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第8案:後編
書類から、性的な情報を得ることはできた。
しかしどれもこれも、使い道が分からない情報ばかり。
ある課長は【思春期に突入した息子の自慰行為が、臭いで分かってしまって気まずい】とか、他の課長は【不倫相手と、挿入を伴わない触れ合い程度の性関係を築いている】とか。……そんなことを知って、俺はどうしたらいい? 顔を合わせたら、気まずい。……くらいの感想しか出てこないのだが?
井合課長は嘆息して、隣のデスクに座る。
「俺様秘伝の情報を、穴が開くほど眺めてくれたのは結構だが……困ったものだな」
重苦しい空気が事務所に広がっていると、分かってしまう。
誰が見ても、分かるだろう。手詰まり、なのだ。
俺は俯き、空になった缶を力強く握る。
「井合課長にとって、大切な知人。それなら俺も、できることはしたいと……本当にそう、思っています」
嘘偽り無い、本心だ。
だけど、気持ちだけではなにも思い付かない。パソコン一面に映し出されている白ささえも、俺を責めているような錯覚に陥りかける。
すると……視界に、別の白いものが入った。
「俺様と増江、共通の知人だと言ったが……あれには少し、語弊がある」
それは、ティッシュだ。井合課長が、差し出してくれている。俺は思わず顔を上げ、椅子に座る井合課長を見つめた。
井合課長は大きな瞳を伏せて、落ち着いたトーンで語る。
「提携したい会社の社長は【増江にとっての大切な人】だ。だからこそ、俺様はなにを賭してでも助けたい」
井合課長の言葉を聴いた、その刹那。
──まるで、頭を鈍器で殴られたかのような、強すぎる衝撃。
井合課長の表情は、いつもの無邪気なそれではない。心から、なにかを憂いているような。……そんな、切なげな表情だ。
──それが、誰のために浮かべられた表情なのか。……気付くと同時に俺は、涙が出そうになったのだ。
「俺は、井合課長のために……っ。商品を考えようと、そういう気持ちでした……っ」
──金色の瞳に映し出された、眼鏡を掛けた青年の表情は……なんて、醜いのだろう。
「──貴方は、違うんですかッ! 自分のためじゃなく、増江課長のためだったんですかッ!」
小さな肩を乱暴に掴み、俺は力任せに叫んでしまった。
醜い青年の表情は、怒りに歪んでいて。『お前にもそんな顔ができるのだな』と、青年本人でさえも驚きだ。
目を丸くしている井合課長を睨み付け、俺は『駄目だ』と分かっているのに。……言葉が、溢れて止まらない。
「増江課長は企業との提携を締結させた後、自ら撤廃したんですよっ? なのにッ、どうして貴方が尽力するんですかッ! 増江課長は、貴方の思いやりを台無しに──」
「──おい」
視線の先に居る井合課長が、俺の言葉を遮る。
──その視線が、あまりにも冷たい。
「──それは【俺様に対する不満】か? それとも【増江に対する陰口】か?」
小さな手が、肩に置かれた俺の腕を、力強く握る。無論、大した握力ではない。
──けれど……胸が、痛かった。
「お前は、王命を受けた。そして、今の今まで身を削っていただろう。なのに、途中で放棄すると言うのか?」
「それは、井合課長のため──」
「俺様が! 知人を助けるためだ。お前の言い分と、なにが違う?」
なにも、違いなんてない。きっと、井合課長はそう思っているのだろう。
確かに、井合課長が『知人を助けたいから』と。俺はそう、思っていた。そして、それは変わっていない。
──けれど、大いに違う。
──井合課長は【増江課長のために】知人を助けたいと、思っているのだから。
押し黙った俺を見上げて、井合課長はわざとらしく嘆息する。
そのまま……一言だけ、呟く。
「──俺様は、馬鹿だな」
俺の心に深く、杭のように。
その言葉は鋭く、真っ直ぐと突き刺さった。
第8案【齟齬が生じましたね】 了
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