドリンクまで変化を遂げたと言うのに!」
「そういう落ち込み方はしていないですし、水感覚で飲む代物ではないでしょう!」
「しぼんでいるかと思って色々なコンビニと薬局を回ってきたのに……っ! 失礼だぞ、お前! 謝れ! 俺様の感情と言う未知なるものに対して誠心誠意惨めに謝れ! 土下座しろ、土下座ーッ!」
「貴方にだけは言われたくありません!」
井合課長は心底不服そうに唇を尖らせるも、すぐに別の飲み物を取り出す。
「なら、砂糖とミルクがたっぷり入ったゲロ甘コーヒーならいいのか? ……おっと。『ミルク』と言っても、ザーメ──」
「あぁはいはいありがとうございますッ!」
井合課長の下ネタを遮り、俺は缶コーヒーを受け取る。
……ちなみに、俺はかなりの甘党なのでこのチョイスは凄く嬉しい。
それでもなお不服そうにしている井合課長は無視をして。俺はプルタブを引き、缶コーヒーに口を付ける。それを見て、井合課長はブラックの缶コーヒーを取り出し、飲み始めた。……いったい、その栄養ドリンクはどうするのだろうか。
井合課長は俺のデスクにコンビニのレジ袋を置き、電源が付いたままのパソコンを眺めた。
「約束の会議は明日だが……これは、なんとも酷い進捗だな。目も当てられん」
返す言葉が、ない。俺は、口を閉ざす。
パソコンを眺めていた視線が、デスクの上に注がれる。
俺のデスクを占領しているのは、井合課長から貰った書類だった。
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