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第1話

 その日、ひとりの男が地獄の入り口にやってきた。路上に飛び出した猫を助けようとして車に撥ねられたらしい。  閻魔卒と呼ばれる鬼たちに左右の腕を取られ、閻魔大王の前に座らされた男の顔を見た瞬間、ロクはひゅうっと息を呑んだ。  ――まさか……桔(きっ)ちゃん?  閻魔卒は閻魔大王の使者で、現世で罪を犯した人間を大王の前に連れてくるのが仕事だ。 「名前を名乗りなさい」  閻魔大王の低い声が響く。頭上に載った『王』の帽子は、彼が地獄の裁判官である証。高さ五メートルはあろうかという巨大な椅子に大王が鎮座するこの場所は、罪人を裁く白洲のような場所だ。  筆で刷いたような太い眉、蓄えられた口髭、威厳のある眼光、三メートルを優に超える大きな身体。大王の姿を目にした瞬間、罪人たちはみな恐怖に震え出す。泣きながら命乞いを始める者も少なくないのだけれど、その男は震え出すことも命乞いをすることもなく、正面の大王をじろりと睨み上げた。 「ここはどこだ」 「地獄の入り口だ」 「地獄? なんの冗談だ。というかあんたは誰だ」 「我が名は閻魔。お前をどの地獄へ送るかをこれから決める」  腹の底に響くような大王の声に、その男は目を眇めた。 「悪いが冗談に付き合っている暇はないんだ」  死を意識する間もなく一瞬で命を落とした罪人の中には、自分の身に起こったことが理解できないまま、閻魔卒に連れてこられる者もある。 「名前を名乗りなさい」 「とっとと俺を元の場所に戻せ。戻せないなら帰り道を教えろ」 「名前を名乗りなさいと言っているのが聞こえないのか」  大王に再三促され、彼は仕方なさそうに「黒澤(くろさわ)桔平(きっぺい)だ」と答えた。  ――やっぱり桔ちゃんだ!  きりりとした強気な目元、涼やかな瞳。身体こそ大きくなったけれど間違いない。今、目の前に桔平がいる。ロクの胸はトクトクと鳴った。  ――あの頃もかっこよかったけど、もっともっとかっこよくなってる! (桔ちゃん、桔ちゃん、僕だよ、ロクだよ!)  黒猫のロクは「みゃうん!」と喜びの鳴き声を上げ、閻魔大王の肩から飛び降りた。しかし桔平はロクを一瞥しただけで、すぐにまた大王に視線を戻してしまった。  ――そっか……桔ちゃん、僕のこと忘れちゃってるんだった。  ロクはしゅんと尻尾を丸め、大王の肩に戻った。  でもなぜ桔平がこんなところに堕ちてきたのだろう。酒を飲んだというだけで地獄に落とされていた時代は遙か昔。今はよほどの罪を犯さない限り、ここへ堕ちてくることはないはずだ。 「生年月日を答えなさい」 「一体俺が何をしたっていうんだ」 「いいから答えなさい」 「仕事があるんだ。ふざけていないで早く元の場所に戻せ」  名前以外答える気はないらしく、桔平は鋭い視線で大王を睨みつけ、奥歯をギリっと鳴らした。真一文字に強く閉じられた口元は、彼が不満を覚えている証拠だ。大王は表情を変えない。桔平が〝あの時の少年〟だということに気づいていないらしい。 「おのれ、大王さまになんという口の利き方」  閻魔大王の前で反抗的な態度を取る者は珍しい。色めき立った閻魔卒たちが桔平の首に手をかけ締め上げようとする。  ――やめてっ!  みゃうっ! とロクが悲鳴を上げると、大王が「よせ」と彼らを止めた。 「お前たちはもう下がれ」  大王の命令は絶対だ。二匹の閻魔卒はすーっとその姿を消した。  大王の正面には八つに枝分かれした道がある。生前に犯した罪の重さによって「等活地獄」「黒縄地獄」「衆合地獄」「叫喚地獄」「大叫喚地獄」「焦熱地獄」「大焦熱地獄」「阿鼻地獄」、八つの地獄が待っている。犯した罪の重さを見極め、そのいずれに送るのかを決定するのが、閻魔大王の役目だ。  しかし近年、現世に生きる人間の数が増えるのに従って、罪を犯す者も増えた。日々連行されてくるたくさんの罪人を、大王ひとりで裁くことは事実上困難になった。そこである時から大王は自分の下に数名の閻魔を置き、罪人を裁かせることにしたのだ。  ロクもその中のひとり(一匹)なのだが、ネズミ一匹殺せない性格が災いし、一人前になれる目途は立っていない。大王のもとにやってきて十九年。間もなく二十年になろうとしているのに、残念ながら未だ修業中の身だ。 「さて」  大王が振り向く。ロクは大王の広い肩から丸太のように太い腿の上へと飛び降りた。 「お前はどう考える」  問いかけに、ロクは大きくひとつ深呼吸をした。相手が桔平だから――現世で唯一の友達だった人だからといって、私情を交えることは許されない。  ここは地獄の裁判所。見習いとはいえ、ロクは裁判官なのだ。 (大王さま、この男からは〝罪の気〟がまったく感じられません。何かの間違いで、ここへ堕ちてきたのではないでしょうか)  ロクの考えに、大王はグローブのような手のひらで、「うむ」と髭をひと撫でした。  罪の気というのは、罪を犯した人間が放つ独特のオーラのようなものだ。罪人たちが次々に堕ちてくるこの場所、地獄の白洲には、常に罪の気が満ちている。  罪人は必ずと言っていいほど嘘をつく。閻魔はそれを見抜き、犯した罪に応じた地獄に送る。大切な何かを守るためにつく嘘もあるが、大抵は保身や自己弁護のための醜い嘘だ。中でも見逃してはならないのは、誰かを傷つけるためや陥れるための嘘で、それらは必ず濃い罪の気を纏っている。顔色ひとつ変えずに嘘をついたつもりでも、閻魔の目をごまかすことはできない。 「手違いがあったというのか」 (はい。多分)  私情は禁物とわかっているが、ロクにはどうしても信じられなかった。閻魔大王が直々に裁くのは、殺人や強姦など特に重い罪を犯した者たちだ。ロクの記憶にある桔平は十歳の子供で、二十九歳の大人になった彼に会うのは初めてだけれど、彼が大王の裁きを受けるような重罪を犯したとはとても思えなかった。 『ロク……お前、ホントいつもぬっくぬくだな。ずーっと抱っこしててもいいか?』  そう言う桔平の懐も、いつだってぬっくぬくだった。  強くて優しくてかっこよくて。  ――あの桔ちゃんが罪を犯すなんて……ありえない。  大王はもう一度「うむ」と髭を撫でると、傍らの大きな鏡に視線をやった。浄玻璃と呼ばれる水晶の鏡には、生前に犯した悪行が洗いざらい現れるはずなのだが、いくら待っても罪を犯す桔平の姿が映し出されることはなかった。 (ね、申し上げた通りでしょう? 大王さま)  みゃおん? と見上げると、食い入るように浄玻璃を見ていた大王が振り向く。 「うむ。確かに罪を犯してはおらぬようだ」 (そうでしょう! そうでしょうとも!)  ロクは大王の太腿の上で飛び跳ねた。 「確かにお前の言う通り、この男からは罪の気を微塵も感じない。何か手違いがあったのであろう。すまなかった」  そう言って大王は、パンとひとつ手を叩く。その合図に、傍らに控えていた別の鬼が一匹、前へ出た。獄卒と呼ばれる彼らは、閻魔大王の指示で罪人を地獄へ導き、命じられた通りの罰を与える役目を担っている。 「手違いがあったようだ。黒澤桔平を天道へ案内しろ」 「かしこまりました」  獄卒は大王に一礼すると、桔平に「立て」と促した。 (待ってください!)  ロクはもう一度飛び跳ねる。  天道へ案内する。それはつまり桔平を天国に送るということだ。  地獄へ送られるよりは百万倍マシだが、桔平が死んでしまうことには変わりない。ロクは大王の膝から飛び降りると、浄玻璃のスイッチを「現在」に切り替えた。 「これ、勝手な真似をするでない」 (大王さま、これをご覧になってください)  そこに映し出されているのは今この瞬間の現世の様子だ。桔平は救命救急センターのベッドに横たえられ、医師たちの懸命な心臓マッサージを受けている。  閻魔卒たちは、桔平の生命が完全に尽きる前に連れてきてしまったらしい。  ――なんの罪も犯していない上に、死んですらいないのに連れてきちゃうなんて。  前代未聞の連続ミスだが、それならまだ間に合う。  ――今ならまだ、桔ちゃんは現世に戻れる。  ロクは大王の肩に飛び乗ると、その耳元で捲し立てた。 (彼はなんの罪もないのに、地獄に送られるかもしれないという恐怖を味わいました。僕たちの過ちで恐ろしい思いをしたのです) 「恐ろしい思いをしているようには見えぬぞ。先刻より私を睨みつけておる」 (強気な顔をしていても、こっそりチビっちゃってるかもしれません。お詫びとして、どうか現世に戻してやってはもらえないでしょうか) 「現世にだと?」  閻魔大王がその太い眉をぐっと寄せた。ロクはヒッと小さな身体を竦ませる。十九年間傍に仕えていても、間近で睨まれるとチビりそうになる。 (彼は自分の命を犠牲にして、道路に飛び出した猫を助けたんです。稀に見る善行です。誰にでもできることではありません)  地獄の入り口まで来た者を現世に戻したなどという話は聞いたことがない。  それでもロクは必死に大王を説得した。 (お願いです、大王さま。彼はまだ死んでいません。お医者さんたちも諦めていません)  医師たちは汗を拭うのも忘れ、心臓マッサージと電気ショックを続けている。 (大王さま!)  ロクはひときわ高い声で、みゃおうん! と鳴いた。 「わかった」と閻魔大王が大きく頷いた。 「お前がそこまで言うのなら」 (ありがとうございます! ありがとうございます、大王さま!)  喜びのあまり、ロクは大王の胸にむぎゅっとしがみついた。何が起きているのかわからないのだろう、桔平は大王とその胸でみゅうみゅう鳴く黒猫を交互に見やる。 「黒澤桔平。お前は罪を犯していないのに誤ってここ、地獄の入り口で裁きを受けることになってしまった。よって特段の計らいによって現世に戻すことにする」 「元の場所に戻してもらえるんだな」  桔平の顔にようやく安堵の色が浮かんだ。 「ただし目付け役として閻魔をひとり同行させる。もしお前が罪を犯したり、嘘をついたりすることがあれば、ただちに閻魔卒を遣わしここへ連れ戻す」 「なんでもいいから早く戻してくれ。俺は忙しいんだ」 「せっかちな男だな」  大王が肩を竦めた。浄玻璃の中の医師が『心拍再開! 心拍戻ったぞ!』と叫ぶ。同時に桔平の輪郭が霞み始め、淡くなり、すーっとその場から消えた。 (現世に戻ったのですね)  閻魔大王は深くひとつ頷き、ロクの方に向き直った。 「……黒澤桔平。十九年前にお前が命を救った少年だな」  ロクはまたひゅうっと息を呑んだ。 (お、お気づきだったのですね) 「私を誰だと思っておる。こんなところで再会することになるとは、お前はあの男とよほど縁があるとみえる。ロク、お前をあの男の目付け役に任命する」 (……え?)  ロクはきょとんと首を傾げる。 (僕が、ですか?) 「これは千年に一度あるかどうかという、特例中の特例だ。私が無実と判断し現世に戻した人間が罪を働くようなことが、万にひとつもあってはならない。よってひと月の間、お前が目付け役として黒澤桔平と行動を共にし、監視するのだ。もしも罪を犯したり嘘をついたりするようなことがあれば――」 (わかりました! お任せください!)  大王がみなまで言い終わる前に、ロクは飛び上がった。 (ありがとうございます! ありがとうございます、大王さま!)  精一杯頑張りますと全身で訴えるロクに、閻魔大王は太い眉をハの字に下げた。 「ロク、お前には落ち着きというものが足りない。そんなことではいつまで経っても立派な閻魔になれぬぞ」 「みゃおうん!」 「ただし長期間罪の気を浴びずにいると、嘘を見抜く勘が鈍り、閻魔に戻れなくなる。期間はギリギリひと月だ。相手が誰であろうと、監視の手を抜いてはならぬぞ。よいな」  ひと月も、桔平の傍にいられるなんて。  また桔平と同じ空気を吸い、同じ時間を過ごすことができるなんて。  ――夢みたいだ。  十九年前、十歳の桔平と仔猫のロクはいつも一緒だった。言葉こそ交わせなかったけれど心は深く通っていた。複雑な家庭環境に翻弄されながらも強くて優しい桔平に、ロクはほのかな恋心を抱いていた。  ――桔ちゃん……。  うっとりと目を閉じるロクの耳に、閻魔大王が「早く支度をしなさい」と囁いた。

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